提案

 いよいよ夏本番も間近に迫った頃、グレアムは残り少ない学校生活を少しばかり持て余していた。卒業考査をすべてこなしてその後は、部屋を片付け寮を出ていく準備をする以外にすべきことはほとんどなく、しかしまだ在籍扱いなため、学生としての行動は心掛けることは課されている状態。中途半端な長さの鎖に繋がれて、好きにして良い、と言われても、やることがないのだから、結局無為に時間を潰すほかない。

 あまりの停滞ぶりに淀んでしまいそうなその時間を、図書館で過ごすことに決めたのは、三日前のこと。希望する任地の魔の森について、知識を深めておこうと思い至ったわけだ。


 魔の森。正式には〝ティエーラ樹海〟という名称がある。

 アメラスの北西にあるその場所は、一部を除いて円状の山脈に囲まれているという。俯瞰すると、火山活動による窪地カルデラがそのまま森になったように見えるそうだが、そこから噴火した形跡――火山灰や溶岩石などはないので、火山ではなく別の理由で形成されたものだというのが一般的な認識だそうだ。つまり原因不明である。

 さて、その窪地にはかつて文明があったという。森林内でところどころ、建造物と思われるものが発見されているそうだ。だが、今はもう魔物の巣窟。森林内では、人間が住むどころか一時的な滞在さえも困難を極め、アメラスでは〈氾濫フラッド〉以降に森の境界に建造されたフレアリート砦に兵が駐在するのみだという。その砦こそグレアムが目指す場所だ。

 フレアリート砦の建造目的は、〈氾濫フラッド〉の再発阻止。まさに〈氾濫フラッド〉について知るにはうってつけの場所である。

 しかも、ここ最近、魔の森の魔物たちの行動が活発化しれいると、彼の砦から報告されているのだという。〈氾濫フラッド〉の予兆ではないかというのが、新聞各紙が無責任に騒ぎ立てている内容。公式な見解はまだない。


「渡りに船、なのかもしれないな」


 ゆくゆく困った事態に発展するかもしれないが、〈氾濫フラッド〉の原因が特定できるかもしれないと思えば、グレアム個人にとってはそう悪い状況でもない。


 古い新聞を丁寧に折りたたみ、記録保管庫アーカイブに返却する。薄暗いところで細かい字を読んでいたため、目の奥が痛くなっている。調べ物は切り上げて、図書館の外に出る。

 冷涼な空気になれたグレアムの身体を、夏の日光が襲った。右のこめかみを炙る熱にうんざりしつつ、並木道を足早に行く。生温い風に早くも汗が浮かぶのを感じながら、ふと傍らに目を向けると、最近見ることがなかったあの灰猫がいた。

 頬が緩むのを抑えられず、いつものベンチに向かって声を飛ばす。


「サリックス。良かった。今日は来たんだな」


 サリックスは耳と尾をピンと立ててこちらを向いた。ジュディスによく似た翠色の瞳が、またグレアムの胸を弾ませる。


「ここのところ見ていなかったから、どうしたのかと思っていた」


 最後に姿を見て、三週間ほどだろうか。急に来なくなったものだから、何処かの馬車に跳ねられたり、野垂れ死んでいたりしないかと心配になったものだが、こうして五体満足な様子が見られて胸を撫で下ろす。

 すっかりこの猫に入れ込んでいる自分に苦笑しながら、ベンチに腰を下ろした。左の端のほうに行けば、なんとか木陰に入ることができた。ほんの少し涼しくなった空気にほっとしつつ、シャツの胸元を掴んで揺さぶり風を送る。


「……論文。先週提出したよ」


 胸の表面に浮かんだ汗が冷えてきた頃、グレアムはおもむろに口を開いた。


「これで卒業要件は揃った。秋からは、晴れて魔法師兵だ」


 相談役の講師の見立て通り、課題は残しつつも筋の通った内容に、試験官からの好評を得られたそうだ。知識試験は言わずもがな、模擬戦での活躍も評価され、自分が予想していたよりもずっと好成績を残すことができた。

 日頃の努力が実ったのを知った瞬間、さすがのグレアムも心が浮かれた。今にして思うと、はしゃがんばかりに舞い上がっていたように思う。猫とはいえサリックスにその姿を見られなかった点だけは、彼女の不在で安心した部分だ。


「魔の森に行くことも、ほぼ確定だそうだ」


 もともと希望者は少ないからな、と付け加える。魔の森は魔物の棲家、過酷の地だ。いくら兵士を目指しているからといって、普通は好き好んで死と隣合わせの任地を選びはしない。


「……それで、だな……」


 前々から思っていたことを口にしようとした瞬間、声が喉に絡んだ。姿勢を正し、両膝の上で握りしめた拳。手の中が汗で湿る。


「卒業したら、会えなくなるだろう? だから、その……俺と一緒に来ないか?」


 情けない話だが、今のグレアムが心を打ち明けられるのは、この小さな生き物だけだ。口数が多いほうだと思っていなかったが、彼女に対しては口が軽くなる。おそらく話し相手に飢えているのだ。


「お前は野良のようだし、もし俺といるのが嫌ではなかったら、だが」


 慌てたように次々と言葉を連ねているのに気づき、グレアムは密かに自分を恥じた。相手は猫。何故そこまで緊張する必要があるのだろうか。言葉喋らぬ動物に話しかけることさえも、今更のことだというのに。

 だが、この翠の瞳に真っ直ぐ見つめられると、平静ではいられなくなる。


「……良いだろうか」


 気後れしてはいけない、と真っ直ぐにサリックスの眼を見つめる。彼女もまた見返してくる。猫の目は見つめ続けてはいけないのだったか。何処かで聴いた知識が頭に浮かぶが、吸い込まれてしまったかように視線を動かすことができない。


 視線を逸らしたのは、どちらが先だったか。


 サリックスはベンチに身を伏せて、寛いだような体勢を取った。尻尾が一振り揺れる。

 まるで人の言葉を理解して、許してくれたような仕草。グレアムは躊躇いつつ、柳葉模様の身体に手を伸ばした。

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