第26話

 そうして、創栄館とやらの門弟がやってきた。来たのは三人だ。


 大将はこの男かと思われる、大柄な侍がいた。年の頃は親信よりもやや上だろうか。背も、親信よりも少しばかり大きいかもしれない。そうした人物は珍しいので、親信も驚いた。

 横幅もある。胸板の分厚さが常人の倍はありそうだった。

 顔も厳つく、髭の剃り跡が顔の下半分を青く染めている。


 その熊のような男の隣にいるのがまた、真逆の男であった。

 比べて見てしまうからか、柳のようにしなやかで、物腰が柔らかい。背丈も体格も程よく整い、顔立ちもよい。なんとも爽やかな男ぶりである。剣客というよりも風流人に見えるが、ここへ試合に来るほどなのだから、文弱というわけでもない。

 幸之進があと数年、もう少し――いや、かなり落ち着いてその数年を過ごせば、見た目だけはあんなふうになるかもしれない。


 もう一人はというと、この二人に比べてすべてが薄く、多分明日には顔も覚えていられないだろうという気がした。きっと、皆がそうだ。二人のどちらかしか見ていない。


「それがしは、創栄館門弟、楠城くすき正興まさおみと申す。こちらは浅霧あさぎり馬之介まのすけ塩谷しおだに伝之丞でんのじょう。前もってお伝えしてあった通り、我ら三人と勝負をお願い致したく参った」


 楠城――熊男はそう言ったが、頭は下げなかった。少々莫迦にしているのも透けて見える。その不躾加減を隣の馬之介という侍が目で諫めている。中では一番弁えているのかもしれない。

 兵衛はそんな熊に目くじらを立てることなく、さらりと言った。


「うむ。こちらとしても願ったりだ。何せ、小さな道場ゆえに門弟も少なく、稽古相手も限られておるのでな。よい刺激になろう。どうぞ、遠慮なく打ち込んでくだされ」


 余裕綽々。そんなふうに受け取れるのだが、実際のところはどうなのだろうか。

 三人を相手に全員で負けなければまあいい、くらいに思っているのではないだろうか。他二人はともかく、熊はそれなりに強いだろう。熊の相手は親信に任せると、皆の目が語っている。


「向井、岡部、松本。お相手つかまつれ」

「はっ」


 呼ばれた三人は低頭した。他の門弟は道場の隅に寄る。

 親信は岡部三郎太さぶろうたと共に並んで座る。対には熊と馬之介がいるが、熊が妙に睨みを利かせているので、あまりそちらを見ないようにした。


「まずは先鋒、これへ」


 こちらの先鋒は大九郎だ。向こうは、影の薄いナントカという男。

 大九郎も弱いというわけではない。徒組は腕があれば取り立てられることもあるのだ。大九郎も日々、精進は欠かしていない。

 見たところ、腕は五分ではないだろうか。


「――始めっ」


 兵衛の声がシンと静まった道場の中で鋭く響いた。

 大九郎は、相手の出方を窺うような真似はしなかった。瞬時に踏み込む。初太刀に賭けたようだ。


 けれど、相手も素早かった。振り抜いた大九郎の太刀筋を見切り、下段から跳ね上げる。大九郎はその素早さに驚いたものの、木刀で受けたひと太刀の力を緩和するように流した。正面から受けていたなら手が痺れただろう。


 とっさにその動きをしたのだから、親信が知るよりも大九郎は腕を上げたと言っていい。感心していたのも束の間、相手方の切り返しが早かった。ヒュッ、ヒュッ、と剣が風を生む音がして、木刀がぶつかり合った。

