王太子

 年末も間近に迫った晴れの日。先日積もった雪をすべて溶かしてしまいそうな暖かさの下、ジュディスは兄ディックの出勤日に合わせて魔法師院を訪れた。身体の中に溜まった魔素を魔力として魔石に移すためだ。

 灰色に黒の縦縞の入った猫姿のジュディスは、兄に赤ん坊のように両腕で抱えられて馬車を下りる。

 魔法師院は、白い御影石でできた四階建ての箱型の建物で、真ん中よりもやや右側に、正面玄関となる観音開きの扉がある。一階の窓は一般的な格子窓だが、二階以上は南側のほぼ一面がガラス張りとなっていて、その外側には白い円柱が十二本等間隔に並んで配置されているという太古の神殿めいた重厚な外見。しかし、中はそれに反して、板張りの床と白い壁紙の簡素かつ温もりのある内装となっている。


 ジュディスたちは、窓沿いの廊下を通って一階北西側へ行き、そこにある保管庫に併設された準備室で魔石への魔力の充填を行っていた。

 部屋の中央にある猫足三脚の円卓の上に、五個の魔石とともに乗せられる。猫の前足で灰色の石に触れて魔力を流せば、石は徐々に青銀の色に変わっていく。表面に金属光沢が出て、天井の魔法照明の白い光を反射するようになったら充填完了だ。ジュディスは青銀の魔石から足を離し、次の灰色の石へと魔力を充填させていく。


 五個全ての魔石に魔力を充填し終えると、ジュディスは辺りを見回した。円卓の上に乗せてくれたディックがいない。奥の部屋に通じる扉が開いていたので、そちらに行ったのだろう。

 ディックが戻るまで待っていよう、と円卓の上に伏せて尻尾を揺らす。猫になって自然に覚えた癖だった。

 人が常駐する場所でないからか、準備室の中はひんやりと寒い。水の中にいるような冷たさだったが、ジュディスの気分には合っていた。

 奥の部屋から兄が出てくるのをじっと待ち構える。


 と、突然脇腹を掴まれ抱え上げられた。


「珍しいな。猫なんて」


 びし、と音が鳴りそうなほど硬直したジュディスは、身体を反転させられ、無体を働くその人物と対面した。ジュディスよりも十ほど歳上の男性。太くきりりとした眉に、華のある顔立ち。太陽の色を映したような金の髪に、日に透けた若葉のような明るい緑色の瞳。兄と同じ蒼のローブを着た身体は程よく鍛えられていて、ジュディスを抱える掌は大きい。

 ジュディスは、その人を知っていた。


「いや、もしかして……」


 彼はジュディスを床に下ろすと、猫の頭に右手を置いた。わしゃわしゃと撫でられたあと、その手に魔力が流れるのを感じた。

 身体がふわりと浮く感覚を覚える。じっと見つめていた木のタイルの床が遠ざかる。

 ――違う。元に戻っているのだ。


「久しいな、ジュディス嬢」


 慣れた高さまで視線の位置が戻ると、ジュディスは長身のその人を見上げた。


「ロデリック……殿下」


 久しぶりに人の言葉を喋る所為か、痰が絡んだような声になってしまっている。

 ロデリック・ディラン・クラエス。アメラス国を治めるクラエス王家の王太子にして、アメラス国立魔法師院の理事の一人だ。そして、ディックの上司でもある。

 兄と王太子は上司と部下の関係にありながら懇意の仲でもあるらしく、キャラハン家はロデリックを招いたことが何度かある。応対は主に父と兄がしていたが、ジュディスもまた挨拶やもてなしに加わったこともあるため、それなりに面識があった。

