投じられた一石
「ねえ、お聞きになりまして?」
週のはじめ。朝。
魔法師を目指す少年少女の集まりの一角に、悪意の一石が落とされる。
「あのロザンナ・キャラハンが、とうとう婚約者の居る殿方に手出ししたのですって」
嘘。信じられない。小さなさざめきは周囲の関心を次々に誘い、波紋がじわじわと拡がっていく。
教室から廊下の外へ。
廊下から校内全体へ。
それは次第に、大きなうねりを作り出す。
「全くなんて汚らわしいこと。恥知らずもいいところだわ。こんなこと、とうてい見過ごすことなんてできませんわよね?」
周囲を煽るように紡ぎ出された一言は、若者たちの興味と正義感を刺激し、反響していった。
そして昼を迎える頃にはもう、当事者たちを呑み込むほどに大きなものとなっているのだった。
* * *
――もし調子が良いようだったら、食事を一緒にできないか。
アルフェアで買い物をした次の日の朝、許可を得て女子寮に立ち寄ったグレアムは、ジュディスの部屋の扉の前で彼女にそう持ちかけた。目的はもちろん、先日の詫びと贈り物のためだ。具合が悪いという彼女を部屋から連れ出す口実として、食事の誘いという形を取った。さすがに、校内で堂々と女性の部屋に入るのは憚られたので。
嘘でも本当でも、体調を理由に断られてしまったらどうしようかと思っていたグレアムだったが、幸いにしてジュディスからは小さく承諾の返事を得られた。それで、昼食時に食堂で会おうという約束を取り付けたのだが――
なんと、午前中最後の講義で、後片付けに指名されるという不運に見舞われてしまった。
魔法師学校では、講義の後片付けを学生が手伝うことになっている。簡単なものでは黒板消し。実験を行うようなものであると、使用した器具の後片付けなどといったものもある。一応、次の講義に遅れない程度の仕事量ではあるのだが、面倒であることには変わりない。
気が急いているときは、尚更に。
「アクトン様、少しお時間よろしくて?」
講義資料を準備室に運び、黒板も綺麗に消して、ようやくすべての仕事が片付いた頃、グレアムはカタリナに呼び止められた。
早くジュディスのところへ行きたくて焦っていたグレアムは、空いた片手を上げてカタリナを制する。
「申し訳ないが、ユークランド嬢。俺はこれからジュディスと約束が――」
「知っているわ。でも、だからこそ、貴方がジュディに会う前に確認したいことがあるのよ」
腕を組み、背筋をピンと伸ばして立ちはだかるカタリナは、きりり、と青玉の瞳を吊り上げる。まるで犯罪を見咎めたときのような鋭く責める視線。これはどうあっても逃げられない、とグレアムは悟り、仕方なくカタリナの話を聴くことにした。
「貴方、昨日ロザンナ・キャラハンに告白されたというのは本当?」
グレアムは眉を顰めた。
「何故、そのことを」
「今、校内中で噂になっているのよ」
今度は耳を疑った。
確かにアルフェアは、この学校の学徒たちが多く遊びに行く場所である。だから、ロージーといるところを目撃されてもおかしくはない。しかし、告白されたことまで知られているとは思わなかった。
しかも、話が拡がっているなんて。校内中というが、一体どれほどの規模なのだろうか。
カタリナの目が、グレアムの真偽を見破ろうとするかのように眇められる。
「それで、ジュディとの婚約を破棄して、彼女を選ぶという話も出ているのだけれど、まさか本当のことではないでしょうね?」
噂になっているどころか、尾ひれが付いているようだ。グレアムは頭を抱えた。
同時に、カタリナが今このタイミングで自分を呼び止めた理由も察した。彼女は噂通りにグレアムがジュディスに婚約破棄を言い渡すのではないかと心配しているわけだ。今回の約束もそのためのものではないのか、と。
冗談ではない。
「俺は、ジュディとの婚約を反故にする気はない」
急いではいるが、まずこの勝ち気なジュディスの友人の誤解を解く必要があると判断し、グレアムははっきりと述べた。彼女はゴシップ好きだが、ただ貶めて嘲笑の的にするだけの口さがない連中とは違って、正義感も真に強い。グレアムに疑わしきところがあればジュディスのために躊躇なく断罪してくることだろうし、その前に道を譲ってくれることもないだろう。
だが、カタリナはまだ納得しなかった。
「彼女と図書館で親しくしていたという噂もありますけれど」
「勉強を教えていただけだ。愛人の娘だからと避けられて、彼女は他に教わる相手がいなかったらしい」
ロージーとは先輩後輩以上の関係にはない、とグレアムは主張した。
「……まあ、告白を受けたのは確かだが」
苦々しく付け加える。こればかりは紛れもない事実なので、否定しようもない。むしろ下手に誤魔化すほうが後々面倒だろう。
本人もけじめをつけたかっただけだということも付け加えて顛末を簡潔に話したが、カタリナは何故か太く形の整った眉を顰めた。
「ロージー……愛称で呼んでいるのね」
カタリナにつられて、グレアムも眉を顰める。何故その点に引っかかったのだろうか。
「それが彼女の本名なのだそうだ。ロザンナは貴族の娘として入学する際に付けられた名だと。本名で呼んでほしいと言われたからそうしているだけだ」
「そう……。でも、それで周囲がどう思うか、その想像力には欠けていらっしゃったようね」
カタリナの呆れた視線の理由が分からず、グレアムは内心首を傾げる。こちらが勝手に愛称を付けるのはどうかと思うが、あちらが呼んでくれと言った呼称で呼んでいるのだから、さしたる問題もないと思うのだが。
グレアムが理解していないのを察してか、カタリナは諦めた様子で頭を横に振った。
「まあ、いいわ。本題はそちらじゃないもの。とにかく、昨日の貴方とロザンナ・キャラハンのことが今、校内で噂になって急激に拡まっている。ジュディがこのことを耳にしたらどう思うか……こちらはさすがにお分かりになるわよね?」
ヒヤリ、と冷たいものがグレアムの背に落ちる。ただでさえ、今はジュディスと喧嘩して微妙な関係にある。そんなところに、あることないこと吹き込まれてはどうなるか。
カタリナが道を譲ったのとほぼ同時に、グレアムは荷物を引っ掴んで教室を飛び出した。人通りの多い廊下を走る。校則だとかマナーだとか言っていられない。ジュディスはこれから人が特に多い食堂へ行くはずだ。そうしたらきっと噂も耳に入る。そのとき、彼女が噂を下らないと一蹴するとは思えなかった。
「――くそっ」
悪態が漏れる。ジュディスとの関係を修復しようとしているところに、余計な水を差されてはたまらない。
うっかり何処かに忘れないようにと、ポケットの中に大事に入れた鏡を意識する。安価な物だが、グレアムの想いを籠めて選んだ品だ。これでどうにか仲直りのきっかけを作ろうと思ったのに、周りにいらぬことを吹き込まれてしまっては、せっかく用意したものが無駄になってしまう。
ロージーとのことだって、グレアムにしてみれば余計なお世話だ。ロージーが自分に思慕の念を抱いていたことには驚いたが、そのことについてはもう終わったことだし、だいたい婚約をしている身でジュディスを差し置いて別の女を選ぶはずが――
ガラス張りの丸屋根から外光を取り入れた、白と黒の格子模様の西側のエントランスホールに辿り着く。休憩時間のこの時間帯、常々人通りの多いこの場所だが、何故だか今日は普段以上に人が多かった。いや、人の流れが滞っているというのが正しいか。食堂のある北校舎に入る入り口の前に人だかりができているようである。
いったいなにが有ったのか、と眉を顰めつつ、急ぎ足を緩めて周囲を見渡したグレアムの視界に、見慣れた藍色の髪が入った。制服ではない、簡素なラベンダー色のワンピースに白いカーディガンを纏った背中に、まだ彼女の体調は万全ではないことを知る。
「ジュディ――」
申し訳なく思いつつも、彼女が出てきたことに安堵したグレアムは、直前までの懸念を一瞬忘れて、フリンの隣に立つジュディスに呼びかける。が、彼女は何故かワンピースの胸元をぐしゃぐしゃに掴みながら、前方を直視して動かない。不審に思いつつグレアムはジュディスの傍に立ち、固定された視点の先を追った。
そこには、嘲笑を浮かべた五人の女子生徒に囲まれたロージーがいた。
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