第17話

 一度湧いた疑惑は、平素となんら変わりのないよねの顔を見るまで払拭されるものではなかった。

 そのくせ、面と向かって藤庵に訊ねる勇気もない。そんなふうだから、昨日のようには笑えない。それでも、子供たちは無邪気に笑い声を立てて庭を駆け回っていた。


 青い葉の伸び出した白梅が、青い空を背にして子供たちを見守っている。

 幸之進はというと、親信以上に何かを感じているように見えたけれど、今は普通に子供たちと戯れている。物事を深く考えない性質というのか、得な性格だ。


 どうしたものかと親信が白梅を見上げていると、縁側の障子に隙間ができた。


「藤庵先生――」


 ぎょろりとした目に、まぶたがかげを落としている。こんなにも消沈した藤庵を見たことはない。

 やはり、悪いのはよねなのか。

 藤庵はかすれた声でつぶやいた。


「親坊よ、こっちに来ておくれ」


 親太郎はきょとんと、着物の腹の辺りを両手でつかみ、首を傾げた。親信はそんな親太朗を抱き上げ、藤庵のところへ近づく。

 藤庵は悲しい目をして障子の奥を示した。


 そこには、夜具に横たわるよねの姿があった。もう何も喉を通らないのか、さらに痩せて顔は土気色になり、髪もほつれて額にかかっている。目は開いておらず、ここからでは生きているのかさえ判じられなかった。


「せ、先生、およね殿は――」

「もう、これ以上は持たん。だから、親坊に手を握ってやってほしいのだ」


 何故、親太郎なのだ。藤庵が握っていてやればそれでよいのではないのか。共に暮らし、情を交わした者同士だろうに。

 躊躇った親信の背を、幸之進が強く押した。


「親信殿、時がない。考えるのは後だ」

「あ、ああ――」


 その時、幸之進は親太郎に向け、優しく諭すようなことを言った。


「親太郎、今からこの家を出るまで、決して泣いてはいかん。ただじっと、小母おばさんが眠るまで手を握ってあげるのだ。できるだろう?」

「あい」


 小さな親太郎だけれど、何か重大なことを託されたと感じたのだろうか。いつになく目に力があった。そうでなければ、今にも息を引き取りそうな病人を前に、泣かずにいられたとは思えない。


 親信は我が子を抱いて座敷に上がると、よねの枕元に親太郎を下した。その両隣に加乃と幸之進がつく。親太郎は丸っこい手で夜具の端をめくり、よねの手を探し出した。痩せて骨ばった手を、艶々として生命に溢れる手で握り締める。活力がそこから注がれるようであった。


