第14話

 そして、その翌朝。

 熱さましが効いたのか、幸之進の熱はすっかり引いていた。


「朝餉は粥にしましょうか?」


 加乃が嬉しそうにそんなことを言った。皆が幸之進に合わせてやることはないと思うのだが、多分、加乃も親太郎も幸之進と一緒に粥が食べたいのではないかという気がした。


「そうだな。粥にしておこう」


 それなら、自分も付き合ってやろう。加乃の笑顔を前に、親信も微笑んだ。




「うむ。美味いなっ。床抜けの後の飯はどうしてこんなに美味いのだ?」


 米を頬につけながらガツガツと粥をかっ込む幸之進に、親信は白けた目を向けた。


「それは腹が減っているからだろうが」

「ああ、なるほど」


 ポリポリ、ズズッ。


 歯応えのある香の物を咀嚼し、粥を啜る。血筋よりも育ちだろうか。いや、しかし、貧乏でも旗本家で育ったのだ。行儀作法がもう少しできていてもよさそうなものである。


 気をつければできるけれど、常に気をつけていたら肩が凝るから嫌だとでも言い出しそうだ。


 ボリボリ、ズズズゥッ。


 親太郎までそんな食べ方を真似し出したので、親信は焦った。


「こ、これ、親太郎。飯は静かにだな――」


 今後、どこへ出しても恥ずかしくない好男子に育ててやりたいというのに、おかしな方へ傾いている。しかし、諸悪の根源は楽しげであった。


「細かいことは気にせず食った方が美味い。なあ、親太郎」

「あい」


 親信のこめかみに青筋が浮いた。けれども、何故かそんな場で加乃がくすくすと声を立てて笑った。すぐにそれを恥じて、頬を赤らめる。


「も、申し訳ございません。つい」


 はしたない真似をしたと思うのだろう。けれど、加乃はいつも行儀のよい子であるから、こうしたことは珍しい。叱る気にはなれなかった。


「ハハハ、加乃殿はやはり愛らしいなぁ」


 加乃が愛くるしいのは事実だけれど、幸之進に言われると腹が立つ。それに、加乃が顔を真っ赤にするのも複雑だ。


 それなのに、親太郎は口を開けて大笑いした。米粒が口の中に残っていて、それが零れそうになって、慌てて口を押える。そんな様子を見て、幸之進も腹を押さえながら笑った。


「い、イテテ」

「傷が開くぞ」

「開いたらここから粥が漏れるのか?」

「米が勿体ないだろうが」


 くだらない話ばかりしている朝餉だった。こんなことをしていては、手習所に遅れてしまう。

 だというのに、何故だかこの賑やかさが懐かしいと思った。




 その日もさすがに幸之進はついていくと言わなかった。平気そうに振る舞ってみせても、本当はまだつらかったのだろう。

 子守りというよりは子供たちに見守られながらの留守番だ。長屋の人々も気にしてくれている。


 親信はこの日、手習所の片づけを終えると、両替商の暖簾を潜った。幸之進の紙入れから小判を一枚抜き、小粒に崩す。

 どう見ても貧乏浪人でしかない親信が黄金色に輝く小判を出したことで、店の手代は怪訝な顔をしかけたが、そこは商売人。すぐに立ち直って笑顔になった。


 崩した小粒を紙入れに入れると、重みが増した。二朱だけ懐紙に包み、それもまた懐へ収める。そして歩き出した。


 藤庵の住まいは吾妻橋あずまばしにほど近い田原町だ。ただ、いつも決まりきった道しか歩かない親信が反対方向へ行くだけで、知り合いは行き先を知りたがるかもしれない。

 吉原に繰り出すつもりかと噂されそうだが、家に若い男を連れ込んでいると言われるよりは、その方が安心されてしまう気もする。


 それはいいのだが、藤庵の住まいに長居して、よねの間男扱いされては困る。金を置いたらさっさと帰るつもりをしていた。

 親信の足ならばすぐそこという近さである。


 この住まいは以前、武家の隠居が暮らしており、それを藤庵が譲り受けたそうだ。木戸門のささやかな佇まいであるが、二人暮らしならば十分だ。長屋に鮨詰めの親信からすると羨ましい限りである。


 門前から、白梅の枝がほんの少し見えた。随分あたたかくなったというのに、ここの梅は遅咲きだ。


「もうし、邪魔をする。それがしは向井と申す。藤庵先生はご在宅か」


 門前で断った。門番などはいない。奥にいるよねが開けてくれるのを気長に待つしかなかった。


 よねはおっとりとした女だ。何度かこうして来たことがあるのだが、毎回出てくるまでに時を要す。

 ただ、そんなおっとりした様子が色香にも通ずるのだろう。


「お待たせしてあいすみません。先生はお留守でございますよ。言伝ことづてならお聞きしますけれど」


 白い顔が木戸門の隙間からにゅっと出てきた。以前から細身であったが、顔だけはふっくらとしていた。それが、少し痩せたようにも思う。


「うむ。昨日、知人が世話になった。薬代を預かってきたのだ。藤庵先生にお渡し願えるか?」


 懐紙に包んだ二朱を差し出すと、よねは両手で押し頂いた。もっと大金が動く吉原にいたよねだが、金によって苦しめられたとも言えるだろう。


「あい、お預かり致します。そのうちに先生も帰ってくるでしょう」


 金を払って、親信はほっとした。金のやり取りを残していると気分が落ち着かない性分なのだ。

 これでいい、と親信は断ってからきびすを返すつもりでいた。それなのに、よねは親信に四方山話よもやまばなしを吹っかける。


「お子さん方は大きくおなりでしょう? 前に会ったのは、そう、御新造さんが身罷みまかられた頃でしたからね。おっかさんを恋しがっているでしょうし、向井様もおつらいことかと」


 そういえば、最近、幸之進が家の中を引っかき回すものだから、しんみりと母の思い出を語ってやることもなかった。これではいけないのかもしれない。


「そうだな。加乃は六つ、親太郎は三つ。随分と物がわかるようになったので、不甲斐ない父を気遣って寂しい顔は見せずにいてくれるのやもしれんな」


 すると、よねは目元をふっと和らげた。笑っているのとは少し違うと感じた。


「加乃ちゃんももう六つですか。でも、しっかりしていてもまだ子供。吉原の禿かむろには親が恋しくて隠れて泣く子がたくさんいました」


 遠い目をしてそんなことを言う。加乃ほどの年頃の子が女衒ぜげんに売り買いされてしまう。そうした世の中なのだ。

 女の子は大人になるのが早く、大人びて感じられる。けれどそれは、周りの思いを汲み取るだけのことなのだ。子供でいてはいけないのだと。


 よねはきっと、母恋しさを堪えた己の幼い頃を思い出し、母を亡くした加乃を不憫に思うのだろう。平気なふりをしても寂しいのだと、それをわかっていてやれと釘を刺されたらしい。


「あら嫌だ。あたしったら、お武家様にご無礼を申しました」


 失言を恥じたふうを装うけれど、悔いてはいない。加乃のためだと、それも伝わる。

 特に嫌な気はしなかった。親信も不器用ながらに笑みを作る。


「いや、肝に銘じておく。藤庵先生によろしくな」

「あい。お気をつけて」

「うむ」


 なんとも不思議な心持ちで、親信は藤庵の住まいを後にした。

 終始、よねの持つ匂い袋の香が漂い、それが白梅を思わせるものであった。

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