彼女のいない日常は

 幸か不幸か、婚約の腕輪を返還したあとのグレアムは、ジュディスのことを考える間もなく、期末考査に追われた。日頃真面目に学習しているグレアムも、何故この時期に全てを集中させるのか、と文句を言いたくなるほど、試験やレポートの目白押し。実技に苦労した意外は大した困難もなくおよそ一週間半の試験期間を乗り越えたが、全てを終わらせたあとの反動は大きかった。

 最後の試験が終わったあとの教室で、グレアムは椅子に座ったままぼうっとしていた。後方右端の席。他の学生は解放感から騒ぎながら出ていったのがついさっき。しかし、グレアムは席を立って彼らと同じように振る舞う気になれなかった。

 自分でもなにを考えているのか判らないまま、虚空を睨んで手元を弄る。ジュディスにもらった懐中時計がそこにあった。空き時間、揺れるテンプや動く歯車をぼんやりと眺めるのが、ここ最近の癖になっている。


「ずいぶんと腑抜けた顔ですこと」


 時計の機構を目で追っていると、呆れ声が降ってきた。顔を上げるとカタリナが不機嫌な表情で立っていた。彼女は、グレアムを追い詰めるかのように机に片手を付いてこちらを睥睨する。


「まるでフラれたのは貴方のほうであるかのようね」

「俺は――」


 反論が口をついて出かけるが、件の自らの対応の悪さを自覚したグレアムは、結局なにも言えずに黙り込んだ。文字盤側を下にして時計を机の上に伏せ、カタリナから隠すかのように両手で覆う。

 カタリナはその行動を不審そうに見ていたが、グレアムの仕草には触れず、話を切り出した。 


「実はそのことで、少し気になることがあるの」


 てっきりジュディスを傷つけたことを責められると思っていたグレアムは視線を上げた。カタリナは深刻そうな表情で、考え込むように顎に手を当てている。


「今回の件、いくらロザンナ・キャラハンが注目の的だったとはいっても、噂が広まるのが早すぎたように思えるの。それも、話に余計な尾ひれが付いている様子がほとんどない」


 通常、人から人へ伝わる噂話は、語り手の主観が混じってしまうために話がより大げさになったり歪められたりする。だから、語られる口によって微妙に内容が異なるものであるらしい。

 しかし、今回のロージーの告白騒動の件――グレアムとジュディスの婚約解消の件は、誰から聴いてもほとんど同じ内容が語られていた。それが実に奇妙だ、とカタリナは言った。


「思うのだけれど、この騒ぎ、誰かが仕向けたものなのでは――」


 グレアムはそこで席を立った。言葉を切ったカタリナは、微かな驚きをもってグレアムを見上げる。


「悪いが、興味がない」


 時計をポケットにしまい、机の上の革の筆記用具入れを掴むと、グレアムはカタリナに背を向けて教室の出口へと向かった。


「ちょっと!」


 本当にこれで良いのか、とカタリナの声が追い縋るが、グレアムは振り切って早足で教室の外を出た。

 廊下には、試験を終えた学生たちがたむろしていた。みな試験の感想や長期休暇の話題で盛り上がっている。時折こちらを指差して噂を口にする人もいたが、グレアムは気に留めなかった。好きに噂すればいい、と他人事のように思う。


 ジュディスとの婚約解消のことをどう受け止めているのか、グレアムは自分でもよく判っていなかった。ただ、これまで当たり前だったことがなくなっても、地続きで日常が続いていることに居心地の悪さを覚えていた。試験の手応えもそこそこで、生活のリズムにも変化がない。もっと動揺しても良かったのではないか、と自分でも思わずにはいられない。

 ――ジュディとの婚約は、自分にとってその程度のものだったのだろうか。

 だとすれば、思っている以上に薄情だったのだな、と自らに失望する。


 外に出れば、冷たい空気がグレアムの肌を突き刺した。太陽は南中にあるのに凍りついてしまいそうだ。本格的な冬を到来を感じつつ、雪解け水で泥だらけになった道で靴を汚しながら、男子寮の扉を潜った。

 外気とは違い、魔法による暖房技術で暖められた屋内は暖かかった。小春日のような柔らかい室温に、ほっとする者は多い。だから、入口のすぐ左手側にあるロビーでも、のびのびと過ごす男子学生たちがそれなりに見られた。

 その一角に見慣れた集団を見かけて、グレアムはなんとなくそちらへ足を向けた。白い壁際の背の低いテーブルを囲むように置かれたソファーに腰掛けて、フリンをはじめとした魔法師兵を目指す同級生たちが楽しそうに談笑している。

 ソファーにふんぞり返り、脚を組んで寛いでいたフリンは、グレアムを見留めて片手を挙げた。


「よう、グレアム。……どうだった?」


 なにを期待しているのか、フリンの周りにいる同級生たちの好機に満ちた眼差しが、なんだか鬱陶しかった。


「別に。普通だ」

「ふーん、そうか……」


 期待した答えでなかったのか、つまらなそうに相槌を打って、フリンは深緑の眼差しを寄越した。じっとグレアムを観察する。


「あれだけ仲の良かったウェルシュ嬢との婚約が解消されたというのに、普通、か。……もしかして、邪魔者が居なくなったから、かえって万々歳とか?」

「馬鹿なことを……」


 意地の悪い質問に少し苛立ちつつ返事して、グレアムはふとカタリナの言葉を思い出した。

 フリンは一度、グレアムとロージーが一緒にいるところを見ている。そのとき彼は、グレアムとロージーの関係を、今のように茶化してはいなかったか。

 そういえば、ロージーがエントランスホールで糾弾されたときにジュディスの隣にいたような気がする。

 ――まさか。

 ふと過ぎった考えを、頭を振って追い払う。たったそれだけのことで疑うなんて、どうかしている。例え、フリンがこれまで何度もグレアムにそれとなく悪意をぶつけていたとしても、だ。


「どうかしたか?」


 薄く笑みを浮かべつつ訝しげに問いかけるフリンに、なんでもない、とグレアムは首を振ってみせた。


「疲れたみたいだ。……部屋に戻る」


 そうか、じゃあな、と手を振って、フリンは同級生たちとの歓談を再開した。グレアムのことなどすぐに頭の中からなくなってしまったような、乾いた対応だ。前々からこういうところがあったよな、とこれまでのフリンとの付き合いを振り返りつつ、グレアムは自室に戻った。


 部屋の中は雑然としていた。窓は紺のカーテンが引かれたままで暗く、ベッドから掛け布団が半分ほど落ちている。机の上は本や紙で溢れかえっていて、床にもいくつか放置されていた。いくら考査期間中で整理整頓の時間が惜しかったとはいえ、あまりに酷い。

 床に落ちた本を拾い上げると、本が積み上げられた机の上に放置された開封済みの手紙が目に入った。数日前に父から届いたものである。


 ディックに腕輪を返したあと正式にキャラハン家から婚約解消の打診がいったのだろう、グレアムは父に説明を求められ、一度グレアム家のタウンハウスへ赴いていた。一通り説明を聴いた父は、難しい顔で頷き、しかしその場で結論を出すことはできなかったのか、追って沙汰するとだけ告げて、グレアムは魔法師学校に返された。

 その〝沙汰〟となるのが、この手紙だ。そこには、父の力強く角ばった筆跡で、ウェルシュ家との婚約の解消の手続きを進めた旨が記載されていた。

 それから、今冬は帰ってくるな、とも。


 ふ、とグレアムは口元を歪めた。

 なに一つ変わっていないなんて嘘だ。自分は全てを失っているではないか、とここに来てようやく現実を直視した。

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