囚われた歌声

 夏のだるような暑い空気も、夕暮れ時の風となると爽やかさを得る。ウェルシュ家の玄関から出たロデリックは、涼風の中に微かな旋律を聴いた。

 葉擦れの音のような女の歌声と、水を打つような弦の音。

 音の出所を辿ろうと風上に目を向けるが、赤い光に照らされた花のない椿の生垣に視界を阻まれて庭の向こうは見通せない。


「殿下?」


 見送りに来たディックが訝し気に声を掛けてきたが、それに応えずロデリックは庭の入り口を見つけて家人の許可を取らずに入り込んだ。

 ディックが後ろについてきているのを知って、ロデリックは夏の花で満ちた庭を見渡しながら尋ねた。


「ウェルシュは、誰か演奏家を囲っているのかい?」


 は、とディックは一度虚を突かれた表情を見せた後、なにかに思い当たったらしく、しまった、と藍色の頭を抱えた。


「妹です。……楽器を演奏するのが趣味でして」


 貴族にあるまじき趣味なのですけれど、と苦々しく言うディックは、眼鏡の向こうから祈るような眼差しでロデリックを見つめていた。貴族として否定じみた発言をしてみせてはいるが、内心はそんな妹の趣味を歓迎していることが読み取れる。だから、ロデリックが妹を否定するのを恐れているのだろう。

 だが、ロデリックは否定しなかった――できようはずもなかった。


「綺麗な歌声だ。それにこれは……マディートか?」

「ご存じなのですか?」

「音楽はよく聴く。……素晴らしい趣味だ、と妹君に伝えてくれ」


 他人の家の庭をあまり好き勝手捜し回るわけにもいかないと気付いたロデリックは、そうディックに託けて踵を返した。それでも歌声が惜しく、つい振り返ってしまう。

 緑の生垣の向こうに一瞬だけ、薄く気楽な空色のワンピースを着た令嬢が、百日紅サルスベリの傍のベンチに腰掛けているのを見つけた。彼女は膝に雫型の撥弦楽器を抱えて、気持ち良さそうにおとがいを上げていた。

 風に泳ぐ藍色の長い髪と白く儚い姿が、ロデリックの目を引く。

 彼女がディックの妹だと、瞬時に察した。


 それが、ロデリックがはじめてジュディスを見掛けた瞬間。

 ――それは、二年前の夏のこと。



  * * *



 趣味のことを話すとき、たいていの人間は表情が輝く。だが、先日のジュディスは嬉しそうにしたのは一瞬だけで、途中から浮かない様子を見せていた。そのことがずっとロデリックの中で引っかかっていて――


「なあ、ディック」


 ジュディスの訪問から三日後。廊下でディックを捕まえたロデリックは、再び雪の積もった窓の外の景色に視線をやりながら尋ねた。白い円柱の隙間からは、馬車の轍が幾筋も刻まれた通りが見える。

 魔法師院は国の要の施設であるからして、馬車が何台も並列して走れるような大通りに設置されているのだが、それ故に雪掻きが難しく、轍が溶けたり凍ったりを繰り返して残ってしまう。当然、この道を進む馭者は大変だ。馬車の揺れを抑えなければいけないため、道行きがどうしても遅くなる。その結果、渋滞が発生することもまたあるのだ。

 いっそ魔法師が炎を使って溶かしてしまえば良いとロデリックは思うわけだが……魔法師の投入には金が掛かること、一つの通りに魔法を使えば他の通りでも用いなければならない事態が発生することなどの理由で、日常的には取り入れられてはいなかった。


 まあ、それはともかく。


「先日、ジュディス嬢と話したんだが――」


 ロデリックはジュディスからマディートについて話したときのことを語った。


「なるほど、それであいつ最近……」


 眼鏡の奥で翠の瞳が翳る。猫の姿ではあるものの、家の中での過ごし方に気になるところがあったらしい。


「その曲、グレアムの気に入りの一曲なんです」


 ロデリックは、自分の表情が歪むのを感じた。特に、眉間に深く皺が寄せられている。


「ジュディス嬢は、まだ彼のことを気にしているのかい?」

「十一のときからの付き合いですから。それまでは満足に友人もいませんでしたし、心の拠り所にしていましたからね」

「だが、グレアム・アクトンは最近受け皿としての役目を果たしていなかったのだろう? しかも今回の一件でジュディス嬢を不安定にさせてもいる。魔法師院としては、彼女ほどの魔力容量を持つ人間を不安定なままにしておくことはできなかったから、私はグレアム・アクトンとの婚約解消を承認したんだが」


 身体の調子を崩すほど魔素を溜めやすい体質のジュディスは、一度に扱うことのできる魔力量も多い。そして魔力量が多いということは、魔法を暴走させた際に周囲に大きな被害を与えかねないということだ。だからこそ国は魔法師院を通して、ジュディスが魔法を暴走させることがないよう二人の婚約に関わってきた。ディックが二人の婚約解消を進めたのも、国が認めたのも、偏にその観点によるものだ。

 実際、今回の騒動で彼女は魔力を暴走させている。グレアムにジュディスの暴走を止めるだけの適性はない、と判断されたのだ。


「その点については、僕も性急すぎたところはありますけどっ」


 前に誰かから同じ指摘をされたことでもあったのか、ディックは一瞬だけ不貞腐れたように唇を尖らせ、


「……まあ、簡単には割り切れないんでしょう。ジュディの中で決まっていた将来が、大きく変わってしまいましたから」


 貴族令嬢の将来はたいてい嫁いでその家に尽くすことと決まっているが、殊にジュディスに至っては十一と早いうちからグレアムとの婚約が決まっていただけに、アクトン家に嫁ぐ以外の未来を想像すらしていなかったのだろう、とディックは語る。


「二人の仲はこの上なく良好でした。だからジュディは、運命の出逢いとか、物語のような恋の夢さえ見てこなかったんです」

「君は、そんなグレアム・アクトンを信じていた」


 はい、とディックは頷いた。


「グレアムは、ジュディから逃げなかった」


 ディックの表情が苦々しく歪む。どうやらディックも相当グレアムを信頼していたらしい。小さな積み重ねがあったとはいえ、あの程度の噂であっさりと婚約解消を決めた人間とは思えない反応だった。――もしくは、それだけ信頼していたからこそ、今回の件が許せなかったのか。

 だが、もう終わった話だ。


「ウェルシュ家は、ジュディス嬢をどうするつもりなんだい?」


 ジュディスの今後を心配して尋ねてみれば、まだ決まっていない、と返答があった。


「両親は新しい婚約者の選定を行っているようですが、どうしてもジュディの魔力の問題もありますし」


 ジュディスは現在、猫の姿を取ることで容態をなんとか安定させているが、これは飽くまで一時的な処置に過ぎない。まさか一生猫のままでいるわけにもいかないのだから。しかし、現在は他に手立てがなく、この先の人生を真っ当に送れるかどうかも分からない状態だ。

 一向に見通しの立たない未来。これでは、ジュディスが希望のあった過去に思いを馳せてしまうのも仕方がないのではないだろうか。


「私のほうでもなにか良い手がないか、考えてみよう」


 猫の姿と過去の二つの呪縛に囚われたジュディスを哀れに思い口を開けば、ディックは虚を突かれたような表情をする。


「私としてもジュディス嬢の行く末は気掛かりだからな。できるだけのことはさせてもらうよ」

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