第15話

 三日も経つと、幸之進がそわそわし始めた。家でじっとしていることに耐えられなくなってきている。

 出かけにそれを感じ、親信はぴしゃりと言った。


「安静にと言われたはずだ。大人しくしておれ」

「うむ。俺はいつでも大人しくしておるではないか」


 そうだろうか。

 暴れまわったりはしていないかもしれないが、何か納得いかない。


「大人しくついていくのなら構わんだろう」


 大人しくついていく――よくわからないことを言いながら、幸之進は腰を浮かせた。驚いたのは子供たちだ。


「ま、まだ動かれない方がよろしいかと」


 加乃は心配そうに手ぬぐいを握り締めている。親太郎は――。

 幸之進の袴の裾を握り締めたかと思うと、わぁわぁと大声で泣いた。その剣幕に親信も幸之進も慌てるばかりである。


「親太郎、そう泣くことがあるか。すぐ戻ってくる」

「いやだぁっ。行っちゃいやだっ」


 本来は、こんなに聞き分けのない子ではない。駄々をこねて親信を困らせることなどそうそうないのだ。

 これは幸之進の体を案じているからこそで、親信は息子の優しさに少し笑った。


「よし、それでは父は行って参る。加乃、親太郎、幸之進の世話を頼むぞ」


 子守りではなく、子供に守られている男である。


「あいっ」


 親太郎の張りきった声に、親信は笑いを噛み殺しながら戸を閉める。幸之進の複雑な面持ちがまた可笑しかった。

 幸之進なりに子供たちを可愛がっているから、あんなにも泣かれては邪険にできないらしい。




 ――そうしたことがしばらく続いた。

 七日間ほど、親太郎の泣き落としの前には幸之進も成す術もなく屈し続けた。外をふらつくこともできずに夜具に繋ぎ止められていたのだ。

 しかしだ、さすがに体が鈍って仕方がないのだろう。


 八日目にして、幸之進は知恵を回した。

 つまり、親太郎の目が届くところであれば動いても泣かれない。事実、親太郎のおかげで安静にはしていたので、傷にはよかったのだろう。ふらっと外へ出て、近所の子たちを集めて遊んでいたらしい。


 家に戻ってから親信は加乃にそれを聞いた。加乃はそこへは加わらなかったらしい。

 大人びている分、加乃は同じ年頃の子供たちと接するのをやや苦手としているような節がある。


「家のことはいいから、加乃もたまには遊んでいいのだぞ」


 そう言ってみると、加乃は戸惑い、もじもじと手ぬぐいを畳み出した。


「また、そのうちに――」


 よく間に合う子だからと、つい家のことを任せてしまったせいかもしれない。もうそろそろ真剣に、加乃を通わせる手習所を探さねば。女子ばかりのところがいいとは思っている。

 そこで友を作り、楽しく通えたらいいのだが。


 ――しっかりしていてもまだ子供。

 そう言ったよねの言葉がなんとなく思い起こされた。




 それから、幸之進の傷はかなり回復したようで、あまり痛いとも言わなくなった。もう塞がっていると見てよいだろう。


 親太郎は幸之進にべったりで、散々構ってもらえてご満悦だ。どういうわけだか幸之進はやたらと子供に好かれる。親信や藤庵からすると理不尽なくらいだ。

 母親が恋しいと泣かれるよりはいいだろうか。親信は加乃と夕餉の支度をしながら嘆息した。


 そんな頃、来客があった。意外なことに、藤庵である。

 怪我人を診たので、その後の経過が気になったのだろうか。今まで呼びもせずに来たことなどなかったのだが。


「あっ、お医者の先生ではございませぬか」


 親太郎に肩車をしながら座っているという妙な状態で、幸之進は藤庵に笑顔を向けた。


「もうすっかり、この通り、腹芸もできそうなほどに回復致しました」


 ハハハ、と笑っている。その顔で腹芸など似合うはずもないのだが、本人は何も気にしない。


 藤庵の方は笑えないらしい。むっつりと難しい顔をして戸口に立っている。

 立たせたままではいけないかと、親信は藤庵を中へ誘う。その時、藤庵がいつも必ず携帯している薬箱を持っていないことに気づいた。

 はてと思ったところ、今日、藤庵がここを訪れたのが私用なのだと知った。


「それはよかった。まあ、腹芸は腹を冷やすのでやめておけ」


 冷静に切り返した後、藤庵は土間でひとつため息を吐くと、子供たちのことをちらりと見てから親信に言った。


「こんなことを頼むのはお門違いではあるのだがな、他に思い当たる者もおらん。――その、子供たちを連れてうちに来てもらえんか? ほんの少しでいい」


 それは一体どういうことなのか、親信には藤庵の思惑がまるでわからなかった。けれど、藤庵は真剣な様子であった。顔色もあまりよくないように見える。思い悩んでいるような、そんな顔だ。

