第6話

 王泉寺の門を潜る。この寺は雑用をこなす寺男を含めても五人ほどしかいない小さな寺である。


 親信には武家の子を教えられるほどの知識はないが、町人の子たちに読み書きを教えるくらいならば辛うじてできると思い立った。手先は不器用、こまごまとした内職は不得手だったので、それくらいしか思いつかなかった。


 しかし、肝心な手習所を開く場所がなかった。それが、沙綾が色々なところに頼み込んでくれて、王泉寺の堂を借りることができるようになった。板敷の堂を貸してくれるにあたり、畳を敷くかどうか迷ったことを昨日のことのように覚えている。


 沙綾は、この寺の片隅にいつもいる。親信は妻の墓に朝夕と手を合わせるのが日課となっていた。

 それから、先に住職のところへ挨拶に行く。


才真さいしん和尚、おはようございます。今日もよろしくお願い致します」


 才真は、齢七十に近いのだが、腰は曲がっておらず、立ち姿は矍鑠としたものだ。何故だか眉毛が長く、禿頭に白い眉毛が際立って見えるが優しい顔をしている。


「おはようございます。今日もよい日でありますように」


 手習所は、子供たちが集まるのだからどうしてもうるさい。それを才真は子供の声はうるさくなどない、心地よいものだと言ってくれる。老いた和尚のしわがれた念仏より、御仏もお喜びでしょう、と。


 そう言ってもらえると、正直ほっとする。親信が教える子供たちは、それなりにうるさい方ではあると思う。




 朝、親信は堂の板敷を剣術の道場のように拭き清め、文机を並べる。結局畳は敷かなかったのだ。

 そうこうしているうちに、教え子が数人やってくる。


「先生、おはようございます」


 柔らかな口調で挨拶するのは、最年長のうめである。十一になったので、そろそろここを離れる時も近いのだが、梅は面倒見がよいので、いなくなると親信が困るかもしれない。女子にしては上背があることを少しばかり気にしているのがまた可愛らしいところだ。


「おはよう。お梅、手習草紙てならいぞうしを配ってくれぬか」

「あい、先生」


 手習草紙は、手本を元にして字を書き写す練習帳である。半紙を綴じてあるだけのものなのだが。


 次に来たのは寛太かんただ。梅に次ぐ十歳。下に弟妹が五人もいるが、寛太だけ年が離れているので、他の兄妹はまだ習いには来ていない。長男だからか我慢強い子である。


「おはようございます、先生。お梅ちゃんも」

「おはよう。寛太はすずりと筆を並べてくれ」

「はいっ」


 ――素直なものである。皆がこうであってくれればと思ってしまうが、それはこちらの都合であり、子供たちは気ままなものだ。


「せんせぇ、来たよ」


 慌ただしい足音と共に、七つの小吉しょうきちが来た。無邪気というのか、一向に礼節が備わらない。

 幼さばかりではない。加乃の方が年下なのだから、やればできるはずである。


「来たよ、ではない。おはようございます、だ。毎日言っておるだろうに」


 ため息交じりに言うも、小吉はそばかすの浮いた顔を傾けるだけである。


「毎日って、昨日は言ってないよ?」

「昨日は休みだったからだろうに」

「やっぱり言ってないんじゃないかぁ」


 と笑っている。言いたいことはたくさんあるが、小吉にばかり構っている場合ではない。


「あー、今日もかったりぃ」


 堂々とそんなことを言うのは、寛太と同じ年の貞市さだいちである。体は誰よりも大きく、態度も大きい。大人に対しても臆することなく、素直に従ってはくれない。この先、このままではよくないとは思うのだが。


「来たらまずはおはようございます、だ」


 親信が怖い顔をしてみせても、貞市はへらへら笑っている。


「あー、はいはい」


 大人を食った態度で、前にいた手習所を追い出されたのだという。それでも、受け入れる前からいけないと決めつけるのではなく、受け入れてから考えようと思った。

 今のところ、それが良かったのかどうかはわからない。


 他にも古着屋の孫である宇美、今年の初午はつうまに入ったばかりの六歳の女の子、せんなど――次々来た。


「さあ、今日も一日よく学びなさい」


 元気よく返事をした者もいれば、鼻で笑った者もいる。これもまた、いつものことだ。

 規則正しく並べたはずの机は、すでにあちこち好きな方を向いている。親信は己が書いた手本を皆に配り、それぞれが模写するように言った。

 墨を擦る間にも、子供たちはうるさかった。


「墨が飛んだぁっ」

「あ、わりぃ」

「おい、小吉、お前背中に何つけてんだよ。鳥の糞じゃねぇの?」

「ちげぇやいっ」

「お前らうるさいぞっ」

「寛太がまたいい子ぶってらぁっ」

「こら、やめなさいっ」

「お梅ばあさんが怒ったぁ」

「誰がばあさんよっ」


 ――うるさい。

 しかし、いつもこうなのだ。静かだったら逆にどうしたのかと不安になる。才真はうるさくても構わないと言ってくれているので、それが救いだ。


 ぎゃあぎゃあと騒がしく、それでも皆がなんとか筆を動かす。

 ようやく昼になると、皆は一度昼餉を食べに家に戻った。親信も昼餉に持参した握り飯を頬張り、ひと息つく。


 子供の扱いが下手だと、自分でもわかってはいるのだ。

 己も人の親になったからこそ、以前よりは少しくらいましになったと思うだけで。

 ふぅ、とため息をつく。


 そうして、家の方はどうだろうかと考える。加乃がいるので、いつも親太郎に飯を食わせてくれている。けれど、加乃もそろそろ女筆指南所にでも通わせたい。親である親信が教えるよりも、他人が教えた方がいい。しかし、そうすると親太郎の面倒を誰が見るのかということになってしまう。


 そこですかさず、幸之進が見てやろうと言い出しそうだが、そんなに長く居つかれては困るので当てにしたくはない。


 加乃たちはあのよくわからない若侍を相手にどう過ごしているのだろう。昨日のようにただひたすら静かに寝ていてくれればいいのだが。




 昼の休みを終え、教え子たちが戻ってきた。

 そこから一時(約二時間)、また騒がしかった。しかも、一度家に戻った寛太がそのまま来なかった。時折、こうしたことがある。親が急な用で出かけるから、弟妹を見ていてくれと言われてしまうのだ。

 真面目な寛太が来なかったことでさらに騒がしくなった。


「うるさいぞ。静かに書きなさい」


 親信は何度それを口にしたことか。

 それでも、まるで効力はない。かといって、子供相手に本気で怒鳴ったのでは怖がって来なくなる。ただでさえ親信は大柄なのだ。そんな大人が全力で叱ったら、子供たちは恐ろしいだろう。

 どうにもその匙加減がわからない。


 親信なりに子供たちがやりやすいように気を配っているつもりだが、子供たちはどう思っているのだろう。なるべく、上手く書けている時は褒めてやる。間違えている時もそっと言う。

 厳しい方が身につくのかもしれない。子供を叱るのが苦手なのは親信の方かもしれなかった。




 ようやく定時を迎え、手習所はお開きである。

 いつものことだが、ぐったりと疲れた。


「せんせぇ、さよおなら」

「先生、今日も手ほどきをありがとうございました」

「先生、また明日」


 子供たちは口々に言って去っていく。


「ああ、また明日。気をつけて帰りなさい」


 やんわりと笑みを浮かべる親信の横に貞市が立っていた。貞市と梅だけは背が高いので、親信の腰よりも上に頭がある。

 いつになく素直な笑みを浮かべていた。


「先生、さようなら」

「ああ、気をつけてな」


 そのまま去るかに思えた貞市は、手から駒を落とした。そんな遊び道具を持ってくるなと言いたいところだが、大っぴらに出して遊んでいたわけではないのでうるさくは言わない。落とした駒は転がり、親信の前を通り過ぎた。屈んでそれを拾うと、貞市に手渡す。