 どうして猫姿の自分を見破ることができたのだろう、とぼんやりと微笑む王太子を見上げていると。


「ちょ……殿下っ!?」


 ようやく戻ってきたディックが、眼鏡がずれるのも構わず慌ててジュディスに駆け寄って、王子から攫うようにジュディスの人間の身体を抱き寄せた。


「なにしてくれているんですか! せっかくの魔法を解くなんて!」


 唾も飛びかねないほどに喚くディックの態度は、傍から見て王族に対する敬意が欠けているものだったが、ロデリックは気にした様子もなくにこにこと笑う。これだけで、兄と王太子の仲がどれほどのものなのか知れるというものだ。


「いや、すまないディック。変身魔法なんてなかなか珍しくてな。つい」

「つい、じゃないですよ! 妹がどうしてあんな姿で過ごしていると思っているんですか。まして……こんな格好だっていうのに」


 ディックはロデリックの視線からジュディスを庇うように立ちはだかった。今のジュディスは、家に居たときの姿――モスリンのネグリジェを着たままの姿だった。生地は厚手で肌が透けて見えるようなことはないが、とても人前に出られる姿ではない。


「ああ……これは失礼」


 気まずそうに言ったあと、ロデリックは視線だけジュディスから逸らす。

 ディックは急いで自分のローブを脱ぐとジュディスに羽織らせた。そういえば、ここは普通恥じらうところなのだ、とジュディスは気付く。頭がぼうっとして、感じ方が鈍くなっている気がする。猫のときの過ごし方が癖になっているのだろうか。

 どちらにしろ面倒なことになったな、とジュディスは密かに嘆息する。これではまた変身魔法を使わなければならない。また苦しい思いをしなければいけないのかと思うと、あまりこの状況を歓迎することができなかった。


「まあ、せっかく人の姿に戻ったんだ。良ければ、私の部屋でお茶でも如何かな?」


 ディックに急かされながらローブの袖に腕を通すジュディスに、ロデリックは紳士的な態度で微笑みかける。


「いえ……私は……」


 ゆったりとしたネグリジェの袖がローブの袖に引っ掛かった気持ち悪さと同時に、部外者の身でこの場にいることの居心地の悪さを覚えて、ジュディスは誘いを辞そうとする。


「もちろん、兄君も一緒にだ。ディック、ちょうど良いから、この件についての成果を報告してくれたまえ」


 王太子は引き下がる気がないらしい。兄まで引き合いに出されてしまって、ジュディスは途方に暮れてしまった。

 ジュディスの背に手を回したディックが、呆れた様子で溜め息を吐く。


「私は妹を研究成果のための実験体にしているわけではないのですが」

「心得ているよ。だが、試した結果が得られているのは事実だろう。魔法医療発展のためにも、是非それを報告して欲しいのだがね」

「サボる口実が欲しいだけでしょう」


 ディックはもう一度溜め息を吐くと、頭を軽く振った。ロデリックがなんとしてもジュディスたちを茶に誘う気であるのを察したらしい。


「分かりましたよ。一杯だけです。それで良いですね?」

「厳しいな、ディックは」


 分かったよ、とロデリックは人好きのする笑みを浮かべる。


「お茶と一緒に菓子も用意させよう。ジュディス嬢は、マカロンが好きだったかな」


 何故知っているのか。

 ジュディスが疑問を口にする間もなく、うきうきとした様子でロデリックはジュディスたち兄妹を促した。




 理事だからなのか、王太子だからなのか、ロデリックは個室を与えられているらしい。連れてこられたのは、深緑の絨毯の部屋だ。部屋の奥側に置かれた執務机の前に、大人一人ではとても持ち上げることのできそうにない重そうな木の卓があり、その両側に置かれたクリーム色のソファーにジュディスたちはそれぞれ腰掛けた。入口側にジュディスとディック。窓側でジュディスの対面となる位置にロデリックが座る。

 焦げ茶色の卓の上には、三段のケーキスタンドが置かれていた。一番下はハムとチーズを挟んだ小さなパン。真ん中にはストロベリージャムが添えられたスコーンが三つ。上段には、山のように積み重なった色とりどりのマカロン。


