残酷

 休みが明けても、グレアムの調子は戻らなかった。取り柄とばかりに思っていた魔法の持続力が安定しない。精度、集中力、あらゆる可能性を考慮して改善を試みたが、手応えはなかった。保健医に相談しても、おかしいところはないという。


「どうした、グレアム。もっとやる気を出せよ」


 曇天の所為で昼間でも薄暗いガラス張りの訓練場。模擬戦闘の相手となったフリンが、苛立ち混じりに吐き捨てる。乱れた黒髪の合間から、深緑の瞳が淀みを湛えてグレアムを睨みつけた。


「すまない。調子が……」


 悪いのだ、と続けようとした言葉は、フリンの鋭い眼光に押さえつけられた。軟弱な発言に受け取られたのだろう。グレアムとしてもつまらない言い訳はしたくない。

 その後もない力を振り絞って普段の実力を取り戻そうとするのだが、やることなすことすべて空回りしているような感覚だけを覚え、グレアムは疲弊していった。……身体以上に、心が摩耗している。


「スランプだなんて、言わないでくれよ」


 去り際に嘲笑を浮かべたフリンは吐き捨てる。侮蔑の眼差しに挫けそうになるのをどうにか奮い立たせて、隅に放置していた焦げ茶の防寒コートを小脇に抱えて訓練場の外を出た。無理をした身体には、歩きやすいように掻かれて踏み固められた雪道さえつらく、重い足取りで口の字型の校舎に辿り着く。

 昼日中。午後に向けて賑わいの増すエントランスホールの人混みを掻き分け、昼食すら放棄して中庭に出ようとすると、


「グレアム先輩!」


 曇天を裂くような黄色い声がグレアムの耳をついた。振り返らなくても判る。ロージーだ。

 とても相手をする気になれず、気付かない振りをして立ち去ろうとするが、その前にロージーが追い縋った。


「お昼、用意してきたんです。……一緒に食べませんか?」


 おそらくその昼食が入っているだろう手提げの鞄を見せつけるように付きつけて、明るい声を張り上げたロージーは貼り付けたような微笑を浮かべる。

 通りすがりの学生たちが好奇の目を向けてくるのが、グレアムの視界に入った。悪目立ちしている。普段は気にしないようにできる視線も、原因となるロージーも、現在の自分を煩わせるものでしかなかった。


 内緒で。人目に付かないところで。頻度を少なくして。

 多方面に迷惑を掛けた身でこれ以上の騒ぎを起こすのは良くないと判断したグレアムは、そういう約束でロージーの相談に乗ることになったはずだった。だが、日を重ねていくうちに、自らの甘さを知った。

 それで合意したはずのロージーが、人目を憚らずグレアムに近寄るようになったのだ。

 これまで人気のないところですれ違う程度だったものが、いつの間にか長く引き止められるようになり、現在では人通りのある校内の廊下でも平然と声を掛けてくる。二週間もすると、まるで周囲に見せつけるかのようにグレアムに接近してくるようにまでなった。

 周囲の目をまったく気にしないその行動にグレアムは当然戸惑ったが、それ以上にロージーが作り物めいた表情で迫ることに――実に身勝手だ、と自分でも思うが――恐ろしさを覚えていた。活気に満ち溢れていたはずの彼女が虚ろな人形のようになり、そのくせ眼だけは必死な色を宿していて。


「…………すまない」


 尋常でない彼女の様子が気になりはするが、現在これ以上悩み事を抱えきれないグレアムは、断りを入れた。その場しのぎにしかならないことは知っていたが、なにかに対処するだけの気力をなくしていた。


「そう……ですか……」


 たちまち萎んでいくロージーに罪悪感が湧くが、悪いな、と一言だけを残してグレアムは彼女を力なく振り切って中庭に出た。


 芝生が敷かれ、学生たちの憩いの場となる中庭も、雪に埋もれてしまえば誰も立ち入らない。申し訳程度に掻かれた雪の道を、やはり重い足取りで進んでいく。適当なところで側にあった落葉樹に凭れ、空を見上げた。葉をなくした枝が曇天に手を伸ばしている。

 風はなく、肌から染み入る寒さがグレアムを落ち着かせた。頭が冷えていく。人混みからも離れて齎された静寂が心地良かった。


 だが、それもたちまち雪を踏む音に遮られる。


「貴方、本当にロザンナ・キャラハンと婚約するつもり?」


 振り返ったグレアムが見たのは、カタリナの射貫くような青玉の眼差しだった。襟もとに毛皮ファーのついた灰色のロングコートで寒さに対して完全防備の彼女の来訪に、またなにかつまらない噂を立てられているのだと悟った。


「一応訊くが、誰がそんなことを?」

「皆が。社交界では、近々キャラハンがアクトンに婚約の打診をすると持ち切りよ」


 ずいぶんと話が誇張されたものだ、とグレアムは灰色の頭を掻く。婚約もなにも、恋仲にすらなった覚えはない。……まあ、真実はどうあれ周囲は勝手に騒ぎ立てるものだし、ロージーの最近の行動のこともある。そういう話が流れてしまうのは、仕方のないことなのかもしれなかった。


