一方通行

 ロージーを引っ張り出し、ジュディスを連れてエントランスホールから出たグレアムは、そのまま無言で図書館の裏側へと向かった。校舎のすぐ外は、やはり人目が多い。誰もいない落ち着けるようなところはこの場所しか思いつかなかった。

 落ちた銀杏の実もすっかりなくなって、枯れ木しかない赤煉瓦の壁際。そこに身を寄せてようやくグレアムはロージーの腕から手を離し、振り返った。申し訳なさそうにしょげたロージーと、藍色の前髪に顔が隠れるほど俯いたジュディスの二人を交互に見て、どう話を切り出したものか、とグレアムは考える。急ぎジュディスの誤解を解くべきか、それともロージーをフォローして帰してから落ち着いてジュディスと話すべきなのか、判断に迷った。


「あの……ごめんなさい、先輩方。わたしの所為で」


 そうこうしているうちに、居心地悪そうに肩を縮めたロージーが口を開く。グレアムは溜め息を一つ吐くと、先に口を開いた彼女を優先させることにした。


「気にするな、ロージー。お前の所為じゃない」


 彼女に落ち度はない、とグレアムは思っていた。告白のことは当事者間の問題だ。確かにグレアムがロージーを受け入れたりしたら不貞問題に発展し、ジュディスとの婚約に拗れがあったことだろうが、グレアムには全くその気はなく、ロージーにきちんとそのことを伝えている。ロージーも理解してくれた様子だった。彼女が令嬢たちが言うようにジュディスを貶めようとしたのなら赦しはしなかったが、そうならなかったし――そもそも、そうするだけの時間も経っていない。どのようにして昨日のことを知ったのかは知らないが、勝手に話を大きくされて、言いがかりをつけられて、ロージーは完全に被害者だろう。

 だが、事情をなにも知らないジュディスは、そうは受け取れなかったようだ。


「ねえ……グレアム。どういうこと……?」


 弱々しい瞳がグレアムを見上げる。連日の体調不良のこともあってか、ジュディスがすっかりやつれてしまって見えた。


「説明して。私、もうなにがなんだか……」

「落ち着け、ジュディ」


 おぼつかない足取りで迫るジュディスの両肩に、彼女の身体を支えるように手を置く。潤む翠の眼が縋るように見つめるものだから、グレアムの胸は締め付けられた。彼女にどれだけの負担を強いてしまったか、それを想像するだけで自らの対応の遅さが悔やまれる。

 同時に、グレアムの中にだんだん苛立ちが募っていく。あんな人目の多いところで好き勝手喋ってくれた令嬢ども。彼女たちの所為で話がややこしくなってしまったし、いらぬ心配を掛けてしまったではないか。


「ごめんなさい、ジュディさん。わたしが身の程知らずにも横恋慕なんてしてしまったから……」


 説明しようとしたグレアムの横合いから、ロージーが弁解しようと必死な様子で身を乗り出した。

 ジュディスの眼が、今度はガラス玉のような無機質な光を宿してロージーのほうに向く。


「でも、本当にアクトン先輩を盗るつもりはなかったんです。わたし――」

「聴きたくない!」


 グレアムの両手を振り払い、耳を塞いでジュディスは叫ぶ。いやいやをするように頭を振り、よろよろと後退して灰色の木にぶつかった。


「私には……っ!」


 絞り出すように叫んだあと、言葉の続きを飲み込んで、再び頭を激しく振った。普段以上に露わになった激しい感情。本当に混乱し、苦しめてしまったようで、グレアムは表情を曇らせる。どうにか安心させられないものか、と必死で言葉を探した。


「ジュディ、もうすべて終わったことだ。俺たちの関係に変わりはないし、彼女は可愛い後輩でしかない」


 宥めるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。聴きいれてくれているようで、ジュディスは耳から手を放し、ゆっくりとグレアムを見上げた。安堵したグレアムは、そっと彼女に歩み寄る。


「彼女たちは憶測で面白おかしく騒ぎ立てているだけだ。事実無根でしかない。だからジュディ、機会があれば君からも周囲にそう公言して――」

「嫌っ」


 この下らない騒ぎを収束させるための提案を、ジュディスはばっさりと切り捨てた。明確な拒絶に、グレアムは足を止める。


「私はこの子を庇うために、貴方の婚約者をしているわけじゃない!」


 呆気にとられたグレアムは、憎悪の目をロージーに向けるジュディスを凝視する。発言の意味を咄嗟に理解できなくて、グレアムはしばし言葉を失った。


「なにを馬鹿なことを……」


 今後降りかかるであろう火の粉を防ぐための一提案なのに、なにをどう解釈して、ロージーを庇うための行動となったのか、グレアムには理解できなかった。

 翠の瞳が、責めの色を宿して今度はグレアムに向けられる。


「ねえ、グレアム。私は貴方のなに?」

「なにって……婚約者だろう」

「……それだけ?」


 がっかりした様子のジュディスをグレアムは訝る。将来を約束した仲。他にどう答えようがあるというのだろうか。

 さっきからジュディスが考えていることがさっぱり解らなくて、再び苛立ちがグレアムの中に募った。


「ねえ、グレアム。私が婚約者じゃなかったら、貴方はどうしていた?」


 グレアムの眉間に皺が寄せられた。ジュディスは、グレアムがロージーを選ぶとでも思っているのだろうか。信用されていなかったことに失望を覚えつつも、思考はジュディスの問い掛けのほうに流れていく。

 ――ジュディスが婚約者ではなかったら。

 まず、講義を怠業したジュディスを捜すようなことはしないだろう。真っ先にそう思った。グレアムが毎度毎度ジュディスを捜していたのは、彼女の人生における責任の一端をグレアムが握っているからだ。他人の面倒を見るほど、グレアムはお人好しではない。

 が。

 ふと、その〝他人〟であるロージーに目を向けた。そんな自分は彼女に積極的に手を貸している。それは、直向きに努力する彼女に好感を抱いたからだ。

 この学校生活を、対極した姿勢で臨んでいる二人。もし、ジュディスが婚約者ではなかったら、自分が選ぶのはきっと――


「……もういい。知らない」


 グレアムの沈黙をどのように受け取ったのか、ジュディスは低く唸って怒りに顔を歪めた。さっきから訳が分からない。せめて怒りの理由を言ってくれれば良いが、彼女は感情をぶつけてくるばかり。まるで子どもの癇癪だ。今もほら、彼女は自分の左手に手を伸ばして、銀色の腕輪を抜き取るとそのまま振りかぶって――


「グレアムなんて、勝手にすればいい!」


 ジュディスの指先から、銀色の腕輪が離れていった。指先で回転が掛かった細い銀環は放たれた高度を維持して、真っ直ぐにグレアムに飛んでいき、こめかみを打った。

 側方から息を飲む音が聞こえる。

 婚約の証を投げつけるというジュディスの行動と思わぬ痛みに、グレアムの頭に瞬間的に血が昇った。


「なにをする!」


 反射的に、掌を振り上げていた。

 小さくも乾いた音が耳につく。

 頬をはたかれたジュディスの驚愕に満ちた顔と、咄嗟に自分がしでかしてしまった行動に、我に返ったグレアムはさっと頭から血の気が引くのを感じた。


「あ……その……すまない」


 掌の痛みはさほど感じない。ジュディスの頬に赤い跡が付いているわけでもない。おそらくそれほど力は込めていなかった……とは思う。だが、手を上げてしまったことに変わりはない。

 己のしでかしたことにグレアムはぞっとした。もう少し自分は冷静だと思っていた。保健室で揉めたときだって、暴力の衝動に駆られてはいなかった。だから、如何に激昂しようとも他人に手を上げることはないと思っていたのだが……感情が昂ぶると制御が効かないのだと知り、己の浅はかさを呪った。

 ジュディスをはたいてしまった右手を見つめる。叩いた感触は残っていなかったが、掌に痺れが残っているような気がした。同時に、頭が痺れていくような感じもする。


「ジュディ――」


 赦しを乞おうとしたその瞬間。ジュディスから顔を背けたまま、無言で煉瓦の建物の角の先へと走り去ってしまった。

 遅かった、と悟る。

 伸ばしかけたまま硬直した指先を、力なく脇に落とした。


 それからどれほどの時間、項垂れていたのだろうか。先輩、と遠慮がちにロージーが声を掛けてくる。

 そういえば、腕輪を投げつけられた瞬間から、彼女が居ることを忘れていた。すっかり自責の念で自らの内に閉じこもり、彼女を放置していたことが申し訳なくて、グレアムはロージーに謝罪する。


「すまない、ロージー。巻き込んでしまったようで」

「いいえ。気にしないでください。……その、もともとわたしが悪いんですから」


 居心地悪そうに、ロージーは首を振った。痴話喧嘩、というにはあまりにも内容が酷いが、身内の揉め事を部外者が間近で見ていたのだ。さぞかし身の置き所がなかったことだろう。

 グレアムはもう一度ロージーに謝罪し、足元に目を向けた。ジュディスの投げた銀の腕輪は、枯れ草と土にまみれた地面の上で冬の弱々しい光を鈍い色で弾いている。

 ジュディスが放り投げた婚約の証。腰を折って、輪を指先に引っ掛けて拾い上げる。

 これがないと大変だ、と頭の片隅で思うのだが、思考と同時に身体もまた鈍っているような感じがして、グレアムは泥のついた腕輪に視線を落としたまま動くことができなかった。

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