 よねの表情がほぅっと柔らかくなる。眉間の皺が薄れ、まぶたが何度かひくひくと動いた。乾いて割れた唇から嗄れた声が零れる。


「ああ――、坊や、ここにいたのかい」


 声をかけられ、親太郎はどうしたらよいものかと戸惑っていた。それを、幸之進が肩に手を添えて落ち着ける。


「よかった、どこかで、泣いているんじゃあ、ないかって、案じていたんだよ」


 苦しそうにそれを言う。そうして、何も映していないのではないかと思うような虚ろな目を僅かに動かした。


、あんたが見ていてくれたんだねぇ」


 加乃に向け、〈おとわ〉と呼びかける。

 死の淵で、よねは幻を見ているのか。見知った誰かと勘違いしている。

 しかし、聡い加乃は違うとも言わずに小さくうなずいた。


「ごめんねぇ、坊や。おっかさん、あんたには、なぁんにも、して、や――」


 乾いた頬を涙が滑り落ちた。それが命の終わり、燃え尽きた蝋燭がふっと消えるような合図に見えた。

 こうした場面を、親信は二度繰り返した。父と、妻の沙綾だ。


 だから今、よねが事切れたのだと否応なしにわかってしまう。親信がわかるのだから、医者である藤庵がわからないはずはない。


 感情に締めつけられて軋む頭を藤庵の方に向けた。

 藤庵は、魂だけよねに付き添っていったように放心していて、ただいつもの大きな目玉だけが赤く、悲嘆を表している。そんな様子を目にした親信もまた、目頭が熱くなるのだ。


 それは、自身の苦しみを重ねるからだろうか。

 沙綾を失ったあの日の苦しさを。

 明日からは日も昇らず、この世のすべてが朽ち果てたも同然だった。

 心が壊死した、あの悲しみを藤庵も今まさに味わっているのかと思うといたたまれない。


 藤庵は呆然としながらも淡々と語り出した。無理をせずともよいと思うけれど、語っていた方が楽なのだろうか。


「すまんな、妙な頼み事に付き合わせて。さぞ不可解だっただろう?」

「いえ――。このたびはご愁傷様でございます」


 親信は拳を膝に、藤庵に頭を下げた。手が震えるのを止められない。

 親太郎は立ち上がると、そんな親信の肩口をギュッと握り締めてすがりつく。やはり、怖かったのだろうか。親信は親太郎を膝に乗せた。その様子を眺めていた藤庵は、ぽつりと言う。


「およねは、年季が明ける前に吉原で子を産んだのだ。男の子だったそうでな、生きておれば親坊と同じ頃合いだ」

「生きていれば、ということは――」


 うなずいた藤庵は少し縮んで見えた。


「死産だったそうだ。しかし、産後におよねも病みついて、ろくに顔も見ないまま葬られたらしい。だからな、およねは死産だなどとは信じておらなんだ。自分が客を取るのに邪魔だから引き離されたと言っておった」


 そこで加乃に目を向けたが、加乃を通して遠くを見ているようにも感じられた。


「〈おとわ〉というのは、およねがいた見世みせの禿の名だ。――おとわも、いや、誰もがおよねの産んだ子は死産だったと言った。正しくは、生まれて間もなくして死んだ、と。口裏を合わせているのではない。本当に死んだのだろう。少なくとも儂はそう感じたが」


 体がいよいよ弱り始めたよねのために、藤庵は吉原でよねの子を捜したのだ。

 その子を見つけるどころか、虚しい真実だけが道端に転がるようにして目の前に現れた。藤庵はきっと、途方に暮れただろう。


「年季が明けた時にはもう、無理が祟っていたのですね」


 幸之進がささやくように言った。

 長く生きられる遊女は稀だ。質素な食事を与えられるだけで、眠る時も惜しんで客を取らされ、挙句に病をうつされることさえある。遊女の多くは、年季が明けるのを待たずに死ぬ。身請けでもされない限りはそれでもあの苦界から逃げ出すこともできないのだから、悲しいものだ。


 すん、と小さく鼻を啜る音がした。


「ああ。それでも、行く当てはない、金もない、それではあんまりだと、儂が引き受けた。子のことがあったのでな、吉原から遠ざかりたがらなかった。およねにとってこの家は丁度良かったのだろうな」


 いつか、己が産み落とした子に出会えると信じていたのだろうか。

 けれど、よねは遊女だ。父親は好いた男ではなかっただろう。誰の子かもよくわからない赤子に、そこまでの思い入れを持てたのだろうか。

 重たい沈黙が親信の疑問を炙り出してしまったのか、藤庵はその答えをくれた。


「子の父親のことは語りたがらなかったがな、好いた男の子だと思い込みたかったのかもしれんな。そうでなくとも、母親は間違いなくてめぇだから、やっぱり腹を痛めて産んだ子は可愛いもんなのか――」


 よねは藤庵の妾なのだと思っていた。誰もがそう思っていたはずだ。

 今、こうしていると、二人の間にあったのは男女の情なのか、医者が病人に傾ける情なのか、よくわからない。


「子はどこにもおらん。捜し出して合わせてやれないなら、せめてその子と同じ年頃の子供の声を聞かせてやれば心安らかに眠れるなんて、浅はかなことを考えてしまってな。――まあ、そういうわけだから、助かった。すまんな」


