第13話
すると、親信の部屋の前にはいつかと同じような人だかりができていた。ただ、戸が全開ではなく、ほんの隙間が開いている程度なのは、幸之進が熱を出しているからだろう。長屋の皆も幸之進を案じてくれているらしい。
言いふらしたわけでもないのに、何故こうも早く話が筒抜けになってしまうのかと首をひねりかけたが、この貧乏長屋の薄い壁の前には隠し事などできたものではなかった。
「ほら、どいたどいた。病人はどこだ?」
藤庵が店子たちを散らす。表に人垣を作られては部屋の中が暗くなる。気にしてくれるのはありがたいとしても診察しにくい。
「うちの中におります。朝から熱があったようで」
親信がため息交じりに言うと、藤庵は障子に手をかけながら振り返った。
「うん? 細君を亡くして喪が明けた途端にもう新しいのを見つけたのか? 堅物かと思えば意外な。まあ、子供たちのためには女手も必要か」
「誤解されておりますっ。熱を出しておるのは侍ですっ」
いきり立つ親信の背に、半治がまあまあ、と声をかけた。
「藤庵先生、後はよろしくお願い致しやす」
半治も気にはなるようだが、長屋の皆をシッシと追い払いながら自分も引いた。
親信は嘆息しつつも藤庵を中へ入れる。
「父上、おかえりなさいませ。藤庵先生、ようこそおいでくださりました」
加乃は丁寧に頭を下げる。親太郎もそれに倣って手を突いた。藤庵は二度ほどうなずいてみせる。
「亡くなった沙綾殿に似てよい子らだ」
それはどういう意味だと言いたいが、今は言わない。
日が落ちかけて薄暗い部屋の中、夜具の上でぐったりとしている幸之進の額には濡れた手ぬぐいが置かれていた。加乃が冷やすつもりで載せたのだろう。本当にできた子だと、親信ですら思う。
藤庵は畳に薬箱を置くと膝を突き、幸之進の顔を覗き込んだ。藤庵の丸めた背中に親信は言う。
「実は、少し前に腹に刀傷を受けておりまして、それがもとやもしれませぬ」
ふむ、とうなずくと、藤庵は夜具をめくった。急に寒くなったせいか、幸之進は寝顔をしかめる。
しかし、藤庵はお構いなしに幸之進の襟を広げ、腹に巻いてあるさらしをゆるめた。傷を押さえてある手ぬぐいを外すと、そこには固まった血がこびりついていた。そして、まだ新しい血もついている。
「雑な手当てをするから治りが遅いのだ。傷は清潔に保て。あと、動き回らせるな。傷を洗うので、湯を沸かして手ぬぐいを煮しめてくれ」
「は、はいっ」
加乃が立ち上がって支度をしようとしたので、それを制して親信は長屋の誰かにもらい火をさせてもらえないか頼みに出た。すると、皆は隣の部屋に潜んでいたらしく、すぐに飛び出してきた。
「夕餉の支度をするのに鍋を火にかけてちょっと出てきたところだから、お湯なら湧いてるんじゃないかねぇ。味噌汁にする前でよかったよ。手ぬぐいをくらくら煮てから持っていくから、チカさんはユキさんについてていいんだよ」
みちがそんなことを言ってくれた。いつも頼りになる。
「すまぬ。恩に着る」
礼を述べつつも、やはりどうして自分が幸之進のためにこう骨を折っているのやらと引っかかってしまう。しかし、自然と体は動くのだ。何故だ、何故だ、と考えるよりも先に体が動き、救う手立てを探した。
誰が相手でも放ってはおけないけれど、幸之進に関しては、どうにも素直に受け入れがたい。それは幸之進がああいう性質だからだろう。
ふざけて人を食った男だから、元気になったらまた憎らしいことも言い出すはずだ。へらへらと笑いもせず、苦しげに眉根を寄せては唸っている、あの顔が幸之進らしくない。
腹が立つ言動ばかりだが、減らず口を叩ける程度には回復せねば、こちらも言い返せないのだ。
とにかく、早く床抜けしてもらわねば邪魔でもある。困ったものだ。
親信が部屋に戻ると、土間に立った加乃が不安げに見上げてくる。その頭を撫でながら、親信はそっと微笑んだ。
