変身魔法
魔力の行き場を失ったジュディスに、ディックが提案した方法は二つ。
一つは、魔法師院に赴き、魔力を蓄えることのできる石――魔石に魔素を送り込むこと。実はこれは今までも度々行っていた。その頻度を増やそうというのだ。
そしてもう一つは――
「変身魔法?」
部屋に日光が入り込み寒さが和らいできた頃。ベッドの中で怪訝そうに返したジュディスに、ディックは頷いた。
変身魔法そのものは、まあ知られたものだ。だが、実用性がない魔法の一例としてであって、多くの人が、そんなものがあったな、と思う程度にしか知られていない。ジュディスもまたその一人であって、兄の提案の意図が解らずにいた。
「変身魔法が実用化されていないのは、魔力の使用量が多いからだ。あれは身体の構造を作り変えるからね」
魔力の少ない人間であれば変身するだけで疲弊するらしいが、そんな魔法を薦めてくる理由が解らず、ジュディスは首を傾げた。緩く二つに結んだ髪が、モスリンの生地の上を流れていく。
「でも、一度に大量の魔力を使うなんて、それだけならこれまでと変わらないんじゃ」
「確かに、変身するのに使ったぶん、大きな反動を受けるだろう。そのときはやはり苦しい思いをするかもしれない。けれど、肝心なのはその後だ」
ディックは唇を舌で舐めて湿した。
「変身魔法は、変身した姿を維持するために絶えず魔力を使用するんだ。量は、変身するときに比べるとずいぶん小さなものなのだけれど、常に魔力を消費している状態になる」
変身時に魔力を多量に消費して、さらにその姿を維持するために魔力を消費し続ける。負担ばかりが多い変身魔法。多くの人にはお遊びにしか感じられなくとも、密偵などには実に重宝しそうな魔法が、実用性なし、と判断されているのは、その所為だ。
「つまり……変身した姿を維持することで、常に魔力を消費する状態にして、その消費し続ける魔力ぶん、受け続ける反動も小さめにするということ?」
「そういうこと。ただ……」
ディックは眉を垂らし、眼鏡の
「……ジュディスの魔素による身体の負担と魔力使用量を加味して考えた場合、変身する姿は、身体の構造が異なる動物……のほうが良いと思うんだ。つまり、ジュディスは日常を人として過ごすことができなくなる」
「え……」
自分のこれまでの病状を鑑みて、多少の不自由を強いられても仕方がないか、と考えていたジュディスも、さすがに戸惑った。人ではない、動物の姿での生活。それがどういったものになるか、全く想像することができない。
食事は? 服は? 排泄は? 誰かと会話することはできるのか?
人間として当たり前だったこと――それも人間の尊厳に関わるもののほとんどすべてを取り上げられてしまうのだろうか。
そう思ってしまうと、断ってしまいたい衝動に駆られるが。
ジュディスは、ベッドの傍らの椅子に座るディックの顔を盗み見た。身体を小さくし、長い藍色の前髪から自信なさげにジュディスの反応を伺う兄の表情。彼にとっても苦渋の提案なのだと知る。
――仕方がない……か。
ジュディスは息を吐いた。自分のためを思って一生懸命考え出してくれた兄の提案を、自分の我儘で無下にするわけにもいかない。
「ちょっと、面白そう」
「……え?」
好奇心旺盛な妹を装って言えば、ディックは呆けた顔でジュディスを見つめた。
「なんの動物が良いかな?」
兄様どう思う、と茶目っ気を出しながら尋ねると、ぽかんと口の開いていたディックの顔が、ぎこちない笑みに変わっていく。
「……屋敷で過ごせる動物にしてくれよ。虎とか馬になられたら困る」
ジュディスは、この屋敷を虎が闊歩する姿を思い浮かべた。例えば、ウェルシュ邸のエントランスホールの壁沿いにある赤絨毯の真っ直ぐな階段を下りる様は、とても格好良いのではないか。ただ、使用人はさぞかし怯えることだろう。
馬はどうだろうか。虎のときのように、邸内を歩く様を思い浮かべることはできなかった。ならばやはり厩に行くのだろうか。厩で寝ることよりも、食事が飼い葉になることのほうが気になった。
――確かに、どちらも無理だ。
「それから、小動物も止めてくれ。外に出たら鴉や野良猫に襲われるのではないかと、気が気ではなくなる」
「鷹や梟などの大きな鳥だったら?」
「飛び方を知らないだろう。空から落ちてしまったらどうするんだ」
次から次ヘと規制がかかってしまい、ジュディスは頬を膨らませた。兄は過保護にも程がある。だいたい、人間以外のどんな動物であっても、身体の動かし方など知っているはずもない。その言い分ならすべてが却下の対象だというのに。
「もうっ、それならどんな動物だったら良いの?」
羽布団を叩いて口を尖らせれば、自分の要求が過ぎたものであることを自覚したらしい。顎に手を当て、眼鏡の奥で気まずげに翠の瞳を泳がせて、しばし考える素振りをみせた。
「そうだな……犬猫あたりにしておいてくれ。それなら邸に置いておけるし、うっかり殺されることもないだろう」
「はーい」
そうして、ジュディスは猫の姿を選んだ。
灰色に黒の縦縞の入った猫だ。唯一、翠の瞳だけが、ジュディスの面影を残している。
さすがというべきか、ディックの見立ては正しかったようで、変身魔法を使ってからは、体調面では快適な日々を過ごしていた。
ただ、日々の生活はとても退屈だった。一人で本を読むことはできないし、楽器を弾くこともできない。人間と猫では発音の仕方も違うようで、誰かとお喋りをすることもできない。
かといって、頻繁に人間に戻るのもまたリスクがある。猫に変身したあとには、やはり多くの魔力を使った反動があったのだ。ただ辛いだけではない。猫の身体は人間の身体の勝手が違うから、症状を耐えたりやり過ごしたりする方法が判らずに苦しんだ。なにかに縋ろうにも縋る手はないし、楽な体勢というものが分からなかった。変身するたびにあの苦しみを味わうことを思うと、どうしても変身魔法を使用する回数を減らす、すなわち人間に戻る回数を減らすという選択肢を取らざるを得なかった。
ミント色の自室の日当たりの良い窓辺で、色をなくした庭を見下ろすだけの毎日。本当に猫になったみたいだ、とジュディスは思う。人間のときの生活を思うとあまりに現実味がなくて、夢でも見ているのでは、と錯覚しそうになる。
それとも、人間の姿のときのほうが夢か。
――こういう状況を、胡蝶の夢というのかな。
あの図書館の裏での出来事が、本当に夢であれば良いと思う。もしくは、時間を巻き戻せたら。
ジュディスは窓に映る、人ならざる自分の姿を見て、溜め息を吐いた。もう今更、どうにかなるものではないことくらい解っている。それでも、割り切れない。
ふとした拍子にグレアムのことを思い出し、胸が締め付けられそうになると、現実から目を逸らす。これを幾度も繰り返していた。
悪夢と現実を行き来して
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