ぐらつく足元
今朝、ジュディスの部屋の前に訪れたグレアムのお誘いに、少し躊躇しつつも承諾したジュディスは、昼前の講義が終わるのを見計らって、襟元にフリルが取り付けられているだけの簡素なラベンダー色のワンピースの上に白いカーディガンを羽織って部屋を出た。
本日の講義は全て欠席することになっていた。グレアムが誘うからなんとか食堂まで行こうとしているが、体調のほうは実はあまり良くない。グレアムに叱られてから――否、本当はあの噂を聴いたときから。グレアムへの不審がジュディスの不安を掻き立てて、彼女の呼吸ばかりか体内の魔素まで乱してしまうのだ。
そうでなくても、ここのところ体調は悪かった。強弱違いはあれど、常に倦怠感がジュディスを襲っていたのだ。
――グレアムは、気づいてくれていないようだけれど。
まあ、こちらも言ってはいないので、仕方ないかもしれないが。
真昼とはいえ、初冬。すぐそこだから、と荷物になるのを横着してカーディガンだけを羽織って外に出たが、日差しは出ていてもやはり風は冷たかった。荒涼とした庭は清々しくはあったけれど、あまりに遮るものがなく、ずっと閉じこもっていた身としてはこのまま風に拐われてしまいそうで心許なく感じてしまう。
――グレアムの話とはなんだろう。
自らの身を抱くようにカーディガンの前を掻き合わせ、カサカサと枯れ草を踏みしめながら、ジュディスは考える。
ただの食事の誘いでないことは分かっていた。ジュディスもそこまで暢気ではない。先日揉めた件についての話し合いだったら良いが、もし愛想を尽かされたことを宣言されたり、はたまた好きな人ができたなんて話をされてしまったら――。
不安ばかりが募っていく。それほどまでに、ロザンナ・キャラハンの噂と保健室でのグレアムの激情に参っていた。特に後者は、自分にも原因はあると解かっているだけに堪える。遠慮ばかりしていないで、きちんと理解を促せばよかったのだ。そうすれば、グレアムだってジュディスの行動の理由をきちんと解ってくれたはず。
重たい気分で、校舎西側の丸屋根の下に入る。
「おや、ウェルシュ嬢」
白と黒を組み合わせたエントランスホールに入ってすぐ、声を掛けられた。視線を上げてみると、左目の下の泣き黒子が特徴的なグレアムの友人、フリン・ラウエルがこちらに向けて手を上げている。
「体調が悪いと聞いたのだけれど、大丈夫なのかい?」
親しげに声をかけるフリンに、ジュディスは気後れした。黒髪の下にある深緑色の眼が、ジュディスは苦手だった。なんだか値踏みされているような感じがして。特に今日はいつも以上に検見されているような気がして、ジュディスは居心地悪さを覚える。
「ええ、ラウエル様。なんとか外には出れるようになりました」
「これから食事? ……ああ、グレアムとか」
当たり障りなく対応してやり過ごそうとしたジュディスだったが、フリンはこちらには全く構わずに踏み込んで、そして一人で納得していた。
「彼は講師から片付けを頼まれてね、少し遅れると思うよ」
「そう……ですか」
フリンの言葉に肩を落とす。不安を抱いてはいるものの、やはりグレアムとの食事は楽しみだったのだ。ほんの少しとはいえ先延ばしにされて残念な気分になる。
そんなとき、左前方でなにやら騒ぎがあった。内容は判らなかったが、誰かが大声をあげたのだ。行き交う学生たちが皆足を止め、発生源に注目する。
「……なんだ? こんなところで」
フリンもまたその一人で、訝しそうに眉を顰めて騒ぎのほうに注目した。ジュディスもつられて、そちらのほうを見る。
どうやら北校舎へ向かおうとした一人の女子学生を、五人の女子学生が足止めしているらしい。前方を塞ぐように、円弧状に取り囲んでいる。足止めする少女たちは、立ち居振る舞いからしておそらく何処かの貴族の娘だろう。ただし、眉を吊り上げつつ嘲りを浮かべた表情は、令嬢に求められる淑やかさとは程遠い。
「ロザンナ・キャラハン! 貴女、とうとうお相手のいる殿方に手を出されたのですって!?」
ジュディスは弾かれたように、囲まれている少女を見つめた。波打つ栗色の髪の小柄な少女。左後方から見ているため顔はよく分からないが、髪を纏める赤いリボンと素朴な印象を受ける立ち姿からして、仔犬のような、庇護欲を誘う可愛らしい少女に思えた。
――あれが。
最近グレアムと一緒にいるという、噂の編入生か。
「はい? ……いいえ、そんなことはしてません!」
疑問のあとに抗議する声は高く芯があって、騒めきの中でもよく通る。話題性もあるのだろうが、そうでなくとも注目を浴びやすい少女のようだ。その所為か、足を止めた者たちの中でそのまま野次馬に加わる人の数が多いような気がする。
「嘘をおっしゃい! 昨日、貴女がアルフェアのケミー通りで告白しているのを見たという方がいるのよ!」
「しかも、婚約者がいるのを承知で告白したという話だそうじゃない」
人目を憚らず糾弾する令嬢たちの発言に、ジュディスの胸が騒ついた。まさか、と最悪の事態が頭を過ぎる。
