第三章 深雪、隠す
宣告
――グレアム・アクトンがジュディス・ウェルシュに婚約破棄を突きつけた。
――理由は、ロザンナ・キャラハンを本妻として迎え入れるためである。
そんな噂がまことしやかに流れたのは、ロージー糾弾の騒ぎ翌日からだった。脚色まみれの噂だったが、騒ぎのあとの図書館の裏でのことも誰かに見られていたらしく、グレアムがジュディスをはたいたことまでも噂の中に含まれていた。
そうしてグレアムとロージーが学校中から注目され、居心地の悪い日々を過ごすようになって一週間。二人は魔法師学校の南校舎の隅にある生徒指導室に呼び出されていた。
因みに、あれ以来ジュディスは表に出てきていない。グレアムも全く彼女の姿を見ていなかった。
「まったく、とんだ騒ぎを起こしてくれたものだよ」
教材や資料の入った簡素な棚が複数と、これまた簡素な長机が一つ置かれた縦長の狭い部屋。席を一つ挟んで座る二人の向かいには、白髪混じりの小柄な壮年の男性と、茶斑の髪の厳つい中年の男性がいた。二人が纏う黒いローブは講師の証。四年生の学年主任ミラーと五年生の学年主任エイベル。各学年の相談の窓口であり、指導の責任を負う役目を担う講師たちだ。
「まだ若い
角灯風の魔法照明の白い明かりの下、やれやれ、と額に手を当てつつミラーは白髪頭を振る。
騒ぎを起こした令嬢たちを無視して自分たちを非難するミラーに、ロージーは琥珀の眼を見開いて腰を浮かせた。
「そんな……わたしたちが騒ぎを起こしたわけじゃ」
「火種を作ったのは君たちだ。違うか?」
ぐ、とロージーの喉が小さく鳴る。反論の言葉が見つからなかったのか、再び椅子に腰を下ろして項垂れた。
グレアムもまた反論の言葉がなく長机の天板を見つめていた。これでも一応貴族社会を知る身である。体面を重んじる貴族たちは、噂の真偽よりも噂を立てられることが問題だと見做している。そのことについてもう少し考えるべきだった、と現在身をもって痛感していた。色恋沙汰など自分には無縁だ、とこれまでまったく意に介していなかったことがとんだ徒となってしまっている。
「ウェルシュ嬢は、今回のことで休学されることになった」
厳しい顔を更に険しくしたエイベルの言葉に、今度はグレアムが顔を上げた。
「……何故」
騒ぎの火種を作ったのは、講師たちの言うとおり間違いなく自分たち。ジュディスはそのとばっちりを受けただけである。学生たちの注目には晒されるだろうが、ジュディスには間違いなく咎はない。グレアムやロージーが学校を追い出されることはあれど、ジュディスが人目を忍ぶ必要はないはずなのに。
「何故? それはこちらが問いたいね」
グレアムの問いに応えたのは、目の前の講師たちではなかった。タイミング良く開いた生徒指導室の扉から、一人の男性が入ってくる。痩身が纏う蒼のローブは彼が魔法師院の研究者であることを示し、藍色の髪はグレアムのよく知る人物であることを示す。矩形の下縁眼鏡の奥に鋭い眼光を宿した二十代半ばの男性は、ディック・ウェルシュ――ジュディスの兄に他ならなかった。
「……義兄上」
「義兄などと呼ばないで欲しいね。今日から他人だ」
どうして此処に、と問う前に、にべもなく切り捨てられる。グレアムが覚えている限り弟を見るように親しげな眼差しを送ってくれた翠の瞳が、今は侮蔑と嫌悪だけをグレアムに向けている。
ディックは石のように硬直したグレアムから目を離すと、講師二人に頭を下げた。
「ミラー講師、エイベル講師。この場をお借りして申し訳ありません」
「いえ……ロデリック王太子からもお話を伺っていますから……」
自分より遥かに年下の魔法師に、講師二人は気まずげに視線を逸しながら応じる。
ディックは、魔法師院を取り仕切っているロデリック王太子からの信頼も得ているという。その繋がりを利用して、わざわざ今回この場を作ったというのか。人脈を利用した強行が意外で、グレアムは耳を疑った。
「グレアム・アクトン。正直君には失望したよ。君はあくまで真面目な人間だった。だから、ジュディが辛い思いをしていても、今まで許して来たのだけれどね」
まさか浮気をするような男だとは思わなかった、と突き放すように言われて、まるで崖から突き落とされるような気分を味わった。
ディック・ウェルシュは、ジュディスの兄であるという以上に、グレアムにとっては尊敬の対象だった。魔法師院一の魔力を持ち、優秀な研究者。魔法師兵を目指すグレアムとは道が異なってはいるものの、目標とし憧れていた人物であったというのに。
その人に、軽蔑の目で見られている。
「浮気……などでは」
反論する声が掠れる。視界がぐらりと揺れ、目の前が真っ暗になる感覚に陥った。
「そうなの? 話では彼女とかなり親密だったそうだけれど」
一瞬だけロージーのほうを見て、ディックは鼻を鳴らす。
「まあ、そんなことはどうでもいいよ。ジュディはね、あのあと倒れたんだよ」
冷たい水を頭から被ったときのように、酩酊しかけていた意識がはっきりとしはじめる。同時に血の気も引いていた。寒空の下で倒れているジュディスの姿が頭の中に浮かぶ。
「気が昂ぶって魔力を暴走させてね。反動で体内の魔素が急激に増えてしまったんだ。その所為で意識を失った」
「……容態は」
「今はウェルシュの屋敷で寝ている。そこそこ安定したけれど、しばらくはベッドの上だろうね。だから、当分家で休ませることにしたよ」
無事と聞いて少しだけ身体の力が抜けたが、罪悪感から来る口の中の苦味は消えなかった。
そんなグレアムを冷ややかに見下ろして、ディックはなおも続けた。
「ジュディを守るためにいる君が、ジュディを苦しめた。その上、手も上げたそうじゃないか。もう君にジュディを任せることはできない。君とジュディの婚約を、解消させてもらうよ」
グレアムは弾かれたようにディックを見上げた。
「それは……」
どういうことなのか。分かりきったことを敢えて尋ねようとする愚行に気が付き、グレアムは言葉を飲み込んだ。完全に見捨てられたのだ、と再び目の前が真っ暗になっていく。
「待ってください!」
隣から、つんざくような高い声が割って入った。ロージーが再び我慢ならないといった様子で腰を浮かせる。
「アクトン先輩は、浮気なんてしていないんです。一緒にいたのも勉強を教えてもらっただけですし、わたしが勝手に、一方的に好きになっただけで――」
「君の話は訊いてないよ。勝手に囀らないでくれるかな」
冷淡に吐き捨てられたディックの言葉に、ロージーは身体を硬直させた。ディックの眼差しはこれまで以上に冷えたものとなっていた。
ロージーがおとなしくなったところで、ディックは再びグレアムに視線を戻す。彼の視線はそれ以上鋭くなることはなかったが、和らぐこともまたなかった。
足元が瓦解するような気分を味わう。
「でも、君の言い訳を聴く気もない。今すぐ、腕輪を渡してもらおうか」
ディックが掌を差し出すのを見て、グレアムは咄嗟に右手首を掴んだ。七年もの間ずっとそこに嵌まっていた銀の腕輪。これを失くすことは、ジュディスとの繋がりもなくなることを意味する。
耳に蘇る、心地良い歌声。あれももう聴けなくなるというのか。
――否、自ら手放したことになるのだろうか。
「さあ」
静かだが、有無を言わさぬ催促の言葉に、グレアムはとうとう観念した。手首から腕輪を抜いて、ディックの掌の上に置く。そして上着のポケットからジュディスの嵌めていた腕輪を取り出して、グレアムの腕輪の上に重ねた。
終わりの音が小さく鳴るのを、グレアムは直視することができなかった。
「ジュディスに、謝罪を」
手を下ろし、頭を垂れる。グレアムにできることはもはやこれしか残されていなかった。
「自分で伝える度胸はないのかい?」
嘲りの言葉にグレアムは反発することもできず、自嘲するように口元を歪めた。
「……貴方は、会わせてはくれないでしょう?」
ジュディスの婚約をきっかけとした付き合いの中で、グレアムはディックの性格をよく知っていた。どんな理由であったとしても、婚約解消を強いるほどの相手に、彼が自分の妹を会わせるとはとても思えない。
そうだね、と小さく頷いて、ディックは懐に二つの腕輪をしまった。
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