 そして、大九郎の手から木刀が落ち、道場の床に虚しく滑る。


「それまでっ」


 はぁ、はぁ、と大九郎は肩で息をしている。相手の切り返しが早く、それに合わせて剣を向けたものの、剣戟を受けられる体制ではなかったのだ。手首に無理が出た。

 名前は思い出せないが、相手方の先鋒もなかなかによい腕だ。


 大九郎は悔しそうではあるものの、素直に負けを認めた。深々と頭を下げ、相手に敬意を払いながら引いた。親信は今すぐに大九郎に言葉をかけることはできなかったけれど、目だけで労った。


 そうして、次だ。

 三郎太は、緊張の面持ちであった。一方、馬之介は自然体である。

 岡部三郎太は二十三歳。納戸方の父を持つ三男坊の冷や飯食らい。肩身が狭いながらに身を立てるべく剣術に励んでいるが、次兄は放蕩息子で手がつけられないとの噂である。


 実を言うと、親信はあまり口を利いたことがない。道場には剣術のために通っているのであり、他の者と馴れ合うためではないというのが三郎太の言い分である。

 頑なな性質のわりには童顔なので肩肘を張っているようにしか見えないが。


「次、中堅」


 意気込む三郎太に対し、馬之介は柔らかく頭を下げる。背筋が伸びていて所作が美しく見える。

 三郎太も頭を下げ返したが、硬い。


「構え――」


 兵衛の声にも一抹の不安を感じた。すでに勝負は始まっている。三郎太は、眼力だけは負けないように馬之介を睨んでいたものの、剣先が定まっていなかった。馬之介は姿勢がよく、そこにいるだけで絵になる。


「始めっ」


 開始の合図が終わるか終わらないかというほどの素早さで馬之介が踏み込んだ。間合いをいとも容易く詰められたのだ。緊張で硬くなっていた三郎太は、その早さについていけない。

 やはりか、と親信は内心で独り言つ。


 カン、カン、と二合。

 木刀が打ち鳴らされた後、木刀は三郎太の額で寸止めされた。三郎太の顔から冷や汗がドッと噴き出している。


「それまでっ」


 早すぎる敗北に、三郎太自身が憮然としていた。先鋒の試合の方がまだ見どころがあった。三郎太は気負いすぎたのだ。


 三郎太の青ざめていた顔が、こちら側に戻ってくる時には恥辱で真っ赤に染まっていた。敗因を考えているのだろうが、自らが及ばなかったせいだと納得できていないようでもあった。そこがいけないと親信は思うのだが、指摘しても呑み込めないのなら言うだけ波風を立ててややこしくなるだけだ。


 勝った馬之介は、勝ったからといって得意になっているふうではなかった。ただ静かに、成すべきことを終えたとばかりに袴を捌いて定位置に着く。落ち着いた男だ。


 さて――。

 三本勝負のところ、青木道場は二敗。これで勝負はついたわけだ。三回戦の必要はないともいえる。

 帰ってもいいだろうかと親信はほんのりと思ったけれど、そういうわけには行かなかった。


「こちらが二勝。すでに勝負ありですが、どうしてもと仰るのなら御相手仕りますぞ? このまま帰ったのではそれがしも物足りませぬのでなぁ」


 笑いを含んだ声で熊が言う。隣の馬之介が柳眉を顰めていた。相手に礼を尽くさぬ粗野なことは嫌いなようだ。

 兵衛はふぅ、と息をつくと細めた目を親信に向けた。


「そうですなぁ。師範代も体を壊して立ち会えぬまま。これではせっかく来て頂いたというのにあまりに不甲斐ない。向井、お相手致せ」


 このままで終わらせるなと。

 三人そろって負けたらいい面の皮なのだが、兵衛は親信に最後の望みを託したいらしい。そういう負荷をかけないでほしいのだが、致し方ない。このまま帰したら、青木道場の名は地に落ち、門人も去って成り立たなくなる恐れもある。世話になった手前、それは親信も避けたいのである。


