赤差す記憶(※残酷描写有)

「私たちが結婚するときになったら、ここでプロポーズ、して?」


 我ながら夢見がちなお願いだ、と今なら思う。彼もきっと呆れたことだろう。だけど、優しい彼は恥ずかしがりながらも頷いてくれた。それが、なによりも嬉しかった。

 だけど。

 幼い少女の黄色い夢のひとときは、いとも容易く打ち破られた。

 花の蔭から飛び出した存在によって。


 おそらく、花の背丈が高かったことが、ジュディスたちだけでなく、離れたところにいた大人たちも気づかなかった理由だろう。

 大きな蜥蜴の魔物――〈竜の尾ドラゴンテール〉と呼ばれるそれは、ジュディスたちにしてみれば、突然草根を掻き分けて目の前に現れたとしか言いようがない。

 ジュディスの頭よりも少し低いところにあった頭。

 しかし、ずらりと三列に並んだ歯を見せつけるように開かれた口は、子どもの頭を容易に丸呑みできるほどに大きかった。


「……ジュディス!」


 ジュディスよりも早く我に返ったグレアムは、呆然としていたジュディスの手を引っ張り、弾かれたように魔物に背を向けて走り出した。傾いだ身体に転びそうになりながら、ジュディスはグレアムに引かれるがまま足を動かした。

 走っているうちに状況が飲み込めてきて、じわじわとジュディスの背に恐怖が這い上がった。ちらりと後ろを振り返ってみると、蜥蜴の魔物はうねうねと躰を左右に揺らしながら、硬そうな土色の足を素早く這わせてジュディスたちを追いかけていた。


「ひ……っ」


 がたがたと震える歯の隙間から、悲鳴が漏れる。


「前見ろ!」


 叱咤するグレアムの声。言われずとも、一度目を離してしまうと背後を振り返る気にはとてもなれなかった。

 グレアムが大声で大人を呼ぶ。しかし、丈のある花の所為で、大人たちが反応してくれているか分からない。

 いつ助かるのか。そもそも本当に助かるのか。不安が大きく渦巻いたまま走った。背後の足音がだんだん大きくなる。

 ――もう駄目かも……。

 そう思ったところで、日頃走るのに慣れていなかったジュディスは、足をもつれさせた。花の茎と柳のような葉に頬を叩かれながら、乾いた土の上に倒れ込む。

 少し先で、ジュディスの手が離れたことに気がついたグレアムが振り返る。


「立って!」


 その声に悲鳴が混じっていたからか、ジュディスは脅威を確認せんと背後を振り返ってしまった。ジュディスの足元にまで迫った大蜥蜴が口を開ける。陽光に黄ばんだ歯がぎらりと輝いた。


「来ないでえぇぇぇっ!!」


 子ども心に無意味と知りつつも、叫ばずにいられなかったジュディスの声に応えて。

 目の前の魔物が、腹のあたりから風船のように膨らんで――内側から弾けた。

 温かく生臭い液体が、ジュディスの頭から降り注ぐ。


「え……」


 ジュディスは両腕を持ち上げた。真っ赤になった両腕。身体を見回せば、上半身はほぼ赤く染まっている。

 そして、ジュディスの足元から放射状に拡がった赤い血溜まり。ところどころ散らばっているものがなんなのか判ったとき、ジュディスの身体に震えが走った。


 なにが起きたか、分からない。

 けれど、これは――ジュディスがやった。

 魔物を殺した。見るも無惨なやり方で。


「あ……あぁ……」


 その後のことは、分からない。頭の中が真っ白になって、吐き気や息苦しさを感じて、身体の内側からなにかが膨れ上がるような感じがして、とにかく苦しかった。途中、誰かの体温を感じたり、切羽詰まった声を聴いたりしたような気がしたが、頭の中がぐるぐると掻き混ぜられて、外のことなどなに一つ判別することができなかった。

 その中で、べっとりと赤い色がジュディスの脳裏に貼り付いていた。


 ――そして。


「おやすみ、ジュディ」


 柔らかい父の声を聴いて、暗転。

 次に気がついたとき、ジュディスはカンテの宿にいて、心配そうにしていた家族に囲まれていた。



  * * *



「……どうして?」


 頭が割れそうなほどの頭痛と、喉の奥に大きな塊がつっかえているような吐き気に苛まれながら、床の上に蹲ったジュディスは姉を見上げた。いつの間にか宵闇が部屋の中に侵入してきており、サブリナの浅葱色のドレスだけが浮かび上がって見える。

 藍色の髪に縁取られた表情は、見ることができなかった。


「あの日、貴女は、辺り一帯の草花を薙ぎ倒し、地面を抉るほどの魔力を暴走させた。むりやり眠らせても、起きたら暴走の繰り返し。しばらく誰も止められなかったわ。そのうちに貴女はみるみる弱っていって……命の危機にまで頻したの」


 ジュディスは胸の上の布を掴む。暴走こそしていないものの、今もこの身体のうちで魔力が激しく渦巻いていた。蘇った記憶の内容にジュディスが動揺した所為だ。サブリナが前もって警告してくれていなければ、そのときと同じように暴発していたかもしれない。