 すると、そこで幸之進が口を挟んだ。


「子供たちということは、いずれ加乃殿を嫁にもらうつもりをしておるので、俺も親信殿の子として同行しよう」

「こんなでかい子がいてたまるかっ。大体、おぬしにはやらんと言っておろうがっ」


 キッとまなじりを釣り上げる親信だが、幸之進は親太郎に向かって、なぁ、と同意を求める。親太郎は、あい、と答えて笑った。


「ま、まあ、子供たちさえ連れてきてくれればよい。なるべく早いうちに頼む」


 それだけ言うと、藤庵は足早に去っていった。

 何か不穏なものが漂う。少なくとも、何かがあったのだ。そこに子供たちがどうか関わってくるのかはわからない。ただ、藤庵には世話になってきたので、できることなら助けになりたい。


「藤庵先生、どうなさったのでしょう?」


 加乃も心配そうにそうつぶやいていた。




 なるべく早くと言っていた。

 親信は翌日、手習所を終えるなり子供たちを伴って田原町へ向かう。幸之進は勝手についてきた。


 今日もまた、田原町は丹波園部藩の下屋敷が広がっているばかりである。

 藤庵のところの門前に来ると、親信は声を上げた。


「もうし、藤庵先生はご在宅か」


 八つ半(午後三時頃)。

 出てきたのはよねではなく、藤庵その人である。藤庵は、親信が子供たちを連れてきたことを認めると、ほっとしたように息を漏らした。

 そうして、普段よりも幾分控えめな声で言った。


「すまんな。だが、ありがたい。――頼みというのは、その、うちの庭で子供たちと遊んでほしいのだ」

「お宅の、庭で?」


 よくわからない頼み事である。しかし、特に断るほどことでもない。

 幸之進もふぅむ、とよくわからない声を出した。


「それは、なるべく騒いだ方がよいのだろうか?」

「そうだな、賑やかに楽しくしてもらいたい」


 藤庵はそう言うと、親信たちを家に上げるのではなく、回り込んで直接庭に通した。玄関先からも見えた白梅が見事に咲いている。


「おお、よい眺めだ」


 呼ばれていない幸之進が花見気分でそんなことを言う。加乃も白梅に見惚れていた。


「本当に綺麗ですね」


 親信が抱いている親太郎は白梅に興味がない様子だった。藤庵もまた、庭の景色など目に入っていないふうである。見慣れている自宅だからかと思ったが、それも違う。心ここにあらずだ。


「では、頼む」


 そう言って去ろうとした藤庵の背に、親信は言葉を投げかける。


「そういえば、以前、およね殿がうちの子たちを気にかけていてくれました。挨拶をしましょうか」


 顔くらい見せるべきだろう。そう思ったのだが、藤庵は首をゆるく振った。


「いや、それはまた今度だ」

「はあ――」


 藤庵も家の中に籠ってしまった。締め切るほど寒くはない季節だが、どの戸にも隙間がない。気にはなるものの、詮索するのは性に合わない。頼まれたことだけをすべきだろう。

 ――しかし、だ。


「遊ぶとなると、何か玩具でも持ってくるべきだったな」


 何をどうしたらいいのかわからない。

 思えば、普段、加乃と親太郎がどのようにして遊んでいるのかもよく知らない。

 幸之進は、ハハ、と軽く笑った。


「そんなものはなくとも、子供たちは遊べるのだ。世の中は子供たちにとっての玩具で溢れ返っておるからな」


 そんなことを言って親信から親太郎を抱きとると、幸之進は親太郎を庭に下した。


「さてさて、何をして遊ぼうか。こんなのはどうだ?」


 庭の石をいくつか拾い始め、幸之進は庭土の上にその石で豆のような形を描いた。それから、石を加乃に手渡す。


「これは?」


 戸惑う加乃に、幸之進はにっこりと笑った。


「即席福笑いだ。加乃殿はここに顔を書き入れる役だ」

「親太郎は目隠し役だな」

「あいっ」


 親太郎は張りきって、描かれた福笑いの前にしゃがんだ加乃の両目を後ろから覆う。

 親信は、こんな馬鹿らしい遊びが楽しいはずがないと思ってしまった。けれど、加乃はちゃんと幸之進に付き合った。


 小さな手が、幸之進の描いた輪郭の中に顔を描く。まず、眉から行った。下がり眉だ。

 その下に目を書くが、眉尻と目がくっついた。黒目がちょっと飛び出す。

 そして、鼻は何故だかとても下の方に描かれた。そのすぐ下におちょぼ口がつく。


「できましたっ」


 加乃は親太郎の目隠しを外し、自分で描いた顔に悲鳴を上げた。


「な、なんですかこれはっ」

「いやいや、上手いものだ」


 幸之進の、明らかな世辞だ。どう見ても気持ちの悪い顔である。

 いや、しかし、目隠しをして描いたのだ。そう思ったら上手いのかもしれない。


「よしよし、次は俺が描こう」


 加乃の福笑いの横に同じような輪郭を描く。親太郎は嬉々として幸之進の目隠しをした。

 白くほっそりとした幸之進の手が描くのは、稀代の醜女しこめであった。太い眉に小さな目、歪んだ鼻、大きな口。加乃がこんな顔に生まれなくてよかったと思える。

 目隠しを取り、自分の描いた顔をまじまじと見た幸之進は、うん、とつぶやいてうなずく。


「なんとも言えぬ色香があるではないか」


 ないと思う。

 しかし、誰も突っ込まなかった。


「よし、次は親信殿だ」


 幸之進に石を手渡された。


「私もか?」


 自分にまで回ってくるとは思わず、親信は顔を引きつらせた。


「遊びだ。そう難しく考えることでもなかろうに」


 終始真面目過ぎるというのだろう。そう、難しく考えることなど何もない。子供の遊びに付き合わされているだけだ。


 親太郎が親信の目隠しをしようとしたのだが、しゃがんでいても届かなかった。幸之進が親太郎を幸之進の背に乗っける。小さなぬくい手に目隠しをされながら、親信は地面の輪郭に顔を描き入れた。


