弐❖白花の四月

第12話

 男やもめの親信は、自身が幼子二人と暮らす長屋の大家、安兵衛に呼ばれていた。仕事終わりにすぐ座敷へ上がり、安兵衛と差し向かいで茶を飲んでいる。


 親信は貧乏だが、店賃たなちんは貯めずに払っている。

 堅物の親信は酒もほとんど飲まず、女も買わない。手習師匠という立場で賭場に行くはずもなく、傍目には面白みのない背が高いだけの浪人であった。

 しかし、だからこそ厄介事は起こさない。


 そんな親信が大家に呼び出されたのだ。何かの頼み事でなければ、思い当たる節はひとつしかない。

 親信のところの居候のせいである。


 少し前に、親信が家に帰ると、中で血を流した若侍が倒れていたのだ。脇腹に刀傷を受けており、仕方なく手当てをした。

 この若侍、幸之進は見目麗しいのだが、どこをとっても武士らしくない性質たちである。

 大らかで適当で、親信とは真逆。その言動に苛々することこの上ない。


 幸之進は上士の父を持つらしいのだが、父は行儀見習いの娘に手をつけて放り出し、その娘が子を産み落としても、死ぬまで顧みなかった。

 本妻との嫡子が夭折し、思い出したように幸之進を引き取ったとのことだが、幸之進は嫌気がさして父の元を飛び出したという。


 しかし、人を食ったところがある幸之進が一人でふらついていると、やはり揉め事を起こす。いざこざの果てに刃傷沙汰で痛い思いをしただけだ。

 諦めて家に帰ればいいものを、幸之進は親信のところが気に入ったらしく、ずるずると居ついている。そのことに関し、大家が放置できないのは当然だった。


「あのお侍様のご様子はいかがでしょうか?」


 茶をズズ、と啜ってから切り出した大家の言葉に、親信は畳に視線を落としながら苦い思いをした。大柄な親信が肩を落としているのはみっともないことだろう。


「はぁ、まぁ、よくわからないところではあります」


 ろくな答えが出てこなかった。

 親信はそろそろ追い出したいと思わなくもない。

 何せ、狭いのだ。妻ならばまだしも、横に男が寝ていても嬉しくない。どんなに見目がよくともだ。


 親信は娘の加乃と夜具を使い、息子の親太郎は幸之進と同じ布団で寝かせている。親太郎は幸之進に懐いており、出ていったら一番泣くかもしれない。

 安兵衛は、湯呑を手にしたまま膝に沿えると、ため息交じりに言った。


「まだ思い出せないのでしょうか」

「思い出す?」

「ええ、ご自分の家が思い出せないとのことですが」


 そんなわけがあるかと言いたくなった。迷子の子供か。

 また適当なことを言い出したらしい。


「いえ、ね、頭を強く打ったりして自分の名前も何もかもわからなくなってしまった男の話を聞いたことがあるのです。それから、とある家の嫁が、嫁いびりを続けていた姑のことをある日突然忘れてしまった、なんてことも――」


 そんなことがあるのだろうか。少なくとも、幸之進は忘れていない。覚えているからこそ帰りたくないと言うのだ。


「向井様はあのお侍様のお宅をご存じではないのですね?」

「ええ、知りません」


 それは嘘ではないから、淀みなく答えられた。幸之進は苗字を名乗らない。家を特定されないように隠している。


 しかし、跡取りがいなくなったのだから、捜しているはずなのだ。そのうちに捜し当てられて連れ戻されるのだろうけれど、まさか縁もゆかりもない貧乏長屋に転がり込んでいるとは思わないだろう。


 幸之進はそれがわかっていてここから出ていかないのだ。隠れ蓑に打ってつけだと。

 ただ、厄介事を起こせば長屋全体の責任である。そして、幸之進は厄介な男だ。何もなく過ごせる気がしない。


「お怪我をされているそうですから、そのお怪我の障りがなくなるまでは長屋の皆で世話を焼くのも道理でございますが、その後のことはいかがしたものでしょうか」

「そのうちに思い出してくれることを祈りたいところです」


 親信の頭の中で幸之進が舌を出している。嘘も方便というではないか、と。

 大家は疑っていないのか、怪我をしている幸之進を憐れに思ってくれているのか、ため息をついただけだった。


「それしかございませんなぁ」


 親信が何か知らないかと探りを入れたかったようだが、親信も大したことは知らないのだ。


「お役人様に届け出るべきことですし番屋へ行こうとしたのですが、あのお侍様は、そんなことをしたら喧嘩の果てに刀を抜いた相手が切腹になると仰って。自分に手傷を負わせた相手のことを庇われるのです。カッとなってやってしまっただけで、今頃家の中で青くなっているだろうから、このことは外に漏らさずにいてやりたいと。斬られているのに相手を庇うとは、なかなかそんなことはできません。ご立派な方でございますな」