 大きな、零れ落ちそうなほどに大きな藤庵の目玉が、いつもよりも見開かれているのは、瞬けば涙が零れ落ちるからか。

 よねの死に顔は安らかで、微笑んでいるようにさえ見える。


 しかし、これは偽りだ。

 救いの小さな手は、よねの子ではなく親太郎のもの。


 親信はやり場のない気持ちを持て余し、結んだ拳を握り直した。

 その時、幸之進がさっと袴の裾を直し、美しい所作で頭を垂れた。


「お悔み申し上げます。お顔を拝見する限り、今生の憂さを忘れて極楽浄土へ向かわれたことと存じ上げます」


 そこにいつものふざけた様子はなく、ただ真摯に藤庵の悲しみを思い遣っていた。

 だからか、藤庵も無言でうなずいた。


 藤庵はよねを庇護した。それがどんな思いからであったのかは余人にはわかり得ぬところであるが、それでも大事ではあったのだろう。

 よねが藤庵をどう見ていたのかはすでに訊けない。それでも、その優しさに感謝していたに違いない。

 ひとつだけ言えるのは、二人は他人ではなく間違いなく家族であったということ。


 家族が死に、二度と目を開けない。その時、己の心は欠けてしまい、二度ともとの形には戻れぬのだ。親信はそのことを知っている。欠けた心で残りの生涯を生きるしかない。

 藤庵もまた、欠けた心で生きてゆく。

 その心を騙し、補うのは、故人との思い出だ。


 親信も手を突いて頭を下げると、無言のままに戸惑う子供たちの手を引いて藤庵の家を出た。口下手な親信は、こんな時に何を言えばいいのかわからない。下手なことを言わぬうちに藤庵を一人にしてやるべきだと思った。

 そんな気持ちは伝わっただろうか。


「親信殿」


 逢魔が時に、幸之進が呼びかける。

 親信は振り返らなかった。それでも、幸之進は巧みに心を読む。


「あれはよい嘘だ」

「――っ」


 よい嘘などあるか。

 嘘は、嘘だ。


 嘘をついて、騙した。

 なのにもう、よねにはそのことを謝れもしない。


 いない子供を生きているかのように装った。どんなに残酷でも、真実を知りたかったかもしれない。

 傷つかないようにと周りが嘘を吐くのは、傷つくよねを見たくないだけのことではないのか。

 己たちまでもが傷つかぬように騙したのではないのか。

 少なくとも、あの子供は親太郎であり、よねの子ではない。親信と沙綾の子だ。


「勘違いしたまま逝けた方が仕合せやもしれぬぞ」


 よくそんなことが言えたものだと、親信は振り返って幸之進を睨みつけた。

 しかし、幸之進はその眼力に怯むことなく、親信が抱えた親太郎の頭を撫でた。


「親太郎、よいことをしたな。おぬしがおよね殿を救ったのだ」


 親太郎は、こくりとうなずいた。子供なりに今日のことは何か思うところがあったのだろう。どこか元気がない。

 それでも、幸之進に褒めてもらえたことで、親太郎の小さな体から力が抜けた。親信はそれを感じ、なんとも複雑な心持ちになった。


 嘘はいけない。

 人を傷つける。


 けれど、これは――。


「なあ、親信殿」


 にこり、と綺麗に微笑む。そうしていると、幸之進の本質が余計にわからなくなる。

 その微笑みに、どんな意味が込められているのか。

 日が暮れかかっているせいか、寂しく見えたりもするのだ。


「死に行く人を騙す形になったと、親信殿が心苦しさを覚えたのも仕方のないことやもしれぬ。しかし、だ。勘違いでも、およね殿の心が満たされたのならばよいではないか。真実を伝えたところで誰も得をせぬのだ」

