第五章 森魔、洗礼す

ここは魔の森

 どさ、と人が地面の上に倒れる音が隣から聞こえた。深海色の視線を横に飛ばしてみれば、案の定腐葉土の上に大の字になった男が見える。自称グレアムよりも一つ年上だというその男は、「あああああ~」と叫びながら癇癪を起した幼子のように両手足をバタつかせ、やがてばたりと動きを止めた。


「つっかれたぁ!」


 グレアムは呆れと安堵の混じった溜め息を吐くと、自らも杖を放り出し、地面に尻餅をついて座り込んだ。こちらも腐葉土の上。梢の所為で陽光が遮られ鬱蒼とした森の中では、雑草はむしろ生えにくい。湿った土に早くもくたびれた新品の葡萄酒ワイン色のローブが汚れるが、そんなことに構う余裕がないほど心身は疲れ切っていた。


「グレアムぅ、無事かぁ?」


 こちらに足を向けて大の字に倒れた男の辺りから、よく通る陽の気を持つ声が飛ぶ。見れば、その男はいつの間にか上半身を起こし、両手を後ろについて空を仰いでいた。その灰色の目に映るのは陰が濃い所為で黒く見える枝葉だけだろうに。この森の中では、晴れているのか薄曇りなのかも判りはしない。


「……怪我は、ない」

「そりゃ結構なことだなぁ。俺はかすり傷だらけだよ」


 皮肉気な台詞内容と裏腹に明るく晴れやかな声に、グレアムは自責の念を覚えた。


「すまない、トラヴィス。俺には……」

「治せないんだろ、知ってるよ。つーか、かすり傷ごときで不要だし、マシューもいるし」


 からからと笑った後、男――トラヴィスは、首を左へと回した。


「で、そのマシューは? 無事か?」

「僕も大丈夫……」


 疲れが混じって弱々しい声は、吊り上がった大きな藍柱石アクアマリンの瞳に、頬にそばかすの浮いた黒髪の青年から上がった。彼が身に纏うには、グレアムと同じ葡萄酒色のローブで、グレアムと同じ魔法師兵であることが窺える。ただし、それなりに身体を鍛えてきたグレアムとは違い、彼――マシューの身体つきは細い。研究室に籠っているほうが似合いの青年だった。


「そりゃ良かった。魔の森に配属された第五期兵は全員無事ってこったな」

「それにしても……」


 大きく溜め息を吐きながら、トラヴィスはようやく周囲に目を向けた。


「よくもまあ生き残れたよな、俺ら」


 うんざりした様子で、グレアムは頷いた。


 薄暗い緑陰の下。背丈くらいの高さの崖の下に、グレアムたち三人はいる。崖の上には、アーチが連なった橋のような建造物が朽ちたものが遺っていて、噂通りかつてこの森に文明があったことが判る。

 そして、地面に座り込むグレアム、トラヴィス、マシューの周囲には、犬とも魚とも判別の付かない魔物の死体が転がっていた。

 その数は五。

 大きさは中型犬くらいだが、白い四肢には鋭い鉤のような爪がそれぞれ三本生えている。魚のような頭蓋の癖に、口からは立派な犬歯がはみ出しており、尾びれのような尻尾は針山のように硬質な刺で覆われていた。

 ここまで凶器を見せびらかしてくると、もはや躰の大きさなど問題にならない。かすっただけで出血し、まともに食らえば致命傷。これら五体に囲まれて、たった三人の新兵が無事だったのだから、自分たちも少しは凄いのだ、と思いたい。

 思っていないと、やっていけない。


「俺らってわりと、相性良いんじゃね?」


 乾いた笑い声混じりにトラヴィスが茶化したが、グレアムとマシューは沈黙で以って応えた。出逢ってまだ一月。グレアムたちはまだ、互いに〝気心が知れた仲〟とは言い難く、また、そんな冗談を笑い飛ばせるほどの心の余裕が今はない。

 トラヴィスの笑い声が止まった。


「お前ら、つれないな……。仲良くしようぜー?」


 グレアムの眉間に皺が寄った。不快、なのではなくて、困ってしまった。それはマシューも同じようで、彼も眉間に皺が寄っている。それを知って、ますます気まずくなる。

 トラヴィスのほうから、また一つ息を吐く音が聴こえた。打ち解けようとしないグレアムたちに、彼も困り果ててしまったようだ。


 ――と。


 かさり、と近くの茂みから音がした。

 反射的に、地面の杖に手が伸びる。腰を浮かせ、片膝を立てて、音のしたほうを睨んだ。

 トラヴィスは立ち上がりこそしなかったが、背筋がぴんと伸びている。砕けた雰囲気も鳴りを潜め、目を見開き、耳を聳てていた。マシューもまた、杖を両手で握りしめ、固唾を飲んでせわしなく周囲に視線を走らせていた。

 風もないのに、森が騒めいている。

 耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな音が、だんだんこちらへ迫ってくる。グレアムは、杖を強く握りしめつつも、一歩たりとも動かなかった。逃げる必要はない。その正体は知っている。だが決して、歓迎できるものでもない――。


 近くの茂みが大きく揺れた。飛び出たのは、蔦だ。意志でもあるかのように、蛇のように地面を這いずっていた。

 同じような蔦が、また次から次へとあちこちの茂みから這い出てくる。

 地面を這う蔦は、生きているグレアムたちを素通りし、魔物の死体に群がった。四肢に、首に、胴体に自身を絡み付かせると、まるで示し合わせたように死体を茂みの向こうへと引っ張り込んだ。

 ずる、ずる、と重い物が引きずられる音が、森の奥へと消えていく。

 後に残ったのは、茂みの向こうへと続いていく血の帯が五体分。


 ここは魔の森ティエーラ。アメラスの国の北西部を侵食せんとする魔境の地。

 ここで命果てたものは、森に取り込まれ、森となる。


「……あのあと、あれってどうなると思う?」


 森の奥に人差し指を向けて、トラヴィスはグレアムとマシューに尋ねた。グレアムはもう一度地面に腰を下ろして、瞼を伏せた。緊張が解け、身体の力が抜けた。それでも総毛立つような気味の悪さが、グレアムの中に居残っている。


「さあ……考えたくないな」


 杖を抱え込んだまましゃがみ込んだマシューも、頷いた。

 ばたり、とトラヴィスは地面へと倒れ込んだ。鬱蒼とした空を見上げ、森を刺激しないよう声を押さえながらも、叫ぶ。


「新入りには、これはキチぃって!」


 グレアムたちの背後、南東の方角に徒歩三十分ほどの距離にある砦には、トラヴィスの抗議の声は届かない。

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