参❖柏餅の五月

第18話

 幸之進ゆきのしん親信ちかのぶの住むきなこ長屋に逃げ込んできてから、早ひと月余りが経とうとしていた。

 その間、旗本の父は出奔した息子を探していないのだろうか。探していても見つけられないだけかもしれない。


 何せ、知己もいないこんな貧乏長屋に逃げ込んだ上、そのまま居ついているなどとは思わぬことだろう。世間体もあることだから、大っぴらに捜索するわけにもいかず、難儀していると思われる。


 妙な男ではあるが、それでも唯一の跡継ぎであるのなら探すしかないだろう。いっそ、もっと生真面目な出来物を養子に据えた方がいいかもしれない、と開き直った方がましなような気がしないでもないが。


 ここへ来てから幸之進は親信の家で子守りをし、時に親信の手習所の手伝いをした。逆に言うならば、それくらいしかしていないのである。


 親信のところへ逃げ込むはめになった刀傷は、傷跡こそ残っているものの、すっかり塞がり、健康そのものである。もう置いてやる必要はまったくと言っていいほどにないのだ。

 しかし、出ていくつもりはないらしく、今日も就寝前だというのにうるさかった。


「親信殿、端午たんごの節句には欠かせぬものがあるだろう?」


 親太郎を膝に載せて抱き、ぴったりとくっついている。その子は親信の息子なのだが、これでは誰の子かわからないほどだ。


 三つの親太郎にとって、端午の節句は初めてのことではない。そうは言っても、それほど豪勢に祝ってやることもできず、ささやかな祝いではあるのだが。まあ、初節句のことなど覚えてはいないだろう。


菖蒲しょうぶの葉? 菖蒲刀あやめがたなか?」

「わざと言っておるのではなかろうな? 柏餅かしわもちに決まっておる」


 ああ、それかと親信は呆れた。

 改めて言うものだから、何か特別なものかと思ったのだが、ごく当たり前のものであった。


「去年は親太郎も小さくて喉を詰めるからと与えなかったな。まあ、それどころでもなかったのだが――」


 去年は妻の沙綾さやが亡くなり、喪も明けぬうちから祝い事などする気にもなれなかった。本当はしてやるべきだったのだろうか。


「柏餅はな、あの葉に包まっているだけでただの餅よりも格上の菓子になれるのだ。それも端午の節句という舞台においての主役だ。大福では柏餅の代わりにはなれぬのだ」


 そう熱く語られても、餅は餅なのだが。

 幸之進は甘いものに目がない。だからうるさいのだ。


「そんなにもこだわりがあるのなら、おぬしが買ってくればよい」


 大体、一日中うちにいるのだから、買いに行けばいいのに。

 しかし、幸之進はグッと言葉に詰まった。


「明日は節句の休みで親信殿も手習所を開かぬではないか」


 手習所は、正月や盆以外にも節句の時には三日続けて休む。しかし、だからといって、常に家にいる幸之進はずっと休みであるのと変わりない。

 幸之進は、怪我がすっかりよくなっても家から出たがらない。それはややこしい事情のためだろう。


 家出中の幸之進は、家の者に見つかりたくないが故に家から出ないのだろう。それと、一人でふらふらしていたところ、諍いを起こして斬られたのだ。また同じような目に遭うという恐れもあるかもしれない。

 一人ではなく、親信がいれば共に出歩くくらいのことはするのだが。


「親太郎のために、美味い柏餅を是非に買い求めてくれ」

「だから、親太郎の親は私だ。おぬしが食いたいだけだろうが」


 呆れて言うものの、幸之進には利かない。壁際でうとうととしていた加乃に向かって急に振る。


「加乃殿も柏餅は好きか?」

「は、はい」

「そうか、好きか」


 へら、と笑っている。


「明日が楽しみだなぁ」


 そうして、親信は柏餅を買いに出ることになるのであった。

 幸之進に何かを言われずとも買いに行くつもりではあったのだ。それが、行かされたような妙な気分になった。



     ❖



 端午の節句ともなれば、柏餅を売る店は多い。振り売りも来る。

 まさか買い損ねるなんてことはないと、親信は高をくくっていた。朝のうちに朱墨、墨汁や半紙、筆――手習所で使う道具の買い出しをして王泉寺に運ぶ、という、休みのくせに仕事の準備をしていたのだ。休みは三日あり、昨日は家の掃除をして、子供たちともゆっくりした。


