欠落
「ああ、サリックス。今日も来たのか」
薫風に短い灰色の毛先を
「聴いてくれ。さっき論文を提出してきたんだが――」
いつものベンチに座りながら、グレアムは嬉々として語りだした。卒業考査の論文についてだ。〝戦闘においての魔力共振を利用した他者への魔力支援〟について考察した内容を、相談役の講師に褒められたのだとかなんとか。
「他者との魔力同調が難しい点が課題として残ってはいるが、実現性は十分にあると評価を受けた。データにも不足はなかったようだし、安心したよ。……まあ、また研究者のほうがいいんじゃないか、と言われてしまったが」
曲がりなりにも魔法師学校に通っていたジュディスだから理解できるが、おおよそ猫に話すような内容ではない。相変わらずそういうところは鈍感だ、とジュディスは呆れた。
それに、学問だけではないのだ。グレアムは日記を書く代わりに聴かせているのかというくらい、日常にあったことをサリックスに語り聞かせている。模擬戦が予想以上の好成績で魔法師兵になるのに不安はなさそうだ、とか、また冗談混じりに研究者になることを勧められてしまった、とか。
それから、ロザンナ・キャラハンのこととか。
ついにグレアムと完全に縁を断った
それにしても。
グレアムが話し好きだという印象をこれまでに持っていなかったものだから、サリックスに対する口数の多さにジュディスは驚かされていた。婚約していた間、数え切れないほど二人で会話をしたが、ここまでグレアムが、嬉しそうに、楽しそうに、自分のことを話しているのを見たことがない。
『グレアムだって。私の話、きちんと聴いてくれないのに……っ!』
何時だったか、そんな風に彼を詰ったことがあった。けれど、グレアムのこんな姿を見ていると、自分こそグレアムの話を聴いていたのだろうか、と疑問に思ってしまう。
グレアムに遠慮されていた? それとも、話をしても面白くない存在だと思われていた?
何度サリックスとしてグレアムに会いに行っても、判らなかった。
ただ、
――自分に嫉妬しているなんて、変な話。
呆れて笑いながら、とぼとぼと歩いてタウンハウスへ帰る。
魔法師学校と貴族街のジュディスの家は、人間の姿でも歩いて四十分ほどの距離がある。馬車ならその半分ほど。ジュディスは猫の姿のとき、片道に一時間ほど掛けてのんびりと行き来している。猫はときに人よりも速く走ることができるのだが、どうやら持久力はないらしく、道程の四分の一ほども走り続けることはできない。ジュディスの体力不足を鑑みても、走っての移動は現実的ではなかった。
グレアムと過ごす時間も含めて三時間にも満たない〝散歩〟の時間を家族は容認してくれている。だから、ジュディスが出掛けていても騒ぎになることはない。もっとも、両親は領地に帰っていて、タウンハウスに居るのは魔法師院に務めている兄と、同じく魔法師院に用のあるジュディスだけだ。
太く、高く育った
「――――」
この真昼間から兄の声が聞こえたので驚いた。今日はディックは魔法師院へ出ているはず。これほど早く戻ってきたのは珍しく、なにかあったのかとジュディスは階段を下りて行った。
階段の下にある客間から会話が漏れて聞こえてくる。ジュディスは、少しだけ開かれている扉の前まで近寄った。
「――後悔しているの?」
姉の声だった。この時期、ワーズワースの領地にいるはずのサブリナが、ここに居るとは珍しい。訪問の予定はなかったはずだ。
何故、今日姉はここに居るのだろう。仕事があるはずの、兄もまた。
「まあ、可愛がっていたものね。だからこそ、浮気の話を聴いて、許せなかったのでしょう?」
グレアムのことだ、とすぐに分かった。思わず気配を消して、耳をそばだててしまう。
兄の苦渋に満ちた声が、かすかに漏れる。
「あいつは、あんなことをしたジュディを見て、守るって言ってくれたんだ。どれだけ嬉しかったことか」
だから裏切られた気分になったのだ、とディックは語る。その気持ちはジュディスにもよく分かった。ジュディスも、グレアムがロザンナを糾弾の場から連れ出したとき、同じように感じたものだ。
あのときの絶望感は、今でもはっきりと思い出せる。サリックスとしてグレアムから話を聴いた限りでは、ロザンナと関わることはもうなくなったらしい。しかし、結局グレアムが彼女をどう思っていたのかについては、分からずじまいだった。
そのわだかまりが、ジュディスの中にまだ残っている。
