第47話

「――私にはお兼殿は落ち着いた、懐の広い女子にしか思えなかったがな。人とはわからぬものだ」


 うっすらと暗い帰り道、親信は思わずつぶやいていた。

 幸之進は親信の方を見ずに正面に目を向けたままでいた。いつものふざけた様子はない。


「そうした一面も持ち合わせてはいるのだろう。けれど、そればかりでは生きられなかったということやもしれぬな。この時世では、女子は翻弄されるばかりだ」


 そうした憐れみ深いことを言う。当の兼に言わなかったのは、火に油を注ぐように、かえって怒りを煽る結果になってしまうからかもしれない。


「誰しも心に薄暗いものを抱えておる。本来ならばそれを暴き立てるようなことはすべきではない。ただし、それは周りに害がなければの話だな」


 そう語る幸之進の横顔には、見通せない何かがあった。

 ずっと年下の男なのに、親信とは何が違うのだろう。幸之進はどこまでも不可思議だ。


「しかし、要らぬ恨みを買った。お兼殿はおぬしの身元を探るのではないか? 暴かれてもよいのか?」


 幸之進は足を止めた。立ち止まり、数歩先を行って振り返った親信に、幸之進はにっこりと微笑んでみせる。


「もし、お兼殿が探り当てることができたのならたいしたものだ。それも一興」

「そうなったら家に帰るか?」

「もしかすると、そうなるやもしれぬな」


 案外あっさりと答えた。そのことに親信の方が拍子抜けしてしまう。

 これは単なる強がりだろうか。


「それならば、面倒が起こる前にさっさと帰った方がよいのではないのか?」

「いや、面倒ならば常にあるのでな。ひとつくらい増えてもさしてかわらんというだけのことだ」


 家のこと。

 斬りつけた侍のこと。

 そこに兼が加わったとしても構わないのか。

 親信ははぁ、と嘆息した。


「そうだな。今さらか」

「うむ。お兼殿のような女子は、俺以外を狙わぬだろう。親信殿や子供たちを巻き込むようなやり方はせぬだけの矜持は持ち合わせておる」


 多分、そうなのだろう。

 兼は子供の頃に苦労をしたのだから、弱い子供を狙ったりはしない。それは親信も思うところだ。


 しかし、幸之進が狙われたら、結局のところ親信が助けなくてはならなくなるので同じことのような気もする。

 そう考えたことを幸之進はどこまで察しただろう。


「親信殿のように後ろ暗いこともなく生きている御仁の方が少ないのだ。親信殿は立派だな」


 嫌味なことを言う。誰しも抱えていると言ったばかりだろうに。


「――いいや、暴かれたくないことのひとつふたつは持ち合わせておる」


 親信とて、そう綺麗な水の中を泳いでいたわけではない。泥水の中、前も見えぬままにもがいているのは今も同じだ。

 苦々しく言うと、幸之進は目を瞬かせた。


「おお、そうなのか。親信殿のし方に俄然興味が湧いたぞ。今でこそ二人の子の親だが、昔は女子を手玉に取って遊んでいた時期があったのだな?」


 そんなことは言っていない。

 これはいつもの軽口だとわかっていても、親信はムッとして早足で進んだ。それに幸之進が小走りでついてくる。


「気になるな。親太郎はもちろん、加乃殿も昔の親信殿を知らぬのだろう?」

「うるさい」

「気になるなぁ」

「――――」


 幸之進はずっとこんな調子で、親信はそれを振りきりながら帰った。



 そうして、帰るなり幸之進はぐい吞みを手に微笑む。


「親信殿、俺は今日、半治殿の酒盛りに付き合いたいので留守にする」


 一人酒の邪魔をしに行くらしい。

 寂しく飲むのもいいが、こんな時くらい静寂を邪魔する妙な男がいてもいいのかもしれない。幸之進の騒がしい声が、こんな時くらい役に立てばいい。

 そうだな、とうなずきかけて、親信はふと気づいた。


「器だけ持って、酒は半治のか? さすがにそれはよせ。今、買ってくる」

「親信殿は気が利くなぁ」

「お前ほど図々しくはなれん」

「俺の金ではないのか?」

「そういうことではなくて――」


 そんなやり取りをしつつ、酒屋に走り、親信は酒を持たせて幸之進を送り出したが、下戸の親信にはあがなった酒が美味いかどうかまではわからない。

 それでも、隣から聞こえてくる酒盛りの声は楽しげで、半治も少しは気が楽になったのだろうかと思えた。幸之進も、たまにはいいことをするものだ。


 その明るい声を聞いていると、先ほどの帰り道に茶化されたのは、もしかすると暗くなりがちだった親信のためであったのかという気がしてきた。


 隣から漏れ聞こえる騒がしい声を聞きながら、親信は床に就いた。



     【 漆❖すれ違いの九月 ―了― 】

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