 しかし、今にして思えば、こういうことは昨日のうちにやっておけばよかったのだ。

 昼が近づき、親信がいつも通りかかる屋台見世やたいみせで柏餅を買い求めようとしたところ、なかったのである。板の台の上は綺麗に何もない。


「毎度ありっ」


 親信の前にいた客が最後だったのか、その屋台見世はのぼりを下ろし、明らかに見世仕舞いを始めている。親信は焦った。


「柏餅はもうないのか?」


 すると、売り子の女は上機嫌で言った。


「ええ、おかげさまで今朝作った分はもう売りきれましたっ」


 少なくとも、親信のおかげではない。

 それは困る、と強く出ても、手妻のようにして柏餅を出せるわけではないだろう。困った。


 まだ別の見世を探せば手に入れられるはずだ。何もここにこだわることはない。


「そうか、仕方がない。ではな」


 去りゆく大柄な浪人が、柏餅を買えなかったくらいで哀愁を漂わせているのは滑稽だろうか。

 けれど、手ぶらで帰ったらどうなるだろう。加乃や新之助は、残念そうにはするかもしれないが、それを呑み込んで我慢するだろう。そんな可哀想なことはさせたくない。


 それから、一番厄介なのが幸之進だ。

 あれは、遠慮なく口に出す。

 楽しみにしていたのに、なんで先に買っておかなかったのか、端午の節句を甘く見てはいかん、などなど、言われるに決まっている。


 困った。

 親信はそれから、柏餅を探してさまよう。

 探していない時は振り売りが走り回っていたように思うのに、いざ探してみるとどこにもいない。俸手振ぼてふりだと思って近づいても、菖蒲の葉だけだったり、まったく関係のない魚屋であったり。


 そもそも、他の菓子屋はどこにあるのだろうか。辺りを見渡しながら、フラフラと歩く。


 ただ、そろそろ帰って昼餉を子供たちに食べさせなければならない。そう遠くへは探しにもいけない。橋を渡りながら親信は溜息をついた。

 当てもないまま東本願寺の前の通りを歩くと、その時、親信に声がかかった。


「おや、向井様。こちらにご用で?」


 ハッとして顔を上げると、通りかかったのは、同じ長屋の店子たなこ和吉かずきちであった。和吉は居職いじょくのつまみ細工職人で、ほとんど部屋に籠りきりであり、同じ長屋でもこうして顔を合わせるのは稀であった。それが外でばったり会うのだから、珍しいことだ。


 火消しの半治はんじと同じ年頃のはずだが、気質が火と水ほどに違う。いかにも誠実な落ち着いた面立ちに細身のなで肩。一日中同じ作業を繰り返していられるのだから、辛抱強い男だ。