「期待しすぎていたのかな、僕たちは」
「でも、その気持ちは解るわ。あのとき――〈
ジュディスは目を瞠った。〈
「正直に言うとね、私だって怖かったの。血塗れの姿で、魔力を暴走させたあの子を見たとき」
またしても聞き覚えのない、衝撃的な話。
「だから……婚約がそのまま続くと聞いて、信じられなかった。私だって期待していたわ。……しすぎていたくらいよ。私も、あの子も、貴方も」
「〝感情を優先しすぎた〟……か。今ならその意味がよく分かるよ」
「だから、これ以上彼を振り回すのは止めましょう。今更、誤解して申し訳なかった、もう一度婚約を、なんて言えるはずもないわ」
深刻そうに話す姉兄の言葉。ジュディスにとって重大なことを話しているはずなのに、理解する前にぽろぽろと床の上に落ちていく。
「時間を戻すことができればいいのに」
苦々しいディックの声。同意するサブリナ。ジュディスはまったく話の内容が掴めない。
どういうことだ、と頭の中が混乱し、その場で硬直していることしかできなかった。
気付けば、西日が差し込んでいた。夕方の赤い光と壁紙のミント色が混ざり合い、自室は灰色になっている。サブリナが部屋を訪ねてきたとき、変身を解いて人型に戻ったジュディスはベッドに腰掛けて呆然としていた。
あれからずっと記憶の中を探っていた。けれど、その記憶に辿り着こうとする度に、頭の中に靄がかかって、気付けばまた同じ記憶を巡っている。まるで霧深い森の中を彷徨っているように。
魔法師院に行くのは、三日後だ。だから、変身を解いているとは思わなかったのだろう。驚いた様子で入口で硬直しているサブリナに気付くと、ジュディスは卯の花色のドレスを翻して取り縋った。
「ねえ、姉様。どういうこと? 〈
ジュディスの軽い身体を受け止めたサブリナの顔色が青くなる。立ち聞きをしていたことを察したのだろう。なにか言葉を発そうと口を開きかけたが、まだ混乱しているジュディスはとにかく姉から真実を聞き出そうと矢継ぎ早に問いを重ねた。
「花畑を魔物が襲ったとき……私たちは、運よくその場を離れていたのではなかったの? だからなにもなかったって……全員無事だったって……」
そうしている間に、ジュディスは自分の記憶に違和感を覚えはじめていた。自分で見聞きした過去ではなく、他人から伝え聴いた話を繰り返しているような実感のなさ。
「私、思い出せないの。グレアムと約束をして……その後は?」
あの幸福な想い出の後で、記憶がぷつりと切れている。どんなに手繰り寄せても、その先に結びついていたものが見つからない。その記憶の欠落が、ジュディスの不安を増長させていた。
普通はそんなことはないはずだ。ぼんやりとでも、なにかそれらしきものは覚えているはず。だが、捏造されたかもしれない曖昧な答えさえ見つからない。
だが、立ち聞きしたことが本当なら、切れてしまった記憶の糸の先には〈
「なにか理由があるの? なにか知っているのなら、教えて」
じっと姉を見上げる。突然のことに狼狽し、ジュディスと同じ色の瞳を揺らしていたサブリナは、やがて観念したように溜め息を一つ吐くと、ジュディスの小さな肩に手を置いた。
「……いいわ。分かった。教えてあげる」
部屋に入れて、とそっと言われて、ジュディスは姉から身を離した。ゆっくりと道を譲り、サブリナを部屋に招き入れる。
サブリナは、扉を閉めると部屋の中ほどまで入り、背後のジュディスに向き直った。その表情はあまりに苦々しい。彼女にとって、これが望ましくない展開なのだと知れる。
「とてもつらい記憶よ」
部屋の小さな円卓に腰かけることなく立ったまま、サブリナは口を開いた。
「貴女はそれで魔力を暴走して、死にかけた。それほどまでに……つらい記憶。心してかかる必要があるわ」
「それでもいい。このままなにも知らずにいるなんて……できない」
ジュディスの決意を見て取って、サブリナはゆっくりと頷いた。それからジュディスの前に歩み寄り、右手を上げると、人差し指でジュディスの額の中心に触れた。
「お願いだから、あまり動揺しないでね」
あのときの貴女をもう一度見るのは、つらいから。憂いの言葉とともに、ジュディスの中に魔力が流れ込んだ。
ばち、と頭の中で電気が走り抜け、ジュディスの脳裏に青と黄色の世界が再生される。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます