魔窟を覗く
「なんてことをしてくれたのですかっ!」
侮蔑と嘲笑の視線に晒され続け、冬期休暇を迎えてキャラハン家のタウンハウスを訪れたロージーを出迎えたのは、これ以上ないほどに眉を吊り上げたキャラハン男爵夫人エリアーデの姿だった。黒い髪を高く結い上げ引っ詰めて首元まである紺色のワンピースを纏った彼女は、物凄い形相で駆け寄って、ロージーの頬に感情任せの平手打ちを見舞った。
「既に婚約された男性に手を出すなんて……っ! やっぱり貴女は――」
なにかを言い掛けて唇をぐっと噛みしめる。
その先に続く内容を察したロージーは、申し訳ありません、と深く頭を下げる。さすがにこの二週間、ロージーは自分の行いの問題点を自覚することができていた。貴族の令嬢としてあるまじき失態を犯し、エリアーデの葛藤を蔑ろにした自分にできることは、ただひたすらに謝ることだけだった。
騒ぎを聞きつけて集まった異母兄と使用人たちの、好機と嘲りの視線がロージーに向けられる。羞恥でいっぱいになったが、屈辱に感じる資格もない以上黙って耐え続けるしかないのだ、と必死に自分に言い聞かせていた。
「その辺にしておけ、エリアーデ」
床の木板を組み合わせて作られた花のような幾何学模様の継ぎ目をじっと睨みつけていると、上から低い声が降ってきた。少しだけ頭を上げれば、エリアーデの背後、白絨毯の階段の踊り場に、壮年の男性が立っていた。彫りの深く、頬に皺が刻まれた顔の横で長い亜麻色の髪をゆるく束ね、金糸の蔦模様の入った焦げ茶のウェストコートの上に紺色の
タデアス・キャラハン。キャラハン男爵家の当主にして、ロージーの父親その人である。
「ロージー」
タデアスに呼びかけられたロージーは、飛んでくるだろう叱声に耐えるため、ぎゅっと目を閉じた。
「よくやった」
柔らかく落とされた言葉に、弾かれたように顔を上げる。
「え……?」
「あなた、なにを――?」
ロージーもエリアーデも呆然として階段上のタデアスを見上げた。
タデアスは右手で綺麗に剃られた顎を撫で、もう片方の手で片肘を支えながら、青い眼差しを広間の二人に投げかけた。
「アクトン家の領地は広大で、財力もある。今代当主は政治への影響力もある人物だ。取り入ることができれば、キャラハン家も安泰だ。あわよくば出世も狙えるかもしれん」
「ですが、キャラハン家の評判は悪くなります!」
「醜聞など、アクトンの倅を射止めてしまえば後はどうとでもなる。婚約を交わしたあとに、美談にすり替えてやれば良い」
タデアスの発言をどのように受け取ったのか。エリアーデは俯くと、両側に下ろした拳を震わせた。
「……なるほど。貴方は常々、そうやってきたのですね」
低く這うような声に、ひやりとしたのはロージーのほうだった。
「この件についてはどうぞご随意に。わたくしは関与いたしませんので」
再びきりっと顔を上げた彼女は冷たくそう言い切って、タデアスの横を通り過ぎていく。
話の終わりを察したのか、集まっていた使用人たちは解散し、個々の仕事に戻っていく。
黙って成り行きを見守っていた異母兄のベルノルトは、自室に戻る道すがら、エリアーデとよく似た鋭い顔立ちを嫌みに歪めてロージーの耳元で囁いた。
「結局、泥棒猫の娘は泥棒猫ってことなんだな」
ロージーは息を呑む。まるで心臓にナイフを突き立てられたような気分だった。侮辱の言葉と解っていても、反論なんてできようはずもない。
「ま、せいぜいその身体を使ってキャラハンの役に立てよ」
ぽん、と肩を叩かれても、ロージーは返事することも身動きすることもできなかった。
そんなロージーに満足して、ベルノルトは愉しそうな笑みを深め、無事な右手で手すりを掴んで身体を支えつつ階段を登っていく。
怪我で魔法師になれなくなったベルノルトは、代わりに魔法師になることになったロージーのことが憎いらしい。ことあるごとにこうして嫌みを言ってくる。治らない怪我の鬱憤晴らしもあるのだろう。けれど、ロージーは甘んじて受ける以外の道がなかった。
愛人の娘だから。
まして、今回はキャラハン家に迷惑を掛けてしまった。
ロザンナ・キャラハンとなってから、碌なことがない。如何に貴族社会が自分に分不相応な社会であるかを痛いほど自覚する。叶うのならば、実母の居る別邸に帰りたい。
「……お父さん」
ロージーは、この家でただ一人縋ることのできる人物を見上げた。
階段を下り、エントランスに佇んだままだったロージーの目の前まで来てくれた父は、励ますように小さな肩に大きな手を置いた。
「気にするな、ロージー。あれも貴族の女だ。哀れな女の振りをしてうまく立ち回ることだろうさ」
自分の妻に対するものとは思えない父の冷たい物言いに、ロージーは表情を曇らせた。タデアスが家族に対して――〝特別な女〟の実母やその娘のロージーに対しても――冷淡な一面があると知ったのも、ロザンナを名乗るようになってからだった。
「それよりもお前は、アクトンの倅に逃げられないよう頑張りなさい」
「でも、さすがにジュディさんに悪いんじゃ」
ロージーですら無神経と思える父の言動に抵抗してみせるが、
「手放したのはウェルシュのほうだ。気にすることはない。奴らが逃したものの大きさを分からせてやろうじゃないか」
笑いかけるタデアスの表情は、他者を出し抜ける可能性を見出した悦びに満ちていて、この人すら当てにすることはできないのだ、と悟ってしまった。
きらびやかな世界の象徴だと思っていた白と金の豪奢な内装の屋敷が、魔物の巣窟に見えてくる。
「お前には、キャラハンの役に立ってもらう。期待しているぞ」
言い方こそ和らいでいるものの、ベルノルトと変わらないタデアスの発言に、今度こそロージーは失望した。
* * *
いざ休みに入ってみると、タウンハウスに帰れなかったのはグレアムにとってそう悪い事でもなかった。要らぬ社交に煩わされず、魔法師学校の設備を使って存分に訓練や勉学に励めるからだ。
毎朝早い時間に起き、帰省で人が少なくなった食堂で食事をし、訓練場を利用し、図書室に立ち寄り。理由あって帰らない者も幾人かいるので貸し切り気分とはいかないが、普段の賑やかさがなくなっているだけで一層物事に集中できるような気がした。
ただ、なんとなく調子が悪い。
息切れしやすくなったというべきか。午前中を魔法の訓練に当ててているのだが、自分ではある程度加減して練習しているつもりなのに午後に疲れが残っていたり、実際に魔法を使ったとき持続力が落ちているような気がするのだ。
はじめは、試験疲れや自業自得とはいえ精神的な不調によるものかと思っていた。しかし、一週間もその状態が続くとさすがに異変に気づく。
――魔力が、減少した……?