 思えば、幸之進が来て長屋の皆が騒いでいた時でさえ、和吉はその野次馬の中に加わりもせずに納期間近のかんざしを仕上げていたという。まだ若いが、立派な職人だ。


 この時刻に外にいるということは、今日が品物の納期だったのだろう。穏やかな顔からするに、納めて帰るところではないだろうか。

 親信は、わらにもすがる思いで和吉に訊ねてみた。


「うむ、実はだな、柏餅を探しておる」

「柏餅――ああ、今日は端午の節句でしたね」


 子もいない独り身の和吉には関わりのないことであったらしく、無頓着な様子だった。が、少しして何かに思い当たったようだ。


「そうか。それで柏餅を――」


 そう独りつと、和吉は微笑んだ。


「さっき、行きつけの茶屋で柏餅を頂きやした。ちょいと覗いてみやすか?」

「ああ、ありがたい」


 渡りに船とはこのことだ。親信は和吉と連れ立って歩く。

 親信も和吉も無口な性質であり、話は弾まない。それは最初からわかっていたので、互いが無言だったとしても気にならないと思っていた。

 けれど、この時、和吉はよく喋った。


「向井様のところは男女どっちもお子がいなさるから、桃の節句も端午の節句も欠かせやせんねぇ」

「ああ、そうだな。子供たちのことだから、ちゃんと祝ってやらねばとは思うのだが、何せ無骨な男所帯なので、行き届かずに困ったものだ」


 沙綾がいた時は、さりげなくすべてが用意されていた。だから、親信は何もせずともよかった。それに甘えていたからこそ、今になって苦労があるのだから仕方がない。

 和吉は穏やかに笑ってみせた。


「やっぱり、子供は可愛いもんですかねぇ」

「うん? それはそうだ。日に日に成長する姿には感動もある」


 本当に、沙綾がいないのに生きているのは、子供たちのためだ。生きる理由をくれたのは加乃と親太郎である。一人ではとても立ち直れなかった。

 親信の答えに満足したのか、和吉は眩しそうに目を細めた。


「まあ、その前にまずは所帯を持つことからでしょうけどね」


 和吉は腕のよい職人である。それもつまみ細工職人なのだ。

 かざり職人や鼈甲べっこう職人も簪を扱うが、つまみ職人は若い娘が好んで挿すびらびら簪などを手掛ける。羽二重はぶたえの布を小さく折ったものを重ね合わせ、布地で花を咲かせるのだ。他の簪に比べると安価で華やかな代物である。


 故に、若い娘には持てはやされることだろう。

 話の流れから、和吉はそろそろ所帯を持ちたいと考えているのではないかと思えた。そして、興味があるのは、意中の娘がいるからこそだ。


 若くとも稼ぎもそこそこにあるのなら、十分にやっていけるだろう。半治などは、いつ死ぬかもわからない身だから、と一人の娘とねんごろになるのではなく、ちょくちょく吉原へ繰り出している。

 和吉は冷やかしにすら行かない。それも想い人がいる裏づけのように思われた。


 一度そんなふうに考えると、妙に和吉に肩入れしたくなる。親信は何かを言うわけではないが、心のうちで密やかに和吉が所帯を持つ日を楽しみにするのだった。


 和吉がそんな話を振るから、親信も沙綾がどんなにできた妻であったかを語り、そのおかげで少ししんみりしつつも和吉が案内する茶屋に辿り着いた。


 そう遠かったわけではないのだが、遠く感じたのは、普段は通らない道であったせいかもしれない。

 大通りではなく、小道だ。そこに床几しょうぎ葦簀よしずで簡易に作られた茶屋がある。

 客は一人いたが、それだけである。あまり商売っ気があるとは言えない。


「あら、和吉さん? 忘れ物でもされました?」


 葦簀の陰から出てきたのは、うら若い娘であった。格子縞こうしじまの着物に緋色の前垂れをした娘は、この茶屋の看板娘なのだろう。


「いや、おはつちゃん。そうじゃあねぇよ」


 急に和吉が気張っているような気がした。笑顔でもなく、取り澄ました顔つきになるのがわざとらしい。

 娘は、小さいながらに綺麗に咲かせたつまみ簪を挿しているが、あれは和吉の手によるものではないだろうか。あの簪が娘を見守っているような、虫よけのつもりでもあるような、そんなふうに見えた。


 なるほど、この娘が和吉が所帯を持ちたい娘か。

 顔立ちは色白の面長。美人の部類である。

 しかし、和吉のこの様子だと、想いを告げることすらできていないのではないだろうか。ただこの茶屋の前をたまたま通りかかったふりをして茶を飲んでいく。それくらいだろう。