「はい。畏まりました」


 親信が立ち上がると、熊は満足げにうなずいた。


「おお、大将同士が手合わせせぬのでは締まりませんからなぁ」


 明らかに上から目線である。馬之介が困ったように嘆息していた。

 見目がよいからといって、中身まで伴っていない男を知っているから、見目と中身とが釣り合っている馬之介が珍しく感じられた。こういう非の打ちどころのない男がいるものなのだな、と。


 親信は、先の二人が負けたのだから、己が必ず勝たねばならぬという気負いはない。以前の親信にはあったのだが、仕官を諦めたことで誰にも負けてはならぬという気持ちは消えたのだった。

 そうか、自分は勝ちたかったのではなかったのかと思えたのだ。本来の親信は負けには負けに学ぶべきところがあるという考えができていた。それが、仕官することしか頭になくなり、負けはその道が閉ざされることを意味するという気になっていた。


 だからこそ、弱かったのだ。負けを恐れて、無様でも勝ちにこだわった。今の方が伸びやかに、まっすぐに剣を扱えている。

 親信は立ち上がると、道場の中央に近づいた。熊もだ。意気揚々としている。


「それでは、最後だ。――構えよ」


 兵衛がヒュッと息を呑む。親信は木刀の柄を握り直し、正眼に構える。相手も同様の構えであった。熊の方が少し剣先が高い。


「始めっ」


 その声と共に、雑念が消えた。

 弱い自分、数多の後悔、今後のこと――。

 すべて置き去りに、たった一本の木刀だけを頼りに相対する。熊は尊大な態度を取るだけあり、剛腕のようだ。ダンッ、と裸足の足が道場の床を踏み締めた時、床が抜けるのではないかというほどに響いた。その振動が、同じ板の上に立つ親信にも伝わる。


 大柄にしては機敏で、一歩の踏み込みがよく伸びる。しかし、親信はその力強い一撃を体を斜にして躱し、反撃を試みた。容易く討ち取らせてくれることもなく、熊はすぐさま切り返して親信の剣を打った。


 パッと、二人は飛び退き、離れ、今度打ち込んだのは親信の方であった。息を止め、威圧感の漂う熊の僅かな隙を見つけ出し、突きを繰り出す。肩はすんでで躱したものの、脇が甘くなり、そこをすかさず打ち込んだ。熊は体が大きく膂力に優れるが、体が大きい分打ちやすいとも言える。


 体格差が激しい――それこそ、青木道場の師範代のようなチビ――いや、小柄な者なら手の長さが違いすぎて負けることもなさそうだが、腕の長さが同じほどもある親信とではそれだけでは勝てないのだ。


「それまでっ」


 高らかに言い放った兵衛の目が笑っていた。この他流試合は二人が負けた時点で終わったのだが、一矢報いることができてほっとしたのだろう。

 しかし、素直に納得するわけがないのがこの熊である。顔を見る見るうちに真っ赤にした。


「い、今のは――っ」


 今のはなんだと言おうとしているのかは知らない。

 不正はないのだ。誰が見てもわかるほどに明らかな試合であった。難癖をつけたいのだとしても、とっさに出てこないようだ。


 親信は一歩下がり、熊に一礼すると定位置に戻ろうとした。そのあっさりとした様子がまた気に入らなかったのか、熊は親信の背中に声を荒らげる。


「待てっ。もう一度勝負しろっ」

「今の勝負に仕切り直さねばならぬ理由わけはございましたか?」


 何度もやり直していてはいつまで経っても帰れない。そろそろ帰って家のことをしたいのだ。勘弁してほしかった。

 熊は、どうしても負けを認めたくないようだった。あまり負けたことがないのだろうか。


 もしかすると、家柄がよいので皆が敬ってくれている、などということもあったのかもしれない。向かうところ敵なしというほどに強いわけではなかった。むしろ、中堅を勤め馬之介でも三本中、一、二本は取るのではないのか。


