第65話
それからひと月余りが過ぎた。
外は寒いが、長屋の中も寒い。親信は子供たちと身を寄せ合い、日々暮らした。
幸之進が去って、以前の暮らしに戻ったのだ。最初はやはり寂しくて、毎日のように親太郎が夜具に潜ってすすり泣いていた。
それでも、最後に涙を見せずに別れたことは偉いと思っている。だから、それを咎めるようなことは言わない。泣き声も聞かなかったことにしてやるのだ。
それでも、どんなことでも、時が経てば痛みは和らぐ。
ひと月経つと、加乃も親太郎も少しずつ以前の暮らしを思い出してきたようだった。
「父上、いってらっしゃいませ」
「ちーうえ、いってらっしゃいませ」
姉弟が三つ指突いて送り出してくれる。徐々に親太郎の言葉もはっきりとしてきたように思う。自分が老いていくように、子供もまた育っていくのだとしみじみと感じた。
あれからひと月、幸之進は屋敷でどうしていることか。
忙しい大目付はそれほど屋敷に長くいることはないだろうが、顔を合わせるとは悪態をついているに違いない。
そんな様を思い浮かべ、親信は長屋の外で少し笑った。
「向井様、いってらっしゃいませ」
外で出会った多摩がにこやかに挨拶してくれた。
「うむ、行って参る」
「加乃ちゃんたちのことは気にかけておきますから、どうぞご心配なく」
「ああ、ありがたい」
多摩はこのところ、以前よりも朗らかになったような気がする。抱えていた心配事がなくなったのは夏頃のことで、そればかりが理由ではないだろう。年頃の娘が変わるとしたら、考えられることは色恋というところだろうか。
そういえば、以前はまったく寄りつかなかった半治ともたまに立ち話をしているのを見た。話してみたら、そう怖くないと気づいたのかもしれなかった。
王泉寺に行き、沙綾の墓に手を合わせる。
多分、親信はずっと、後添えをもらうことはない。
先の人生がどの程度の長さであるのか、今の親信にはわからないが、沙綾以上に想える相手というのが思い浮かばない。だから、独り身を通せばいいと思うのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、
「おはようございます」
「ああ、向井様、おはようございます」
相変わらず穏やかで、接していると心が洗われる。才真和尚は深い目を親信に向ける。
「次の
梅、寛太、貞市は親信のところを巣立つ。
梅は母親を助けるべく、通いの奉公に出るらしい。寛太はかねてよりの約束である藤庵のところに弟子入り。貞市は家の手伝いをしながら商いを学ぶのだそうだ。それぞれにやることを抱えている。
五年もしたら皆、立派になっていることだろう。親信はたいしたことを教えられていないが、こんな師匠のところに通ってくれたことが今さらながらにありがたく思えた。
幸之進が言ったように、別れは必ずやってくる。それでも、出会いに意味を持たせることが大事なのだ。出会いから学び、別れから学び、そうして周りの人々から必要とされる大人になってほしい。
親信も今では、手習所で少しばかり肩の力を抜けるようになった気がする。
幸之進ほど適当な男がいるくらいだから、親信などはそこまで肩肘を張らずとも平素のままで十分真面目なのだ。子供たちとの接し方に悩むほど、子供たちは親信の言うことを鵜呑みにしないで自分で考える力も持っている。
あんな男でも、知り合って、そしていなくなって、すべて片づいてみれば皆がよい方へと歩み始めていた。あれは本当に不思議な男だったとしみじみ思う。
そうして――。
「只今戻った」
子供たちの楽しそうな笑い声が戸を突き抜けて聞こえた。二人で何を話しているのやら。
がらり、と戸を開ける。
すると、ふんわりと甘い匂いがした。その匂いの正体は焼き芋であった。あたたかい焼き芋を、子供たちは手に持って暖を取っていたのだ。
あまりのことに、親信の目が点になった。
焼き芋のせいではない。焼き芋を抱える親太郎を膝に載せた男のせいだ。
「おお、親信殿、おかえり」
出て行った時の古着に竹光ではない。買い戻したのか業物の太刀を差し、散し紋の小袖に乱れなく結い上げた髷。何より、端整なその白面――。
どこからどう見ても、貧乏長屋に似つかわしくない若侍がそこにいたのだ。膝に親太郎を載せて笑っている。
言葉が出てこなくなった親信に、
「うむ、息災のようで何よりだ。土産は焼き饅頭か焼き芋かで悩んだのだが、芋にした。皆で食おう」
あの別れはなんだったのだと詰め寄りたくなるのをグッと堪えた。それでも、親信は低い声で言う。
「ひと月だ」
「長いひと月であったな」
たわけたことを言う。まさか、また家出をしてきたわけではないと思うのだが。
「おぬしは気晴らしで軽々しく来たのやもしれぬが、うちの子供たちはそうしておぬしが来れば、またそのうちに来てくれるのではないかと待ってしまう。やっとのことで別れたというのに――」
親太郎は、また会えた幸之進がすぐに行ってしまうと知り、今度はしょんぼりとした。ほら、そういうことになるから、そうやたらと会いに来るものではない。
しかし、幸之進にはそんな理屈は通用しなかった。平然と言い返してくる。
「いや、俺は最初からこのつもりをしておった」
「は?」
「親信殿。来年の
新たに手習弟子を入れなければ
一体何を言うのかと、親信は唖然とした。しかし、この幸之進という男は、親信の考えと外れたところにいるのだ。
それを忘れていたわけではないのだが、忘れていた――のかもしれない。
「このひと月、父上や家の者と話した。俺は別れが嫌いだと」
「そ、それは――」
「馬之介兄上は、微禄であろうとも浅霧家の嫡男だから、うちに来てもらうのを泣く泣く諦めたのだ。しかし、親信殿は幸い、仕官しておらぬ。まあ、手習所や長屋の皆のこともあるのでな、急に引っ張っていってはいかんと思い、少ぅしの間だけ我慢することにしたのだが、如何せん寂しくてな――」
と、幸之進は親太郎に頬ずりする。親信はこの寒い中、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
いつからだ。
どこから、この男の術中にはまってしまったのだろう。
幸之進は、にやりと不敵に笑った。
「父上から快諾を得た。まずは
大目付は、息子の機嫌を取るために玩具を買い与えるようにして答えたのだろう。
その光景が目に浮かぶ。
夢に見た仕官が叶う――はずなのに、ちっとも嬉しくない。むしろ、嫌だ。
幸之進は、家に戻ると決めた時には親信を召し抱えるつもりでいたのだ。そのために大目付に目通りさせたかったのだ。そのことに気づかず、のこのことついていった親信が浅はかだった。
別れは告げない、また会えると、幸之進は言っていた。端からその腹積もりだった。当人がずっとそう言っていたのに、意味を受け取り損ねたのだ。
「じ、辞退仕る」
加乃の将来を思うと、この申し出を受けてはならない。この男は、冗談のような口ぶりで冗談を言わない時があるのだから。
「親信殿、それならば俺が自ら出ていった時に放っておけばよかったのだ。そうしていたら、俺は諦めていた」
そこを突かれると、何も言い返せない。好んで関わったのは親信の方だと。
幸之進はにこり、と美しく微笑むと、嫌なことを言った。
「そもそも、大身旗本の嫡男直々の申し出だ。断れると思うのかな?」
大目付に性根が歪んでいると言ったのはどの口だ。しっかり受け継いでいるではないか。
「なあ、親太郎。俺がもっと容易く会いに行けるところに引っ越してきてくれるか?」
膝の親太郎に問いかける。親太郎は笑顔でうなずいた。
「あい」
それは意味がわかっていないからだ。しかし、幸之進は加乃にも振る。
「加乃殿も来てくれるな? ほら、約束もあることだから」
約束というのは、考えるのも嫌なものだ。加乃はぽっと頬を赤らめた。
加乃には悲しい思いをさせたくない。仕合せになってほしいというのに、この男はその邪魔をする。
しかしだ、加乃は――すでに手遅れなのだろうか。嫌そうには見えない。
親信は頭が痛くなった。
結局のところ、逃れられる気がしない。
それは楽しげに、奔放に、幸之進は親信たちを巻き込んでいく。
あの日、土間に倒れていた手負いの幸之進を放り出さなかった時点で手遅れなのである。匿ったのが最後だ。
「ほら、親信殿は腕が立つ故に、俺の護衛として連れ歩ける。たまには皆できなこ長屋に遊びに行かねばな。――ああ、ほら、焼き芋が冷めてしまう。親信殿、芋は喉が詰まるので茶を淹れてくれ」
図々しいと言いたいが、家臣になったら余計に逆らえなくなる。
親信はため息をつきながら茶を沸かすのだった。
沙綾がいたら、この顛末をどう思うだろう。
「うむ、美味い。
――よくよく考えてみると、いつだって幸之進は人の言うことなど聞かない。立場が変わっても、それは変わりないのだろう。
それでも、町人の暮らしを守ると言った言葉を信じてみよう。
この男に振り回されながら、何か
焼き芋を美味そうに頬張る若侍を眺めつつ、親信は苦笑するのだった。
引っ越すにも荷物は少ないな、と。
【 手負い侍、匿いて候 ―完― 】
これにて完結です。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!
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