「……正直、どうすれば良いと思う?」


 力なく溢せば、カタリナの眦がますます吊り上がる。


「呆れた……! ジュディをあんな目に合わせておいて、ロザンナ・キャラハンのことを真剣に考えていなかったというの!?」

「そのつもりはなかったんだ、俺には」


 前のことも、今回のことも。ただ困っていた彼女に手を差し伸べただけ。それだけだったのだ。

 そもそもグレアムは、ロージーのことは恋愛の相手としてはまったく考えていなかった。ジュディスの存在が、グレアムからその選択肢を取り除いていた。

 だが、可愛いと思い、庇護欲に駆られたのは事実。煩わしく思う今でも、憎い、疎ましいとまでは感じていない。端からみれば、それは恋に見えるらしいが……それについて、グレアムは反論する言葉を持っていなかった。

 そもそも、婚約者ジュディスに対する感情の名前でさえ判っていないのだから。


「軟派なのか、朴念仁なのか……」


 カタリナは額を押さえ、首を横に振った。


「貴方のその中途半端な態度が、ジュディを傷つけたのだわ」


 静かに告げられた言葉が、グレアムの心に突き刺さる。


「貴方はただ可愛い女の子に頼られて嬉しかっただけ、優しい自分に酔っていただけよ。それで貴方は満足したかもしれないけれど……そんなもの、向けられた相手にもただ残酷なだけだわ」


 容赦ないカタリナの言葉が、グレアムの心を更に引き裂いていく。他人から見た自分の姿が如何に愚かしいことか。後悔と罪悪感で胸中が荒れてしまう。

 そして、自業自得の自分に「辛い」と言う資格がないことが、また苦しかった。


「ロザンナ・キャラハンのことは早いうちに決着なさい。私は支持しないけれど、受け入れるのも一つの道。もし突き放すなら、傷つけることは避けられないけれど、それだって時間が経てば経つほど深まっていくばかりよ」

「……そうしよう」


 カタリナの助言に神妙になって頷いた。ロージーを傷つけることを考えると心苦しいが、いつまでもこの状態を放置するわけにはいかないというのも判る。今こそ決断すべきときなのだ、ということを悟った。

 覚悟が決まると、不安定だった自分の気持ちの芯が定まっていくような感覚を得た。まずは一度実家へ今後のことを相談しに行こうと決める。


「ユークランド嬢。感謝する」


 グレアムが頭を下げると、カタリナは怒りに吊り上げていた青玉の瞳を丸くさせた。


「ジュディと仲良かった君だ、俺のことは不快だろう。それでもこうして諫言をくれたことは、本当に有り難く思う」

「私は……っ!」


 激昂したかのように声を張り上げたカタリナ。金髪を逆立てんばかりの形相でグレアムを睨みつけていたが、それに続く罵声はなく、しばらくして肩の力が抜けていく。


「私はただ、ジュディがこれ以上傷つくのを避けたいだけよ」


 震える拳を開き腕を組むと、毛皮に頬を埋めるようにグレアムから顔を背けた。


「傷つかないだろう、今更。裏切った男のことでは」


 なにせ、婚約の腕輪を投げつけたくなるようなことをした男が相手だ。今更どうなろうと知ったことではないだろう。


「……ほんっとうに馬鹿ね」


 吐き捨てたあと、そのまま踵を返して立ち去るかと思ったが、カタリナはふとなにかを思い出したように顔を上げ、怪訝そうにしながらグレアムのほうを振り向く。


「ところで貴方、フリン・ラウエルとは本当に仲が良いの?」


 突然出てきた友人の名に、グレアムは眉を顰めた。


「あの日、ロザンナ・キャラハンを糾弾した令嬢の中に、彼の遊び相手がいたわ。――噂を広めたのも、彼女よ」


 だが、彼女が自発的に噂を流したとは思えないのだ、とカタリナは言う。それに、社交会でのフリンの動向も気になる、と。

 年末の貴族間で開かれたパーティーで、カタリナはフリンがロージーに話しかけているのを見かけたというのだ。

 ただそれだけのことが、どうもカタリナの頭の隅に引っ掛かってしまったようだ。


「フリン・ラウエルが彼女を気にかける理由が、貴方のこと以外にないのよ。けれど、皮肉屋ニヒリストの彼が、貴方の恋を後押しするという独善的な理由で動くとも思えない。だから――」

「俺を貶めるためにやった、と」


 言葉の続きを引き継いだあと、その口もとが歪んだ。引き攣ったような笑み。自嘲のような。実際、我がことながら滑稽に見えてきて仕方がなかった。


「心当たりは?」

「どうかな」


 素っ気なく応えて、グレアムは曇天を見上げる。重々しい灰色の雲から、白片が降ってきた。

 また、大地が雪に覆われる。


「……俺には、あいつの考えていることが分からない」


 嘲られ、悪意をぶつけられたことは確かにある。だが、グレアムのことがそれほどまでに憎いというのなら、何故友人として在り続けてきたのだろうか。


 ジュディスといい、ロージーといい、フリンといい。

 グレアムには、もはや他人ひとの気持ちが解らなかった。

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