それは、彼女が告白した相手がグレアムである、というもの。
「母親と同じように、愛人の座に収まろうとしたのかしら? それとも、本当に妻の座を奪い取ろうとしたのかしら」
「違います! 確かに先輩に告白しましたけれど……わたし、そんなつもりじゃなくてっ。実際、振られてしまいましたし……っ」
「では、どういうつもりだったというの? まさか自分の想いを告げて、拒絶されることできっぱり諦めようとしたとか、健気なことを言うつもりではないでしょうねぇ……?」
必死で否定とは呼べない反論を繰り返すロザンナを、令嬢たちが攻撃する。ロザンナは狼狽えているが、それ以上に外野で見守っているジュディスの心のほうが打ちのめされてしまいそうになっていた。
「猫を被るのも大概にしなさいな。振られて諦めようなんて、そんなの嘘。貴女は、あわよくば何処かの物語のヒロインのように、真実の愛とやらをお相手の居る男性と遂げて見せようとしていたのでしょう?」
「『私が愛するのはお前だけだ。二人でどこか遠くに逃げよう』って? あら素敵な夢物語ですこと」
くすくす、と令嬢たちが笑う。ジュディスは耳を塞ぎたい衝動に駆られた。彼女たちが面白おかしく繰り広げる話がすべて、グレアムとロザンナを主役としてジュディスの頭の中で再現される。
聴きたくない。逃げたい。止めてくれと叫びたい。いくつもの衝動がジュディスを襲い、けれどどれも実行することができなくて、服の胸元を掴むことで狂いそうになる意識をかろうじて保っていた。
「違……っ!」
「生憎、アクトン様はお堅い方だから、貴女の夢物語には乗ってくださらなかったようですけれど」
相手を特定する決定的な言葉に、ジュディスの喉が鳴る。悪い予感が当たってしまった。
「ジュディ」
そこにちょうど聴き慣れた声が耳に届く。慣れた体温の大きな手が肩に置かれる。ジュディスの最悪の想像を打ち破ってくれるはずの人が傍に居る。
しかし、ジュディスは振り向くことができなかった。目が、耳が、ロザンナに釘付けになって離れない。
あの娘がグレアムの心を射止めたのだ、と思ったら。
返せ、と言えば良いのか。泥棒猫、となじれば良いのか。それとも、二人の背を見送って泣き寝入りする? 捨てないで、とグレアムに追い縋る?
ジュディスの頭は混乱していた。どうしたいのか、自分でも判らなくなっている。このままではグレアムが自分のもとから離れていくという恐怖が、ジュディスの心中を急速に蝕んでいった。
その間にも、令嬢たちの糾弾は続いていた。
「でも、撒いた種はいずれ芽吹くかもしれないと思ったら、やってしまうかもしれませんわねぇ」
「なんていったって、結婚されている殿方を誘惑した娼婦の娘ですものねぇ。他人の物を奪うような浅ましい真似、造作もないことでしょう?」
「いい加減にしろ!」
隣から上がった大声に、ジュディスはようやくグレアムを見上げた。グレアムはジュディスの肩を掴んだまま、深海の瞳に怒りの炎を宿して、令嬢たちを睨んでいる。
「なにを知っているのか知らないが、言いがかりにも程がある」
グレアムはジュディスの肩から手を外すと、前に進み出た。思わず手が後を追う。だが、ジュディスの手はグレアムの服の裾を捕まえることができず、グレアムの背は遠ざかっていった。
乱入者の出現に、令嬢たちはさらに好奇の色を宿し、責め苦にあっていたロザンナは、ようやく見えた琥珀色の大きな瞳を潤ませてグレアムを見つめていた。まさにヒーローの出現に歓喜するヒロインの表情。
「あら、火のないところに煙は立たないとよく言いましてよ」
グレアムの怒りを買った令嬢の一人は、狼狽えることなく堂々と反論した。
「火種を作っているのはどちらだ。大体、糾弾するにもこんな大衆の面前でする必要もないだろう」
「正義は大勢の前で示しませんと」
「下らない……」
グレアムは嫌悪と侮蔑の色を隠すことなく、吐き捨てる。
「とにかく、当事者としては、あることないことで騒ぎ立てられて、見世物にされるのは非常に迷惑だ。こういうことは金輪際控えてもらいたい」
そうきっぱりとグレアムは告げると、彼女たちに背を向けて、
「行くぞ、ロージー」
琥珀色の眼を潤ませたロザンナの腕を掴み、令嬢たちから引き離した。
ジュディスの胸中は嵐のように吹き荒れる。たいした意図はないのかもしれない。けれど、グレアムがロザンナの手を握っていることがあまりに衝撃的だった。
グレアムがジュディスではなく、彼女を選んだように思えてしまって。
絶望のあまり崩れ落ちてしまいそうになるのを、震える脚が必死に堪えている。
そうこうしているうちに、ロザンナを連れ出したグレアムは、普段以上に顰めた表情のまま、ジュディスの前へと立つ。
「ジュディ、来てくれるか」
頭が真っ白で気が遠くなりそうな気分の中で、ジュディスはなにも言うことができないまま、ただ反射的に頷いた。
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