「どうして駒を持ってきている?」

「寛太の弟にあげようと思ったんだ。でも、あいつ、昼から来なかったし」


 寛太の家は子だくさんだけあって貧しい。一方貞市は一人っ子で、家は商家。裕福な方だ。望んだものは買ってもらえる。

 そんな優しさを見せた貞市の頭を親信はそっと撫でた。


「そうか。また明日渡してやるといい」


 貞市は嫌な顔をして親信の手から逃れ、そのまま駆け去った。あれは照れているのだろうか。やんちゃでも、可愛いところもある。

 皆が去った後、親信は文机を片づけ、板敷に零れた墨を拭いて清めた。それから、妻の墓に参る。


「沙綾、夕餉の菜は何がいいだろうか」


 夕餉の献立など墓石に相談するなと言われるかもしれないが、いつもここで考えてしまう。幸之進の分も要るのだ。あれに食えぬものはあるのだろうか。

 そんなことを気にしてやる筋合いもないかと思い直す。嫌なら食べなければよいのだ。


「まったく、おかしな者が紛れ込んだものだから」


 今朝も独り言ちたが、また言ってしまった。

 夕餉の買い物をしがてら帰るとしよう。早く戻らねば、加乃と親太郎も不安になっているだろう。




 親信は才真を探し、挨拶をする。本堂の方におり、親信はその縁側から声をかけた。


「今日もお世話になりました。また明日もよろしくお願い致します」

「お疲れ様でございます」


 才真も忙しい身である。親信は本堂に上がることもなく、遠くからいつものやり取りをして帰路についた。


 しかし。

 夕餉は何にしようか。決まらない。


 一度家に帰ってから、煮売屋で何か見繕おう。

 夕餉の菜のことばかりを考えていた親信は、あまりにも周りが見えていなかった。そのことに気づいたのは、家に帰ってからである。




 家の戸口に立った時、中から子供たちの笑い声がした。


「えぇっと、ほら、あれだ、あれ」

「あれではわかりませんよ」

「し、なの。しー」

「わかっておる。し、だな、しー」

「ほらほら、お早く」


 なんの話だ、と訝りながら親信は戸を開けた。

 その途端に子供たちはひどく驚いて振り返った。


「も、もうそんな頃合いでしたか。父上、おかえりなさいませ」


 加乃は慌てて三つ指を突く。親太郎はというと、胡坐をかいて座っている幸之進の膝の上にいた。


「ちーうえ」

「うん、今帰った」


 親太郎は、にこにことご機嫌であった。小さな手で幸之進の肩口をギュッと握り締めている。加乃もいつもよりにこやかに見えた。

 幸之進が二人と遊んでくれていたのだろうか。


「親信殿、今日は二人によく相手をしてもらって楽しかったぞ」


 子供と遊んでやったのではなく、お前が相手をしてもらったのか。幸之進はへらっと笑っている。


「しーとり、したの」


 楽しかったらしい。それが表情や仕草から伝わる。

 膝の上の親太郎を撫でまわしつつ、幸之進はうなずく。


「怪我が治ったら、もっと遊べるからな。もうちっと待ってくれ」


 どうやら子供好きなようだ。それは助かるのだが、本当にいつまでいるつもりなのだろう。


「子供たちを見てくれていたようで、礼を言おう」


 一応は、親としてそれを言わねばなるまい。

 複雑な心境ながらに親信は礼を口にし、それから戸を閉めた。その後で振り返ると、幸之進は不思議そうに瞬きを繰り返した。その顔はなんだろうかと思いつつも親信は言う。


「夕餉は何が食いたい? 昨日は豆腐だったが――」


 加乃も思案顔になり、それから口を開きかけた時、幸之進が土間に立つ親信に平然と言ったのである。


「親信殿、へそを見せてくれぬか?」

「は?」

「いや、本当になのかと」

「――なんだと?」


 温厚で通っている親信だが、顔が引きつる。それでも、幸之進はけろりとしていた。


「そこにそう書いてあるではないか」

「書いて?」


 幸之進は親太郎を膝から下すと、立ち上がって親信の方に手を伸ばした。その手は肩を通り過ぎ、背中の辺りでパリ、と小さな音を立てる。

 幸之進が手にしていたのは、半紙である。そこには――。


 [でべそ]と、拙い字ででかでかと書かれていた。

 幸之進は何度もうなずく。


「でべそは特に恥ずべきことではないが、世間に知らしめるものでもあるまいに」


 こめかみの辺りでプチンと音がした。しかし、子供たちの手前、罵倒したい言葉をすべて呑み込んで、ただひたすらに鯉のように口をぱくぱくと動かした。

 わざとでないなら、この幸之進の言動は一体なんなのだろうか。腹が立つことこの上ない。


 頭から湯気が出そうなほどであったが、それでも親信はなんとか自分を落ち着ける。冷静になってみると、思い当たるのはひとつだ。

 貞市が落とした駒を拾ってやった時に屈んだ、あれだ。


 幸之進から半紙をひったくると、紙の一辺に米粒がびっしりとつけてあった。この遠慮のない、筆先の潰れた文字も貞市の手だ。


 ――前にもあったのだ。

 前に書かれていたのは、〈はげ〉だった。禿ていないのは見ればわかるが、今度はでべそか。

 潔白を示すには脱がねばならなくなる。迷惑な話だ。


「で、どうなのだ? でべそなのか?」


 己は短気ではない。温和で通っている。

 それなのに、この幸之進といると手が震えるほどに腹が立つのである。


「夕餉は要らぬとみえる」


 冷え冷えとした低音を親信が零すと、幸之進は首を横に何度も振った。その動きが面白かったのか、親太郎が真似をしている。


「いいや、腹は減っておる。すまん、いくらでも謝ろう」


 急にしおらしくなった。そんなに飯抜きは嫌なのか。

 見た目のわりに子供である。

 ただ――。


「そんなにもでべそを気にしておるとは思わず、すまなかった」


 ブチ、とまたこめかみが鳴った。

 怪我人でさえなければ、本当に投げ飛ばしてやりたい。


 こうなると、幸之進に斬りつけた者のことが憎らしく思えてくるのであった。お前が仕損じるからうちに転がり込むはめになったのだと。

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