 それは、役人に届け出をされてしまえば、自分の素性も調べ上げられて家に戻されるのがわかっているからこそである。別にその喧嘩相手を庇っているなどということはない。


 しかしだ、顔がよいのは得である。

 少し切ない目をして言えば、相手にはもっともらしく聞こえるのだ。安兵衛もコロッとやられた口らしい。


 まあいい。安兵衛がそれで納得してくれたのならいいのだ。

 親信も役人にあれこれ話すのは億劫だ。



 そうして自分の住処に戻った親信は、いつまでも畳の上に転がっている幸之進に文句を言ってやりたくなった。

 時折は親信が教える手習所の手伝いをするのだが、今日は朝餉を食べた後、そのまま長屋に残った。今日は子供たちと留守番をしている、と。


 それが戻ってみたらどうだ。まだ寝ている。昼寝とはいい身分だ。

 頭を蹴ってやりたい衝動に駆られたけれど、それを思い留まらせたのは、子供たちの様子がおかしかったからだ。眠る幸之進を心配そうに見ている。


「父上、おかえりなさいませ」


 加乃は手を突いて迎え入れてくれるが、親太郎は幸之進が気になって仕方がないようだった。


「ゆきし、ねんねなの」

「ああ、そのようだな」


 見たままである。

 親信も座敷に上がると、加乃は言いにくそうに切り出した。


「幸之進様はお体が優れないようです」

「うん?」

「大したことはないから、少し寝かせてくれたらいいと仰るのですが、本当に大したことはないのでしょうか?」


 よく見ると、幸之進の眉根がきゅっと狭められている。親信は幸之進の額に手を置いてみた。熱い。


「熱が、あるな――」


 朝からずっと具合が悪かったのだろうか。へらへらしてばかりだから、そんなふうには見えなかったが。


 このところ、出歩いたり動いたり、普通にしていた。もう平気なのだろうと思っていたが、思えば刀傷を受けたのだ。もしかすると、傷口が上手く塞がっていないのではないだろうか。


 幸之進の襟に手をかけ、広げる。腹に巻いたさらしをゆるめようとすると、幸之進は気がついたらしく、転がって逃れた。そんなことをしたら痛いだろうに。

 それも、この狭さだ。転がっても壁にぶち当たるだけである。


「す、少し寝ていれば治る」

「少しというのはどれくらいだ? 少なくとも半日は寝ていただろう」


 こう寝っ転がっていられると部屋が狭い。それを不満に思う前に、幸之進を心配そうに見守っている子供たちを安心させてやりたかったのだ。親信自身は、このしぶとい男がこれくらいでなんとかなるとは微塵も思っていないのだけれど。


「そ、それはだな、ほら、あの、ん――」


 熱があるせいで言葉がろくに出てこないらしい。がっくりと首を下げた。


「診療所へ行くか」


 親信は幸之進から紙入れを預かっている。その金を幸之進のために使うのは当然のことだろう。金の心配はしなくてもいいのだから、それくらい連れていってやる。

 しかし、診療所と聞いて幸之進は首をゆるゆると振った。


「い、嫌だ」

「そんなことを言っておる場合か?」

「それでも嫌だ。俺は行かぬ」


 苦い薬は嫌だとか、染みるのは嫌だとか、子供のような理由を言い出しそうで困る。


「このまま放っておいて悪化したらどうするのだ。私に葬儀の面倒まで見させる気か」


 大袈裟な物言いをしたら、加乃が不安になってしまったようだ。口元に手を当て、目にいっぱいの涙を溜めた。


「そんなにお悪いのですか」

「い、いや。よくわからぬが」


 幸之進は段々、駄々をこねる気力もなくなっていたようだ。ぐったりとして黙った。

 混んでいる診療所に連れていっても診てもらうまで待たされるのだし、それはそれでつらいかもしれない。それなら、医者を呼んできた方が早い。


「加乃、親太郎、医者を呼んでくるので幸之進のことを見ておれ。何かあったら大家殿に知らせるのだぞ」

「あいっ」


 親太郎が張りきって返事をした。引き締めた顎に皺が寄っていて我慢が見える。

 幸之進は何か言いたげな目をしたけれど、親信は無視して外へ出た。


 診療所が混み合っているのは腕のよい医者がいるからである。医者と名乗りはするものの、医術の心得などは何もない素人も巷には混ざっているのだ。その見極めは、やはり評判に頼るしかない。


