第25話
下谷車坂町までは、いつもの道を通る。王泉寺のある新寺町を通り抜けてゆくのだ。
そう遠くはないのだが、少しずつ暑さが増してきた昨今。軽く動いただけでも汗が滲む。
暑いといっても、寒いよりはいい。――と思ったものの、今年はあの狭い長屋に幸之進がいる。去年よりも寝苦しい夏夜になりそうな予感がした。
大体、いつまでいるつもりなのやら。
幸之進の紙入れには三両二朱が入っていた。熱を出した幸之進を医者に見せる時に一両を崩したけれど、まだ二両はそのまま黄金色の輝きを放っている。
幸之進は使えばいいと言うが、そう易々と使えたものではない。あまり手をつけないようにしているのだが、稼ぎの少ない親信だから、よく食べる男が一人増えただけでも苦しい。そのうちに使うことになるだろうとは思っている。
よくよく考えると、ただ飯食らいを養う義理もないのだ。外へ出たくないのなら、今度何かの内職の仕事をもらってこようか。何かさせないと。
目の前にいない時くらいはあの男のことを忘れていたいのだが、悪霊のようにして頭に張りつき、離れない。そんな己にも嫌気が差して、親信は初夏だというのに身震いしていた。
「向井殿? 武者震いですか?」
「い、いや、まあ、そんなところか――」
乾いた笑いでごまかしつつ、親信は久しぶりの青木道場の門を潜った。
いつも、もう少し早くに知らせてくれたらよいと思うのに、親信が呼ばれるのは、相手方がやってくる半時(約一時間)ほど前になってである。
道場の中で門弟たちが木刀を持って打ち合っている中、親信は上座の道場主と対面した。
「よく来たよく来た。うむ、変わりはなさそうだな」
師範、青木
――などとは皆、思っていても口には出さない。口が裂けても、出さない。
「はい、ご無沙汰しております。それで、此度はどの流派との試合でしょうか?」
磨き抜かれた道場で手を突いてから訊ねた。すると、兵衛は大九郎をチラリと見遣る。
「なんだ、もう試合の話をしたのか?」
「申し訳ありません。軽くですが」
と、大九郎は目を瞬かせる。
「聞かずとも、毎回同じ用件で呼び出されておりますので、今回もそうかと察しがつきますが」
すると、兵衛は懐手をしつつ首を傾げてみせる。
「ふぅむ。実はだな、他流試合というのはおぬしをおびき寄せるための口実で、本題はだな、おぬしに丁度よい女子がおってな」
「――――」
沙綾の喪が明けたばかりだというのに後添えの話をされた。あんまりだ。
親信の顔から表情らしきものが抜け落ちたのが自分でもわかった。その顔を見た兵衛がハハッと笑う。
「嘘だ。おぬしがこちらから頼む前に用件を言い出すので、つい、つまらなくてな」
そんな子供のようなことを言うのはやめてほしい。これでも一道場の主なのだから。
そうは思ったが、師範なりに連れ合いを亡くした親信の今を気にかけて探りを入れたとも考えられる。本気でつまらないからとからかわれたよりはそういうことにしておきたい。
親信はわざとらしく咳ばらいをしてみせた。
「師範代が食あたりとのことで。私も先生にはご恩がございますので、必要とあらば参ります。しかし、昔に比べて腕が鈍っておりますので、勝てるとは限りませんが」
実際、危ういことは何度もあった。親信はもう、剣で身を立てようとは思っていないのだ。負けても構わないはずである。
それでも負けられないと思うのは、道場の看板と恩師のためでしかない。己のためではないはずなのだ。
「食あたりなぁ。怪しげな薬を飲みおって」
「薬、ですか?」
腐ったものを食べたというわけではないらしい。
兵衛はフン、と息子の苦痛を鼻で笑った。
「背が伸びる薬だと。そんなものがあるかと笑ったらすっかり拗ねてしまった。いい年をして子供のようなやつよ」
「――――」
返答に困るが、悩みが切実すぎて聞くだけで痛い。
そこで兵衛はにやりと不敵に笑う。
「まあ、愚息のことはよい。おぬし、仕官を諦めたとはいえ、剣を捨てるのは早かろう。おぬしにはまだ剣術が必要だ」
そんなことはない。
子供たちを教え、導くのに剣は要らない。
少々のいざこざならば、剣を抜かずとも素手で収められる。
剣を振るうことで無心になって、我武者羅に剣の道だけを追い求めるのでは、振り返った時に後ろには誰もついてきていないのではないか。
幼い子供たちの手を引いて歩める人生があれば、もうそれでいいのだ。
「師範、私ほどの腕ならば他にいくらでもおります。高みに昇り詰めることができる者はほんのひと握りで――私は、そこまでの逸材ではございません」
卑下したわけではない。そう言えるようになったことが己の成長だと思っている。
兵衛は、こっくりとうなずいた。
「まあ、そうだな」
「――――」
そこは、そんなことはないと言っておくところではないのか。
近頃、幸之進とのやり取りに苛立っていたので少し忘れていたが、この兵衛もまたつかみどころのない人物であった。
ここでムッとしたのでは、兵衛の術中に嵌るだけである。親信は平常心を心がけた。親信の顔をじっと眺め、兵衛は口の端を釣り上げて言う。
「今日の相手は、上野の
この青木道場は、望めば下男だろうと町人だろうと剣を教える。それは、流派によるところでもあるのだが。門弟を選ばないのは
試合が侍相手ならば気をつけねばならない。相手の矜持を傷つけては厄介である。
親信は所詮浪人でしかないのだから、その浪人にあまりにもみっともない負けを喫したとすると、面目が潰れてしまう。僅差での勝負に持ち込まねばならないだろう。
「左様で。少しばかり体をあたためる間はございますか?」
「おお、もちろんだ。頼んだぞ――というより、そもそもがおぬしのせいだ」
は? と、親信は耳を疑ったが、兵衛は前言を取り消してはくれなかった。
「そもそも、うちのような小さな町道場が目をつけられたのはおぬしのせいだ。ここに出入りする門弟に骨のあるやつがおると聞いたのだろう。そうでなければ、うちなどにわざわざ来るものか」
「そ、そんなことは――」
そこまで評判になるほどの腕ではない。買いかぶりだ。それも嫌な方向に。
気のせいだと言ってやりたいが、面と向かっては言えない。この際、さっさと済ませて帰ればいいのだろうか。
何事もなく終わりますように。
親信はそれだけを祈った。
――それからしばらく木刀を振っていると、不思議と体がそれに合わせて以前に戻るような感覚がする。木刀が宙を切り裂く音が心地よく、心に立つさざ波が凪ぐ。
この境地がいつも己を救っていた。
仕官できずに漠然とした不安を過ごす日々の中、剣を握ってさえいれば憂うことはないような気になった。強くなり、名を知らしめれば道は開けると思いたかった。
そんな、少し前の己が目の前にいたら、今の親信はぶん殴りたい気分になる。幼く、愚かだと。
貧しくとも仕合せな今があればよいと言った沙綾の言葉を解さなかった。
己の唯一の取り柄であるはずだった剣の道と決別したことで、親信は頼りなく空を漂う
今も、糸のないまま空を漂う凧なのだ。いつも揺れている。風に煽られる。
けれども、子供たちのためにせねばならないことがあるのだから、と親信は空っぽの自分に重りをつけてごまかしているに過ぎない。
そんな己が人に
それが強さだと言うのは何かが違うような気になるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます