溶けた銀の腕輪

 部屋を訪れた兄に一揃いの銀の腕輪を見せられて、ジュディスは愕然とした。一つはグレアムが着けていた物。もう一つはジュディスが着け、先日グレアムに投げつけた物。戻ってくるのは一つだけだと信じていたのに、まさか両方戻ってくるなんて。


「どうして……」


 藍色の長い髪を解き、白いモスリンのネグリジェ姿のジュディスは床の上に崩れ落ちた。オーク材を組み合わせた菱形模様を凝視して、グレアムが腕輪を手放した理由を探す。ロザンナに惹かれたから。腕輪を投げつけたジュディスに愛想を尽かしたから。もともとジュディスとの婚約は不本意だったから。いくつか思い付くも、自室の床の上に正解は転がっていない。

 ただ一つ解っているのは、あのときジュディスが腕輪を投げつけなければ、こんなことにはならなかったであろうこと。きっかけは、グレアムではなく自分が作り出したのだ。

 怒りと混乱で軽率なことをした自分を悔いる。なんであんなことをしたのかと自らの浅はかさに絶望し、可能なら時間さえ巻き戻してしまいたいとさえ思った。その一方で、ジュディスの意を汲んでくれなかったグレアムを恨めしく気持ちがある――たとえ、それが身勝手な期待をした自分の逆恨みだと判っていても。


「グレアム……」


 もう一度銀の腕輪を見上げる。兄の手にはやはり二つあって、見間違いなどではないのだと再認識した。

 涙で視界が歪む。泣きたいのだ、と自覚すると、もう耐えることなどできなかった。


「ああああああああ――っ」


 両手で顔を覆い、人目も憚らず声を上げる。熱い涙が次から次へと頬を伝った。泣いても意味がない、と頭の何処かで思いつつも、涙腺も声帯も制御することができずに、ただひたすら泣きわめき続ける。


 どうして、あんなことをしてしまったのか。

 どうして、グレアムはあっさりと腕輪を手放してしまったのか。

 どうして、兄はグレアムを引き留めてくれなかったのか。


 いくつもの〝どうして〟が頭の中で渦巻いて、後悔と絶望と恨みが奔流となってジュディスの中に押し寄せる。


 そして思い出す、グレアムに叩かれたときのこと。

 身が竦むような痛みと恐怖。そしてそれ以上に大きく受けた、頭が真っ白になるような衝撃。


 さまざまな感情が押し寄せて、抱えきれなくなって、身の内に溜まるばかりだった魔力が暴走し身体から溢れ出した。


「あちっ」


 頭上でディックの声がすると、かつん、と音を立てて一揃いの銀の腕輪が床の上に落ちた。一度跳ねた腕輪たちは赤くなってみるみる形を失い、銀の雫となって木の床を焦がしながら垂れていく。


「ジュディス、落ち着け!」


 切羽詰まった兄の声。だが、ジュディスにももうどうにもできなかった。抑えねば、と思うのに、魔力は思うように制御できず、呼吸は荒くなる一方。

 胸元の生地を握りしめて堪えようとするが、早くなる呼吸についに胸が苦しくなって、吐き気を催した。空気の塊を吐き出し、咳き込む。感情が溢れたときとはまた違った涙が溢れて、ジュディスは床の上に蹲った。その間も、腹から喉へとせり上がるものが、ジュディスを苦しめる。


 ――助けて、グレアム。


 こんなときでも――否、こんなときだからこそ、求めてしまうのは婚約者だった彼の存在。彼は、ジュディスを助けてくれる人のはずだった。ずっと助けてもらってきた。だから今もまた助けて欲しいのに。

 もう、そんなことはあり得ないのだ、と思ったら。ジュディスの目の前が真っ暗になる。


 額に感じる指先。そこから意識が吸い取られていくような感覚とともに、ジュディスは眠りの中に落ちていった。



  * * *



「少し、早計だったのではなくて?」


 ミント色の寝台に横たわるジュディスの手の甲を撫でながら、翠の鋭い眼差しがディックを射貫く。思うところがないわけではないディックは、ぐっと口を引き結び、でそうになった言い訳を飲み込んだ。ジュディスの傍らに座るディックの一つ上の姉、サブリナ・ワーズワース侯爵夫人は、世間一般の長女のイメージを体現したような存在で、厳しいところがある。そんな彼女だからこそ、なんの躊躇いもなく、ディックの痛いところを真っ直ぐに突いてくるのだった。


「グレアムがジュディに手を上げたのを許せない気持ちは解るわ。彼が浮気と思えるような行動をしたのもまた、ね。私だって、今すぐにでも彼に掴みかかりたい気持ちでいっぱいよ」


 本当にやりそうだ、とディックはその光景を想像し、冷や汗を掻いた。年齢を重ね、結婚と妊娠・出産も経験して今では立派な淑女ぶりを見せている姉だが、一つ下の弟と度々張り合ってきたこともあって、元来勝ち気なところがある。本当にサブリナが実行したら、掴みかかって揺さぶるだけではきっと済まない。グレアムは彼女に張り倒されることだろう。


「でも、二人が冷静に話し合いをすることができないまま、勝手に婚約解消に持ち込んでしまうのは如何なものかしら。ジュディには彼の存在が必要だったのよ。感情云々はさておいてもね」


 ディックの口の中がたちまち苦くなっていく。それこそ苦虫を噛み潰したような気分だった。

 ジュディスとグレアムの婚約は、政略が絡んだものではない。アクトン家もウェルシュ家もこれまで政治的・事業的な絡みがあったことはほとんどなく、財産の規模も社会的影響力も同程度で、お互いに損も得もない相手でしかなかった。

 そんな家の子どもたちである二人が、早いうちから婚約を結ぶようになったのは、偏にジュディスのためだった。


 魔素の過剰な蓄積によって、虚弱となってしまったジュディス。彼女が健康的に過ごすためには、体内に蓄積した魔素をなんらかの形で放出するのが唯一の解決方法だった。その一手段として、魔法の使用があげられるが……残念ながら、魔法の使用には集中力などの精神的負担や魔法維持のための体力的要素も要求されるため、当時寝たきりだった彼女には適した方法とは言えなかった。

 そこで、代案として採用されたのが、ジュディスの中に蓄積された魔素を魔力として別の誰かに送り込むというものだった。

 ただ、これには一つ問題があった。魔素を送る側と受け取る側の相性というものがあったのだ。感覚的な部分が大きいのでなんとも言い難いが、強いて言うなら波長が合うかどうか、といったところか。相性が悪いとたちまち不協和音を起こし、双方耐え難くなって本能的に魔素の授受を止めてしまうのだ。

 ディックも、サブリナも、両親もその波長が合わなかった。家族の中にジュディスを救える者がいなかったのである。

 そこでウェルシュ家はジュディスの魔力を受け取れる人物を捜すことにした。国と魔法師院の助力を得てようやく見つけたのが、グレアム・アクトンだ。彼はジュディスの魔力と見事に調和を成した上、同じ年頃であったこともあり、生涯のパートナーとして婚約を結ぶに至ったわけだが……。


 しかし、とディックは反論する。サブリナの指摘を是と思いつつも、ディックにはまだその言葉を素直に受け入れ難い理由があった。


「グレアムはそれ以前からジュディを苦しめていたんだぞ」


 自らも魔法師養成学校で魔法を使い、また、グレアムに魔素の消費を肩代わりしてもらいながら過ごしていたジュディスだったが、二年ほど前から再び体調を崩すようになった。魔法を使う際の魔力として体内から排出される魔素の幾分かが、魔力消費の反動で体内に取り込まれることが判ったのだ。例えるなら、ポンプのような作用。つまり、魔法を使えば使うほどジュディスは魔素を吸収してしまうという悪循環に陥るのだ。

 そしてそれは、グレアムに魔力を送ったときも同じ。

 ジュディスの負う障害はあまり前例がないので、魔法師院も状態をしっかりと把握していなかった。それ故に発覚が遅れた事実である。


 事実が分かったあと、ジュディスはグレアムにそのことは伝えたらしい。しかし、グレアムはまったく意に介さず、これまでと同様に――否、それ以上に魔法を使い続けた。


『グレアムには、夢があるから』


 だから少しくらいは仕方がない、とジュディスは困り顔で笑っていた。

 それでももう少し配慮があっても良いだろう、とディックは思ったが、ジュディスが大丈夫だというものだから、彼女に任せてなにも言わなかったのだ。

 それがいけなかった、とディックは今になって後悔している。真面目な奴だと見誤ったから。

 だから、こうして裏切られた。


「それでも、ジュディの身体に溜まってしまった魔力を引き受けることができるのは、グレアム・アクトンただ一人。貴方もジュディも、そのことをもう少ししっかりと認識しておくべきだったのだわ」


 怒りと後悔を滲ませるディックに、サブリナは毅然とした態度でなおも指摘する。


「最悪、彼が愛人を持つことになっても赦すべきだったのよ。この子が元気に生きていくためにはね」

「しかし、それではジュディがあまりに――」


 可哀想、とも、不幸だ、とも言うことができずに、ディックは言葉を飲み込んだ。

 感情と魔力を暴走させたジュディス。彼女は今、ディックが強引に魔法を掛けたことで深い眠りに落ちている。顔は真っ白だったが呼吸は安定していて、今だけは穏やかに眠れていることが見て取れた。

 ジュディスはずっと、グレアムと結婚できる日を夢見ていた。恋していたのだ。グレアムと一緒にいると幸せそうな表情をする妹を見て、その恋が成就すれば良いと思っていた。

 しかし、彼女の恋は破れた。


 ジュディスから目を逸らし、サブリナは窓の外を見た。ディックもまたつられて窓の外を見やる。

 昔、寝たきりだったジュディスが少しでも外を楽しめるように、と窓際に置かれたベッド。そこから見える景色は今、雪に覆われようとしていた。

 白昼の曇天から落ちる牡丹雪が重い音を立てながら外界を白く染め上げていく様は、現実を拒絶したジュディスの意思を反映したかのように物悲しい。


「……そうね。私だって、ジュディには幸せな結婚生活を送ってほしい。けれど、私たちはあまりに感情を優先してしまってはいなかったかしら」


 サブリナは八歳、ディックは七歳。大きく歳の離れたこの妹は、ウェルシュ家の大事な宝物だった。病弱であったことも相まって、家族全員で溺愛してきた自覚がある。ジュディスがグレアムを慕っていただけに、家族揃ってこの婚約の本質を見失ってしまったのではないか、と姉は指摘した。

 ディックは否定できなかった。姉に説教されるこの瞬間まで、頭に血が昇っていた自覚があったからだ。もう少し上手い立ち回り方があったのではないか、と言われてしまうと、この選択が最善であったと自信を持って言うことはできない。

 実際、ジュディスはこのことで大きく傷ついている。


「でももう、どうすることもできない」


 自分の軽率な行動を反省しつつ、ディックは暗い声を落とした。


「国を巻き込んでしまった。この婚約解消は……どうやっても覆らない」


 国立の魔法師養成機関があることからも分かるように、アメラスは魔法および魔法を扱う者を重視している。ジュディスとグレアムの婚約に国が関わったのもその為。――そして、その解消にもまた、国が関わった。

 ジュディスの体内の魔素を受け取る魔法を施した腕輪も、溶けてなくなってしまった。もうこれまでと同じ方法を取ることはできない。

 サブリナは項垂れた。結い上げ残したサイドの藍色の髪が白粉をはたいた頬に掛かる。いくら文句を言おうとも、もうどうにもならないことを彼女も解っているのだ。


「なにか、代替案はあるの?」


 懸念を混じえて尋ねるサブリナに、ディックは頷いた。


「とりあえず、の対策ならば、いくつか考えてあるよ」


 ディックは魔法師院の研究者。魔法師学校を卒業してから今までずっと、魔素が人体に与える影響とその対応策を研究してきた。すべてジュディスがきっかけとなってはじめた研究だ。


「ただジュディには、少し不自由を抱かせることになってしまうけれど」

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