 レモンが入った口当たりの良い紅茶とともに、ジュディスが黙々とパンとスコーンをよばれている間に、ディックとロデリックが〈魔素代謝異常症〉――ジュディスの障害はそう名付けられていた――の対処法についての話をしていた。我が身のことながら、医療系のものと思われる専門用語が飛び交う話についていけなかったジュディスは、半分になった紅茶と空いた取皿を前に、上段の菓子に手を付けるかどうか悩んでいた。一杯だけ、とディックは言ったが、夢中になって談議している二人のカップの中身は一向に減る様子を見せない。このお茶の時間は長引くことが予想された。

 ジュディスは膝に視線を落とし、密かに溜め息を吐いた。付き合いのために仕方なく喚ばれたが、あまり人と会って話す気分ではなかったのだ。グレアムと別れて心が水底に沈んだような現在は、気心の知れた家族以外と話すことがとにかく辛かった。

 そんなジュディスの様子に気がついたのか、兄との話の途中、不意にロデリックが声をかけてきた。


「ジュディス嬢、お菓子は食べないのかい?」

「いえ、その……」


 様々な言い訳が頭を駆け巡るが、良いものが思い浮かばず、素直に勧められるままにマカロンに手を伸ばした。


「好きなだけ食べると良い。猫の姿では、こういうものは楽しめないだろう」

「そう……かもしれません」


 実は試したことがない。猫の間は、キッチンが用意してくれた魚のすり身や穀類のクッキーのようなものばかり食べていた。食事の都度作ってもらえるし、ジュディスの味覚にあった物を作ってもらえているものの、人間の頃に食べていた物と比べると、やはり〝餌〟と呼ばれてしまうような見た目のものばかりだった。

 猫になった初日、なにを食べさせれば良いのか、と頭を悩ませていた家族と使用人の困った顔が思い出され、黄色のマカロンを摘んだジュディスは小さく笑った。


「ずいぶん淋しい食生活を送っているようだな、ジュディス嬢は」


 ジュディスの笑みを勘違いしたロデリックは、ディックを揶揄する。痛いところを突かれた兄は、でも、だって、と視線を泳がせた。ジュディスもまた控えめに否定してみせる。


「だが、たまには楽しみも必要ではないかな?」


 と、ジュディスの言に納得できなかったらしいロデリックは、そうだ、と緑色の瞳を輝かせて手を打った。


「ここに来る度に、私とお茶をするというのはどうだろう。いろんなお菓子を用意するよ」

「いえ、でも、お仕事のお邪魔をするわけにはいきません」

「構わないよ。怠ける良い口実になるし」


 ジュディスはわずかに眉根を寄せた。構うのはこちらのほうだ。兄と仲が良いとはいえ、相手は王太子。一介の伯爵令嬢に過ぎない自分がお茶の相手をするなど、あまりにも畏れ多い。


「しかし、そう頻繁に人間に戻ると、猫になるときにジュディスの症状が」


 同じく難色を示したディックに、それなのだけれど、とロデリックは人差し指を立ててみせた。


「変身魔法を使用したあとに魔石への魔力充填を行うことで解決しないだろうか」


 ジュディスは首を傾げ、兄を見た。ディックは眉根を寄せ、身を乗り出してロデリックに注目する。


「魔力の多量使用の反動による魔素吸収が問題なのだろう? なら、その吸収分を魔石に移してあげれば、少しは症状が緩和されるのではないかな」

「なるほど、それは一理あるかも」

「では、早速試してみようか」


 ディックが関心を示したと知ると、すぐさまロデリックは立ち上がり、部屋を出ていった。魔石を取りに行ったのだろう。あまりの行動の早さにジュディスは呆気に取られた。


「ずいぶんと熱心なのね」


 ディックと話が合う以上、理事の立場が腰掛けであるとは思っていなかったが、こうも自分の症状に興味を持たれるとは思わずジュディスは傍らの兄に呟いた。


「うん、まあ……そうだね……」


 対する兄の返事は何故か歯切れの悪いものだった。

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