 親信としては敗者だからと見下したつもりはないのだが、とにかく癪に触ったのだろう。熊は足を踏み鳴らすと、親信を睨めつけて吐き捨てる。


「素浪人風情がっ」


 剣で負けたからと言って、口で勝っても勝負が取り戻せるわけではない。大体、その浪人に負けたのだから、それを言えば恥の上塗りではないのか。

 親信は軽く嘆息した。


「私はしがない浪人ではございますが、それが何か?」


 沙綾の実家の道場に住み込んでいた時には、こんなふうに突っかかられることはたくさんあったな、と懐かしく思った。それを考えると、手習所の師匠は先生先生と敬ってもらえていい。仕官するよりもしかするといい目を見ているのだろうかという気になった。

 しかし、熊はなかなか怒りを収めない。拳を握り締めると、歯噛みした。


「益体もない浪人が、この――っ」


 その時、タン、と潔い音を立てて馬之介が立ち上がった。馬之介はその場から、声を張り上げているのではないがよく通る声で言った。


「それくらいにしておかれよ。勝負は勝負にございます。さあ、楠城殿帰りましょう」

「しかし――っ」


 熊も引くに引けなくなっているのかもしれない。それでも、馬之介は穏やかに見えて譲らなかった。


「創栄館の名を出して試合を申し込んだ以上、私情は差し挟むべきではございませぬ」


 看板を汚すのは熊としても本意ではないのだろう。グッと唸って、それでも渋々ながらに引いた。

 親信はほっとした。多分、青木道場の皆はもっとほっとしたことだろう。


「では、これにて失礼仕ります。よい修行になりました。有難う存じ上げます」


 馬之介は兵衛に丁寧に頭を下げた。兵衛は熊の言動に腹を立ててもいたかもしれないが、馬之介が礼を尽くす出来物できぶつであったから、その怒りも薄れたようであった。


「いいや、こちらもまだまだ精進が足らぬところです。御相手頂き、よい刺激になり申した」


 熊はさっさとここから立ち去りたい思いでいっぱいだったのだろう。頭を下げたかどうだかよくわからない仕草を見せたかと思うと、足音をドカドカと響かせて去っていった。


 馬之介は少しだけ苦笑してみせる。それから、親信に何か言いたげな目をした。けれど、熊ともう一人が遠ざかっていくので、馬之介もそれを追いかけた。

 その背を眺めつつ、考える。


 手合わせをすれば勝てない相手ではない。多分、勝てるだろう。しかし、剣術の腕前がすべてではないのだ。人として勝っているかと問われるなら、負けているかもしれない。と、そう思える男だった。

 幸之進があんなふうになればと思ったが、まず無理である。


「一時はひやりとしたが、無事に収まったな。向井、此度も助かったぞ」

「お役に立てたならば幸いです」


 安堵した様子の兵衛にそれだけ返す。兵衛は、負けた大九郎と三郎太にギロリと厳しい目を向けた。


「おぬしたちは、それでもようやったと褒めてほしいか? それとも、不甲斐ないと責められたいか?」


 二人は言葉もなくしょんぼりと肩を落とした。言われるまでもなく、二人は己の負けを認めて自責しているのだ。だから、兵衛もそれ以上は言わなかった。


「まあ、一番情けないのは愚息なのでな。儂も偉そうなことが言えたものでもない」


 とのことである。

 しかし、道場の中で誰かがつぶやいた。


「いや、あの浅霧とかいう美男と相対されずよかったのではないでしょうか? 今度は『顔がよくなる膏薬』とか、怪しげなものを使い始めそうで――」


 やりかねない、と皆が思ったが口に出さなかった。何せ、兵吾は僻みの強い男である。



 ――とりあえず、親信はようやく家に戻ることができたのだが、なかなかに時を食ってしまい、子供たち以上に幸之進に不平を言われた。

 せっかくの休みだったのに、これではいつもと変わらん、などなど。

 それを加乃が、


「父上にもお付き合いがございますので」


 と宥めてくれた。できた娘である。

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