 だからきっと、この初という娘も和吉は客の中の一人でしかないに違いない。少なくとも、初の態度からは特別感が窺えなかった。


「さっき食った柏餅が美味かったから、柏餅を買いてぇっていうお客を連れてきただけだ。同じ長屋に住むお侍様で、小せぇお子がいなさるから、買って帰りてぇんだそうだ」


 そう、和吉の事情の前に柏餅だ。柏餅を三つ、四つ買うことが先決である。


「すまんが、柏餅を四つほど包んでもらえぬか? 売り切れだそうで、他では買えなかったのだ」


 すると、初は口元を押さえて一度親信を見上げた。


「そのお店は売り残したくなくて、最初は控えめに用意したのかもしれません。でも、今は売り切れていても、またしばらく待てば、きっと作って出しますよ。稼ぎ時ですからね」


 そういうものなのだろうか。待てば買えるのか。

 けれど、和吉は呆れた様子でぼやく。


「せっかくお客を連れてきてやったのに、どうしてそう商売っ気がねぇんだかな。ここの柏餅は美味ぇって言ってんだ。自信持って売りやがれ」

「でも、茶屋で出すものと本職のお菓子を比べられたら、自信がないわ」


 初の口ぶりからするに、柏餅を作ったのはこの初であるらしかった。


「ほう、おぬしが作ったのか」

「私と、おっかさんとで、ですが」


 よく見ると、近くに母親らしい女がおり、こちらを気にしてちらちらと見ている。


「そうか、親子でな。和吉が勧めてくれたのだから、美味いのだろう。ここの柏餅を買って帰りたい」

「お侍様がそこまで仰ってくださるのなら――」


 初は気後れしつつも母親のところに戻り、事情を話して柏餅を竹皮に包んでくれた。


「四つで十六文でございますが」

「うむ」


 親信は穴あき銭でジャラリと勘定を済ませると、柏餅を受け取った。柏の葉の爽やかな香りが僅かに漂う。

 本当に、ほっとした。生き返った。これで諸手を振って家に帰れる。


「助かった。かたじけない」


 柏餅くらいで大袈裟だと思うかもしれないが、助かった。


「い、いえ。本当に、そんなにご大層なものじゃあありませんから」


 控えめな娘だ。そうしたところが和吉も気に入っているのかもしれない。

 和吉は、ヘヘッと笑った。


「向井様、よございましたね」

「ああ、和吉も恩に着る」

「そんな、大仰な」


 照れたように笑い、それから和吉は初に向けて口の端を軽く持ち上げてみせた。笑ったつもりなのだろうけれど、あまり上手くはない。


「じゃあな、お初ちゃん。また来らぁ」

「ええ、いつもご贔屓にして頂いてありがとうございます」


 和吉の顔からは、一度別れて今日はこれまでだと思っていたところ、こうして口実ができてまた初の顔を拝めたという喜びが垣間見えた。ただし、その時すでに初には背を向けているので、当の本人には伝わらない。

 親信はそんな和吉と帰路につきながらぽつりと言ってみた。


「お初殿はよい娘だな」


 その途端、和吉は動揺を見せた。


「え、ええ、まあ、そう、です。む、向井様、もしや、後添えをお探しだとか、その、そういう――」

「違う。そういう意味で言ったのではないぞ」


 親信は沙綾を亡くしてまだ一年。他の女子のことなど考えられそうもない。これからもずっと、考えられないままかもしれないと思っている。


 違うと言われ、あからさまにほっとした和吉のことが妙に微笑ましく映った。もっと落ち着いた男だと思ってきたが、こんなにもわかりやすい面を持っているとは知らなかった。


 和吉の想いが通じ、晴れて二人が夫婦になれたらいい。

 想う相手と所帯を持てることがどれほどの仕合せか、親信も身に染みてよく知っているのだから。

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