「平気だ。この男はしぶといのでな」
すると、その時、親太郎が大声で泣き始めた。本当に唐突で、親信はぎょっとしてしまった。
加乃はいつもならそんなことはしないのだが、履物を雑に脱ぎ捨てて親太郎を抱き締めた。
「泣かないの。幸之進様の傷に障るでしょう?」
藤庵はそんな子供たちを幾分柔らかな目で眺めつつ、抑えた声を出した。
「それくらいではなんの障りにもならん。まあ、思い出したかのぅ?」
「思い出し――?」
何を思い出したのかと考えてハッとした。
他の誰でもない母親のことだ。沙綾が病床にあって、親信はいつも子供たちになんと言っていただろうか。
母上は平気だと、そんなことばかり言っていたのではなかっただろうか。親太郎は幼すぎて覚えていないと思っていたけれど、覚えていた。平気だと、親信がつき続けた嘘を、嘘だと知った。
だから、親信が平気だと言ったから、幸之進は
親太郎はそう受け取ったのかもしれなかった。
なんと不甲斐ない父親だろうか。親信は泣きじゃくる親太郎を加乃から引き取り、抱き上げた。
「言葉の足らぬ父ですまぬな。しかし、本当に幸之進はこれしきで死にはせん。何せ悪運の強い男だから」
死ぬならとっくに死んでいた。それがこんなところへ逃げ込んでくつろいでいたのだから、悪運は強いはずなのだ。
親太郎があまりに泣いたからか、幸之進がうっすらと目を開けた。
「親太郎、そう泣くな。もし俺が死んでも、ちゃんと枕元に立ってやるからな」
「やめんか。大体、そんな減らず口を利く亡者など、三途の川の手前で追い返されるぞ」
「親信殿の枕元には三番目に立つつもりだったのに、残念だ」
弱っているくせに、こいつは――と親信が苦虫を噛み潰した顔を向けていると、藤庵が目を瞬かせた。
「おお、活きのいい怪我人だ。顔だけ見ているとどこぞ芝居小屋の
余計な詮索はしないつもりだというのだろう。それはありがたい。
煮締めた手ぬぐいが来た頃には、藤庵によって熱さましの薬を飲ませてもらい、傷口を清潔にし、膏薬をたっぷりと塗って新しいさらしを巻いた。
「若いのでな、体力もある。しばらく薬を飲ませ、傷口に薬を塗る。それを繰り返しておればじきによくなる。ただし、安静にな」
その〈安静に〉が殊のほか難しいのだが。
「今日はありがとうございました。金は明日お持ちします」
まだ、小判を両替商で崩していなかった。明日にでも行って、その足で藤庵の家に届けよう。
藤庵はクッと小さく笑った。
「金はできてからでいい。子供たちの
顔は怖いが、心根は優しい。逆に、顔が優しくて心根が不味いのでなくてよかった。
沙綾の時も散々待ってくれて、随分と助けられたものだ。助からず、薬代の支払いだけが残った後でも融通してくれたのだった。
「先生、ありがとうございました」
加乃が礼を言えば、泣き止んだ親太郎もなんとかそれを真似る。
「あーがとうござーまった」
下駄を履きながら振り返った藤庵の目は、いつもよりもどこか柔らかく見えた。
「ではな。春とはいえ、あたたかくして風邪などひかぬようにな」
我が子のいない藤庵は、子供の扱いが上手いとは言えない。いても上手くない親信には言われたくないかもしれないが。
なかなか子供に懐かれないからこそ、親に言われずともちゃんと自分から話しかける加乃たちを、藤庵なりに可愛らしく思ってくれている気がした。
見送ろうかと外へ出た親信を、藤庵はあっさりと入り口で止めた。
「ほれ、見送りはよい。病人についていてやらぬか」
「は、はい」
去りゆく背中を戸口から見守る。少し暗くなってきているけれど、まだ歩けるだろうか。
親信はひとつ嘆息すると戸締りをした。
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