 この界隈にも藪ではない医者はいるのだ。名を藤庵とうあんといい、供もいない徒歩かち医者で、薬箱ひとつを持って診療して回る。ありがたい存在であるのだが、親信の知るこの医者は愛想がなかった。顔が怖かった。子供たちが泣いてしまうという。


 それでも、妻が倒れた時には何かと世話になった。だから、加乃と親太郎は藤庵に慣れているので泣かない。最近は子供たちが寝込むこともなく、無沙汰をしているが、頼めば来てくれるだろう。


 藤庵の住まいは囲っている女が留守番をしているだけで、昼間はほぼ家にいない。道行く人に藤庵を見かけなかったかと訊ねながら捜すのがいい。


「すまぬが、藤庵先生を見かけておらぬか?」


 体が大きいのと腰のもののせいで、親信が話しかけただけで相手は硬くなる。それをわかっているから、親信はなるべく腰を低めにものを訊ねるようにしている。それでも、呼び止めた棒手振ぼてふりの目が泳ぐ。


「えっと、どうでしたかねぇ。今日は見ちゃあおりやせん」

「そうか。呼び止めてすまなかったな」

「いえ――」


 なんてことをしていると、後ろから隣に住む火消しの半治が走ってきた。目の下に走った火傷の細い傷跡は醜くもなく、かえって粋に感じられる。


「向井様、幸之進様が大変てぇへんだそうで。あっしもお医者の先生を捜してきやす」

「すまん。よろしく頼む」


 言ってから、何故己がよろしく頼まなくてはならないのだと思ったけれど、そうした細かいことにこだわっている場合でもない。


 半治は、ヘッと軽く照れ笑いをし、親信の先を行った。火が出れば駆けつける火消しであるのだ。飛脚にもなれるのではないかと思うほどに健脚であった。


 親信は近くの長屋を訪ねては藤庵の居所を捜す。しかし、まるで手ごたえがなかった。いつもならば頻繁に顔を合わせる藤庵は、捜している時に限っていないのである。


 これはもしかすると、藤庵の住まいで帰ってくるのを待ち構えていた方が早いのではないかという気がしてきた。

 藤庵の住まいは浅草寺手前の田原町だ。

 それほど大きくはないが、一軒家を構えている。


 そちらに向かうかと考えた頃、藤庵の長羽織の袖を引いた半治が焦れた様子で小走りにやってきた。若い半治に比べれば、普段激しく動くことのない、四十路も半ばを超えた藤庵の歩みは亀同然である。


「向井様っ。藤庵先生を捕まえやしたぜ」


 得意げに言う半治に反し、藤庵は仏頂面であった。


「捕まえたとは、儂は虫か何かか。日も暮れようというのに、まだ儂を働かそうとは。今宵はおよねとしっぽり決め込みたいところだというのに」


 禿頭とくとうだからといって、坊主のように清らかなわけではない。よねという囲い女は、吉原で年季の明けた遊女であった。年季が明けても行く当てがなかったので、馴染みであった藤庵が家に置いたのだ。

 身請けしてやるほどの蓄えはなかったものの、長年遊女勤めに耐えて疲弊したよねの体を労わってはいるらしい。


 達磨だるま大師ほどに目がギョロリとしていて、今にも零れ落ちそうなのだが、落ちても自分で嵌め直せるだろうか。

 つい、どうでもいいことを考えてしまう。

 改めて見直しても、團十郎だんじゅうろうというよりは達磨だ。


「それで、病人は誰だ? 加乃か、しん坊か?」

「いや――」


 病人が子供ならば放っておけないと渋々やってきてくれたのなら、見てほしいのが面倒くさい男だとは言わずにおこう。


「まあ、とにかく急いだ、急いだ」


 半治も藤庵を急かし、男三人長屋へ走った。

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