「それは、そうだが――」


 幸之進の言い分は、親信が言い返せないほどには真っ当であった。

 この男は本当によくわからない。

 適当なのかと思えば、急に核心を突いてくる。


「親信殿はあの庭でよく白い花を眺めておったな。あの花が何故あそこに植えられたのか、親信殿は知っておるか?」


 急にそんなことを言われた。親信は、花などどうでもよいと苛立ちを覚えた。


「何故とは? 遅咲きの白梅だと思って見ていただけだ」


 それが一体なんだというのだ。

 子供たちの前であまり怒りを見せたくはないが、幸之進の意図がわからない。表情は険しかったことだろう。

 だが、幸之進は動じることなく淡々と言った。


「やはり花に疎いな。この時季に梅など咲いておるわけがない。とうに散っておるぞ。あれはな、山査子さんざしだ」


 山査子。

 白い、花。


 ――違うのか。


 けれど、それがなんだというのだ。

 幸之進はそれでも親信の怒りを吹き消すようにして語る。


「山査子は唐渡からわたりの木で、実が薬になるのでな、小石川御薬園に持ち込まれたという。藤庵先生もそのために庭木として植えつけたのだろう」


 妙なことを知っている。しかし、今は感心する気にはなれなかった。


「山査子でも梅でも、なんだっていい。今はそんな話をしている時か」


 見知った人の死を前に、親信は少しも冷静にはなれなかった。幸之進の方がよほど落ち着いている。

 落ち着いて、言った。


「俺が、あれは山査子だと告げなければ、親信殿の中であの花は梅のままだっただろう? それと同じだ。山査子だと知ったからといって、あの木が親信殿にとって梅でなくなるだけで、世の中にはなんの変化もない。山査子を梅だと思いたがる者がいたのなら、梅でもよいではないか」


 死にゆくよねを謀ったこと。親信は大変なことをしてしまったような気がしてならないのに、幸之進はそれでよいのだと言う。


 沙綾ならどうしただろうか。沙綾も幸之進と同じようなことを言っただろうか。

 母である沙綾になら、よねの心を量れた。少なくとも、親信よりは。


 幸之進は困ったようにかぶりを振った。


「決して軽んじて言うておるわけではない。偽りにも優しさがあれば気持ちは慰められるのだ。それを言いたいだけだ」


 よねにとって、真実は薬になり得なかった。

 それならば、嘘がよねを救ったと幸之進は思うのか。

 幸之進はこの時、急に加乃の手を取った。その手を親信の手に重ねる。それから、自分の手をその上に当てた。


「親信殿がこの嘘を苦しく思うのなら、俺たちも連座しよう。だから、親信殿だけが抱えずともよいのだ」

「父上、わたしも嘘つきでございます。わたしは〈おとわ〉ではありませんから。でも、ついた嘘は忘れません」


 加乃の目には涙が光っていた。親信はその涙を無骨な手で拭った。片手で抱いている親太郎が、ギュッと親信の首に腕を回して力を込める。


 ――この嘘は、墓まで持って参りましょう。

   そうすれば、真実になりまする。

   約束でございますよ。


 ああ、そうか。

 嘘ならば、親信もついていた。

 沙綾の体が一向によくなる兆しもないくせに、平気だと言い続けたのも嘘だ。

 親信自身がそう思い込みたかったのであり、本当のことなど子供たちにはとても言えなかったせいでもある。


 この嘘を幼い子供たちは覚えていて、些細な時に顔を出した。それでも、親信を嘘つきだとは言わないでいてくれる。

 あの時に戻ってやり直せたとしても、親信はいつかよくなると嘘をついただろう。うつつが苦しすぎて、嘘に慰められることもあるのだ。


 今はただ、よねとの最後のひと時を過ごす藤庵の心を案じ、そうして帰路を歩んだ。

 家族で歩く道のりは、寂しくも苦しくもない。

 沙綾が遺してくれたぬくもりが、確かにここにあるのだから。



      【 弐❖白花の四月 ―了― 】

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