そう推測したグレアムは、図書館で医学系の書物を漁ることにした。体調と魔力の関連性について調べようと思いついたのだ。
書棚が押し寄せてきそうな吹き抜けの通路を突き進み、図書館の真ん中あたりにある、木琴の鍵盤のような螺旋状の階段を上る。
上りきったところで、一人の男子学生と目が合った。褐色の髪のその学生は、渋面を作ったあと、すれ違いの挨拶代わりか頭を下げて足早に階段を駆け下りていった。
その間も、密かに視線が向けられている気配がする。
グレアムは肩を竦めた。自分は彼を知らないが、彼はこちらを知っているらしい。しかも悪い印象を受けているようだ。
他人の評判は気にするほうではなかったが、悪評を立てられているのだと思うと、憂鬱になる。
目的を思い出し、気を取り直して目的の書架へ行く。
題名からそれらしいものをいくつか抜き出して、閲覧用の区画まで持っていった。窓際の席を選び、雪に埋もれかけた銀杏の木を見下ろしたあと、椅子に座ってぱらぱらとページを捲った。魔力の減少についての記述は何個か見つかるが、いずれもグレアムに心当たりはない。
持ってきた最後の本を閉じ、山の上に置いて、椅子の背もたれに寄りかかる。収穫はなしだ。やはり気の所為だったのか、と釈然としない答えを受け入れようかと考える。
空いた手は自然、胸ポケットに向かった。懐中時計を取り出して、文字盤の隙間から見えるテンプの軸を見る。
――ジュディは、元気だろうか。
グレアムは、彼女の贈り物であるこの蓋のない懐中時計を手放せずにいた。自分の趣味に適った品である所為なのか、執着心のようなものが芽生えているのだ。
そして時折こうして眺めては、ジュディスを思い出す。
テンプの軸に使われた小さなルビーの赤色が、グレアムの胸の奥からなにかを湧き上がらせようとしていた。
と。
「先輩……?」
人目を憚るようなか細い声が、記憶を掘り返すのを中断させる。目を向けたそこには、窓から入る光を避けるように書棚に寄り添う小さな影があった。
「ロージー……?」
年明け早々、まだ休みが終わっていないこの時期に、帰省したはずの彼女がここに居ることを怪訝に思いながら名を呼ぶと、ロージーは泣き笑いのような表情を浮かべ、琥珀色を翳らせながらグレアムを見上げた。
助けを求められているような気がして、グレアムは人気のない書架の奥にロージーを誘った。隠れるようにひっそりと設置された席にロージーを座らせる。
「少し
自分の様子に気付かれないと思ったのか、ロージーは一度目を瞠り、それからばつが悪そうに俯いた。
「そうかもしれません……。休みの間に、いろいろありすぎて」
か細い声で答える彼女は、以前のような明朗とした力強さが失せていた。口元は笑みを浮かべているものの、陰った場所でも眩かった琥珀の瞳は暗く、如何なる動作一つ一つが鈍くなっている。すっかり弱りきったロージーの姿に、グレアムはただ呆気にとられた。
社交に出ることを控えろ、と父から命令された年末。しかし、グレアムとは正反対に、彼女は父親にあちこち引っ張り回されたらしい。そこではさぞかし注目され、嘲笑に晒されたことだろう。自業自得と言われても仕方がないのは重々承知しているが、果たしてそこまでして恥を掻きに行く必要があるのだろうか。
容赦ない人だ、とキャラハン現当主に対して苦々しい想いを抱かずにはいられない。そして、そこで受けてきたロージーの苦痛を思うと、やりきれない気持ちになる。
グレアムの同情した様子に気付いたロージーは、胸の前で両の手の拳を握り、身を乗り出した。
「大丈夫です! もう終わったことですから。また今日から勉強に集中すれば、きっと忘れます!」
以前のような明るさを装った声が、書棚に囲まれた寂しい一角で虚しく響く。グレアムは海色の目を眇めた。この学校でさえ、ロージーを醜聞から解放してくれないというのに。どうして彼女はここまで健気に振る舞うのだろうか。
あまりに彼女が心配になり、ついそんな言葉を掛けてしまう。
「無理はするな」
は、と息を呑んだロージーは、丸々とした目でグレアムのことをまじまじと見つめ、やがて瞳を伏せて小さく頷いた。
「……はい」
そして彼女は俯くと、ぎゅっと目を瞑った。その目端に光るものが浮かび、グレアムの胸は締め付けられた。
「じゃあ、たまに……たまにでいいんです。内緒で、私の話を聴いてくれませんか?」
もう他に味方がいなくて辛いのだ、とロージーは涙声で訴えた。
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