 親信が思い描く女の顔は、どんな時でも沙綾である。優しげな目、控えめな口、どこをとっても美しい自慢の妻なのだから。


「――できたぞ」


 石を手放し、親太郎の手をずらす。そうして、地面に己が描いた顔に絶句した。

 幸之進を笑えない。こうして並べてみると、加乃が一番上手かったのかもしれない。

 何せ、親信の描いた顔は輪郭に収まりきっておらず、目は飛び出し、鼻の中に口があるといった始末であった。


「こ、これはまた、ほら、あれだ、あれ」


 褒めようがなかったらしい。幸之進は言葉に困ると意味の伴わないことを言う。口を動かしているだけなのだ。

 幸之進がふと、加乃に目を向けるから、加乃も何か言わねばならないと思ったのだろう。


「え、そっ、そうですね、その」


 無理をしなくともよい。下手なのは見ればわかる。

 親信の背中から福笑いの顔を見下ろしていた親太郎は素直だった。ぎゃはははっ、と大声を出して笑った。その顔が母だとは口が裂けても言えない。


 遠慮のない幸之進も親太郎と一緒になって笑い出した。加乃は控えめにだが、それでも笑っている。


「プ。プハハッ。親信殿はなかなかの絵師だな。ほら、この――」

「うるさいっ。こんなもの、まともに描けるはずがなかろうが」

「まともに描いたら何も面白くないではないか」


 確かに、皆が笑っているのならこれでいいのだろうか。難しく考えた方が負けなのかもしれない。ひぃひぃと笑いながら目尻の涙を拭うと、幸之進は両手を広げた。


「よしよし、今度は影踏みでもするか? いや、目隠し鬼の方がよいかな?」


 親太郎は幸之進の足元にきゃっきゃとまとわりつく。

 なんというのか、子供と同じ目線で遊べる男である。

 手を打って、幸之進は親信に言った。


「親信殿が鬼だ。目を瞑って追いかけてくれ」

「鬼と――」


 自分を指さした親信は、ほんの少し不安げだったかもしれない。ちゃんとやれるだろうか。自信がない。

 それでも、幸之進は問答無用で始めた。


「さあ、親信殿が十数えるうちに逃げるぞっ」

「あいっ」


 始まってしまった。仕方がないので、目を瞑って数える。


「いーち、にー、さーん――」


 こうしていると、冷静になり、一体何をやっているのだという気にもなる。

 しかし、これは藤庵たっての頼み事であり、今はただ遊びに専念すべきだと気を引き締め直す。


「――じゅう。いざ参る」

「あのだな、決戦ではなかろうに」


 ぼやいた幸之進の声がした方に進む。

 その時、ぱんぱん、と後ろから手を叩く音が鳴る。親太郎だ。拙い音だが、きっと満面の笑みで手を叩いていると見なくともわかる。


 親信は目を瞑っていたとしても、相手の気配くらいは読める。息遣いが聞こえるのだ。相手との間合いも測れる。

 逃げようと、袴を捌いて布が擦れる音を立てた幸之進の首根っこを素早く捕まえた。


「親信殿には顔の他にも目があるのか? それならそうと、先に教えてくれればよいものを」

「そんなものはないが、気配でわかる」

「子供との遊びに本気を出さずともよいのだがなぁ」


 などとぼやく幸之進に鬼の役を押しつけた。幸之進はしっかりと目を瞑っていて見えてはいないはずだが、親太郎や加乃のそばに近づいたり、かと思えば背を向けたり、実にわざとらしい動きをしている。

 親太郎は笑いを噛み殺し、噴き出してしまわないように両の手で口を押えていたのに、幸之進がふらふらと近づいてきた時に思わず吹き出してしまった。


「みぃつけたっ」


 腕を広げて親太郎を抱き絞めた幸之進は、そのまま親太郎をくすぐった。


「やめてぇ」


 やめてと言いながらも大笑いしている。加乃も、いつもより声を上げて笑っていた。

 あんなふうに、心から楽しげに笑う子供たちを親信は見たことがなかった。思えば、子供たちと何かをして遊んだのは初めてだった。不器用で面白みのない父だ。遊んでやったところでこんなふうには笑わなかっただろうけれど。


 けれど今、親信は子供たちと一緒に遊びの輪の中にいる。それは、このよくわからない若侍のせいではあるのだが、幸之進がいなければ、笑い声ひとつ立たずに皆でこの庭で白梅を眺めているだけだったに違いない。

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