「グレアムから話を聴いた父様は、貴女が魔物を殺してしまったことが原因だと考えた。だから、魔物に襲われたときの記憶を思い出すことがないように魔法をかけた」


 その魔法については、聴いたことがあった。一度刻み込まれてしまった記憶は、容易に消すことなどできない。しかし、その記憶を思い出させまいとすることなら魔法でできる、と。

 父はジュディスに想起阻害の魔法を施したのだ。


「あのあと、私ははしゃぎ疲れて倒れたのだと思ってた」


 あの日、気がついたらベッドの上だった。これまで幾度となくその経験があったジュディスは、記憶の喪失をそのように結論づけていた。

 そして、家族もまたそれを利用した。


「そう口裏を合わせたからね。みんなで」

「みんな……」


 それはおそらく、家族だけではない。アクトンの一家もまた、協力してくれていたということだろう。


「……グレアムは?」

「一部始終見ていたそうよ。それでも必死に、恐慌状態の貴女を宥めようとしてくれた。本当は、ジュディと一緒に彼の記憶も消そうとしていたの。でも――」


 断ったのだ、という。

 魔物とはいえ、あまりに無惨な散り方だった。グレアムもジュディスほどではないが血糊も被っていて、子ども心にトラウマになるはずだ。そう心配した大人たちであったが、グレアムは固辞したのだそうだ。


「じゃあ、グレアムは、全部知っていて、私との婚約を続けていたというの? レイモンド様も、グレイシア様も、私が、あんな化物だと知っていて、それでも……っ」

「ジュディス!」


 ジュディスの言葉を遮り、サブリナが抱きついた。浅葱色の柔らかく繊細なドレスに皺が付くのも構わずに、強く強くジュディスを掻き抱く。ほつれ毛がジュディスの頬をくすぐった。


「化物だなんて……言わないで」


 絞り出すような声が信じられなくて、ジュディスは目を瞠る。


「けれど、姉様だって、私のこと怖かったんでしょう?」

「怖かったわ。恐ろしかった。……でも、貴女は家族だから。私の可愛い妹だから」


 ぐ、と唇を噛む。嘘だ、と叫びたかった。だが、姉から滲む柔らかい体温が、触れ合っている距離が、どうしてもその言葉を口にすることができない。もし口にしたら、姉のほうも自分のほうも、きっとなにかが瓦解する。

 ――これが、家族ということだろうか。

 嘘でも、強がりでも、姉は自分を抱きしめてくれた。その温かさに身を委ねる。自分はどれほど家族という存在に救われたことだろう。目を閉じて、家族に対して込み上げてくる様々な想いを嚥下した。

 そして――


「でも、グレアムは違うわ」


 ジュディスは姉から身を引いた。

 愛しいあの人のことを振り返って、またしても絶望した。

 グレアムは、家族ではなかった。まだよく知らない男の子でしかなかった。それなのに、ジュディスとずっと一緒にいてくれて、婚約者として接してくれた。


「私、なにも知らなかった。グレアムがなんで必死に頑張っていたのか。私が……私の所為だったなんて……っ!」


『ジュディを魔物から遠ざけられるというのなら、それで良い』


 その言葉の意味が、いま解った。


「それなのに、私は我儘ばっかり! 病気であることを理由にして、自分のことばかり考えて――これじゃあ、グレアムに嫌われたっておかしくないっ!」


 彼がロザンナのことを気に入るはずだ。可愛くて、熱心で、教え甲斐がある後輩。一方、自分はどうだ。婚約者であることに甘えて、怠けて、足を引っ張って。きっとグレアムを苛立たせていた。ありったけの優しさの裏には、きっと不満がたくさんあったに違いない。


「ジュディ、彼は貴女のことを嫌ったわけじゃないわ。私たちが勝手に――」

「だとしてももう、グレアムと一緒に居られない! 本当に兄様たちの所為だったとしても、今更どんな顔して彼に会えばいいというの!」


 叫んで、気がついた。叶わない夢だと言い聞かせて置きながら、自分はまだグレアムとの結婚を諦めきれていなかったことに。

 ロデリックの側室になるのに猶予を設けたのも、あわよくばグレアムとのりを戻す気で――戻せる気でいたのだ。

 ぐらり、とジュディスの視界が揺れる。ベッドまで後退して、ミント色の布団の上に座り込んだ。

 頭痛がする。吐き気がする。具合の悪さだけではない。自らへの嫌悪感に対する反応だ。

 なんて幼稚で、蒙昧で、身勝手なのか。後悔がひしひしと押し寄せる。


「……ごめんなさい、一人にして」


 具合を悪くしたと思ったサブリナがジュディスに駆け寄ろうとしたのを、手を上げて拒絶する。


「でも、ジュディ――」

「お願い。一人になりたいの」


 このままでは、また家族に甘えてしまい、全部なかったことにしてしまう。そう思ったジュディスは、精一杯優しい姉から距離を取る。


「具合は、大丈夫だから」


 そう言いつつ頭を押さえたままのジュディスを姉は心配そうに見ていたが、頑なな様子に折れてくれたのだろう。なにかあったら呼べ、と言い残して、暗い部屋の中から出ていった。

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