独り善がりでも

 身のうちに巣食った負の感情に耐えきれなくなって、邸を飛び出したのは、日が暮れて辺りが暗くなった頃だった。南に差し掛かる半月の光を頼りに、綺麗に整備された道を走る。夏も目前に迫っているが、夜の空気はまだひんやりと冷たい。涼やかな空気を吸い込んでいるうちに、過熱気味の頭もいくばくか冷えてきた。


 息切れを起こした頃に辿り着いたのは、あの噴水のある広場だった。月明かりを反射した清水が、辺りを幻想的に見せている。

 ジュディスはその縁に腰掛けると、なにとなしに水面を覗き込んだ。その水鏡に映った姿に嗤う。灰猫の姿だった。蘇った記憶と自分への嫌悪感にいっぱいいっぱいだと思っていたが、思っていたよりも冷静だったようだ。猫の姿に化けて、誰かに見咎められないようにするだけの判断力は残っていたわけだ。それを知ってしまうと、自分のこの苦しさも、悲劇に酔っているだけのものに思えてしまう。

 一つため息を落とす。水を叩く音に耳を澄ませていると、昂ぶっていた気持ちがだんだんと落ち着いてきた。

 そうすると、思い浮かぶのは、グレアムのこと。

 自分はこれまで、いったいどれほどの重荷をグレアム一人に背負わせていたのだろう。魔力の受け渡しのこと然り、〈氾濫フラッド〉のこと然り。特に後者は、子どもが独りで抱え込むにはあまりに凄惨な出来事だ。せめて自分が一緒に共有していられれば良かったのに。


 すべてを思い出した現在、どうにかしてグレアムに報いたい、とジュディスは思う。まだ婚約者で居られたのなら、将来の妻として彼を支えることができただろう。だが、婚約を解消した現在では、それは叶わない。まさかそのためだけに復縁するわけにもいかないし。サブリナの言う通り、これ以上グレアムを振り回すことなどできない。


 脚先で水面を弾く。歪んだ水鏡に映るのは、人間よりも無力な猫の姿。この姿でできることなど、ただの一つも――


 サリックスに楽しげに話しかけるグレアムの顔が、頭をよぎった。


 婚約者ジュディスが駄目なら、サリックスでは? 誰かがジュディスの耳もとで囁く。愛玩動物としてなら、傍にいられる。彼の弱音の捌け口となって、彼を支えることができる。

 それは、人間としての自由を失うことにはなるけれど。

 それでも構わない、とジュディスは思ってしまった。月の魔力が正常な判断力を失わせてしまったのだろうか。一度閃いてしまうと、それが名案のように思えてしまって、他の案を考える気にすらなれなくなった。



 だが、その案を実行に移すなら、少なくともこれだけは、はっきりとさせておかないといけないことがある。



「ねえ、お兄様。ロデリック殿下のことなのだけれど」


 翌朝。貴族のものにしてはこぢんまりとした食堂で、並べられた朝食を前にそう切り出したジュディスに、ディックは表情を曇らせた。なんとなく良い話でないことを察したのだろう。妹を特に溺愛する兄だが、それだけにジュディスの微妙な変化にはよく気付く。


「側室の話……断ったほうが良いと思うの」


 グレアムのことももちろんあるが、感情を昂ぶらせただけで、簡単に生き物を殺せるような魔力暴走を引き起こすような人間が、宮殿に居て良いものなのか、疑問だった。


「〈氾濫フラッド〉のときのことを心配しているんだろう?」


 兄は溜め息を一つ吐くと、食べかけなのに関わらず手にしていたカトラリーを皿の上に置いた。白いテーブルクロスの上に肘を乗せて腕を組むと、向かいのジュディスを見つめる。ジュディスが真実を思い出したことを知って気を揉んだのか、その顔には疲れが浮かんでいた。


「まず最初に言っておくよ。殿下は、そのことをご存じだ」


 両手を膝の上に置いたジュディスは、少しだけ目を見開いた。


「魔法師院の理事だもの、知らないはずがないよ。魔法師院は魔法の才を持つ者を把握しているんだ。ジュディスみたいな大きな事故が起きたら当然魔法師院に報告されるし、当然理事にもその話は行くよ」

「ああ……そうか。そうね」


 相槌を打ちながら、内心自嘲した。つまり、ジュディス一人だけが本当のことを知らなかったのだ。周囲からそこまでして守られて、なにも気づかなかった自分に嫌気が差す。


「その上で、殿下はあの話を勧めてくれたんだ。僕と父上も確認したよ? だけど、それでも、と殿下はおっしゃってくれたんだ」

「だから……お断りしなくても良い、って?」

「すぐに決断することはない、って言っているんだよ。少なくとも二年の猶予はあるんだ。その間にどうしたいかを考えれば良い」


 ジュディスは視線を手元に落として考えた。これから使用としていることで、家族に迷惑をかけることは避けられない。それでもせめてロデリックのことについては、曖昧にしておくのは良くないだろうと思って、兄に相談したのだが。


「兄様は……グレアムのこと、後悔しているのではなかったの?」


 ふと口にした疑問に、ディックの表情が凍りつく。

 嫌な質問をしてしまったとジュディスは思う。だが、そもそも長すぎた婚約期間が、グレアムとジュディスの間に生まれた齟齬を大きくしてしまったのだ。ロデリックともまた同じようにならないとは限らない。

 そうしたらもう、次は取り返しがつかないように思う。ジュディスの令嬢としての価値に傷を増やすことになるだろうし、王族とことを構えてウェルシュ家との間にわだかまりを作る可能性も出てくる。そうすると、必要以上にウェルシュ家の立場を悪くすることになりかねない、とジュディスは思うのだが。


「しているさ。だからこそできるだけ、可能性を残しておきたいんだよ」


 真意が分からず、ジュディスは眉を顰めた。


「ジュディのことを知って受け入れてくれる人に、ジュディを預けたい。少しでも幸福に……生きてもらいたいんだ」


 家のことは考えなくてもいい。政治的なことはこちらでなんとかする。だから自分のことだけを考えてくれればいい。兄はそう、言葉を積み重ねていく。


「もちろん、殿下が渋るようなら、お断りはするよ」


 でもご厚意があるうちは甘えておけ、と兄は言う。


「……分かった。とりあえず、お話はまだお断りしないでおく」


 すぐに選べないことは、ロデリックには失礼かもしれないが、ジュディスとしては選択肢が残されていたほうが良いのも確かだ。意地を張っても仕方がない気がして、ここは兄の提案通り甘えておくことにした。


「でもね、兄様。私、思い出したからには、きっと安穏には生きていられないと思う」


 ロデリックから側室の話を聴いたとき、子どもを産んで、あとは宮殿の奥でただ楽器を弾いて過ごせるならば、それも良いかもしれない、というぬるい考えを抱いたことは確かにあった。

 でも今は、ジュディスが安穏と王宮で過ごしている間に誰かが魔物と戦っているかもしれないことを思うと、そうすることに拒絶感を覚える。

 しかも、それがジュディスから魔物を遠ざけるためだとしたら?

 グレアムが前線に出るのだとしても、ロデリックが知らない誰かに命じるのだとしても、その事実を甘んじて受け入れて呑気に生きていくことはもうできそうにない。

 だから、とりあえずしばらくは、ジュディスのために戦おうとするグレアムを守ろうとそう決めた。

 たとえそれが、独り善がりに過ぎなかったとしても。


「それこそジュディ、誰も望んでいないことだよ」


 ジュディスの決意表明になにを思ったのか。再びカトラリーを手にした兄の表情は、暗かった。

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