ほんとうにこれでさよなら

「……大丈夫か?」

「なにがですか」


 ベッドで上半身を起こしたロージーは、つっけんどんに応えた。ジャケットを脱いだ制服姿でベッドに入る彼女は、グレアムが来てからというもの、隣のベッドとを仕切るクリーム色のカーテンを睨んで、ずっとグレアムから顔を背けていた。


 グレアムがロージーを訪ねられるようになったのは、日がだいぶ傾いた頃だった。昼頃に保健室で目が覚めた彼女は、保健医の立ち会いのもとで講師陣から事情を訊かれ、その後もこの場所で休息を取っていたという。

 ロージーが魔力を暴走させた原因に心当たりがあったグレアムは、どうにか早いうちに面会できないか、と保険医に頼み込んだ。少しの間なら、と許可を受けて、こうしてグレアムはロージーと一月ぶりに対面することができたわけだが。

 フリンの言う通り、彼女は本当に限界だったのだろう。さっきから荒んだ空気がずっと彼女を取り巻いている。


「魔法を暴発させたことなら、見ての通り、こうして無事です」


 一度に大量の魔力を扱ったことで倒れはしたものの、ロージーは無傷だった。周囲が草ばかりの場所だったこと、魔力の暴走が水の魔法として現れていたことが、その小さな幸運を招き入れたらしい。

 だが、下ろしたままで絡んだ栗色の髪や精彩を欠いた声から、彼女が如何に心をすり減らしてきたか、その一側面が読み取れた。憐れに思う。申し訳なさをも抱く。それでも――


「どうして来たんですか。期待には応えられないんでしょう? それとも、気が変わりました?」

「いいや」


 責めるような問いかけに、グレアムは首を振る。


「だが、君がこうなったのには、俺にも責任があると考えた」

「責任……?」


 ロージーが一瞬だけこちらを窺った。すぐにまた明後日の方向を見てしまったが、グレアムは彼女の瞳に剣呑な光が宿っているのを確かに見た。


「じゃあ、責任取ってください。わたしと結婚してください」


 あまりに投げやりだった。彼女が自暴自棄になっているのは自分の所為だと自覚があるだけに、聴いているだけで申し訳なさに押し潰されそうになる。


「すまない。できない」


 それでもなお、拒絶するしかないグレアムに、とうとうロージーがこちらを向いた。かつて健康的で薔薇色だった頬は、今は青白くなっていて、みずみずしかったさくらんぼ色の唇は、皮膚が硬くなり白く割れていた。

 あまりの変わりように胸が痛む。自分がもっと早く曖昧な態度を改めていれば良かったのだろうか。


「どうして……?」


 ロージーは唇を震わせた。


「どうしてですか。ご両親に止められたからですか。愛情がないからですか」


 ベッドに乱暴に手を付いて、グレアムのほうに身を乗り出す。生気を失った顔の中で、唯一琥珀色の瞳だけがぎらぎらと不穏な輝きを宿していた。


「ご両親なら、一緒に説得します。愛がないというのなら、それでも構いません。だから、お願い! どうかわたしを、助けてくださいっ!」


 懇願する声に、次第に悲鳴が混じっていった。あまりに痛切なロージーの様子が、グレアムの心に鋭く突き刺さる。


「もう……もう、先輩しかいないんです! 先輩しか、わたしのこときちんと見てくれる人……いないんです」


 だからお願い。そう言って、ロージーは崩れ落ちる。白いシーツに散らばった栗色の髪を見下ろしながら、それでもグレアムは、毅然として彼女の懇願を振り払う。


「君を助ける方法が婚約だというのなら……すまない、やはりそれはできない。俺と結婚しても、君はきっと幸せになれない。……たぶん俺には、できない」


 ジュディスとの婚約が解消された後のこと。キャラハン家との婚約の噂が広まる中で、一度はロージーとの結婚を想像したことがある。伯爵家を継いで領地経営に励む自分。その傍らに立つロージー。髪を結い上げ、綺麗な服を纏って立つロージーは、グレアムに微笑みを浮かべていて――だが、その先が思い浮かばなかった。

 ジュディスのときは違った。自由な彼女に振り回され、家の中を探し回る日々。だが、ときにお茶をして、お互いのことを話しながら穏やかなときを過ごしたり。それは、この学校での生活と地続きの空想でしかなかったのかもしれないが、グレアムにとっては悪い気のしない、明確に想い描けた未来だった。

 ロージーとの将来には、それがない。その意味を、グレアムは深く考えた。


「きっと上辺だけの生活になる。そんなものでは、君を真に救うことなんてできない」


 確かに婚約を結べば、ロージーを現在の境遇から引き離すことはできるかもしれない。だが、それは一時的な処置だ。キャラハンから引き離すだけに過ぎず、きっといつか同じことを繰り返す。

 家族にも友人にも恵まれなかったロージーが本当に欲しているものがなんなのか、今のグレアムには想像がついていた。温もりだ。自分自身だけを見つめてくれる眼差しが欲しいのだ。愛がなくても、などという言葉は、自身への詭弁に過ぎないはず。

 だが、グレアムにはそれをロージーに与えることができない。現在のグレアムの意識は、過去の約束を思い出したあの日から、ジュディスただ一人に向かっているのだから。


「俺は今、君に、同情しか抱いていないんだ。だから――」


 君と結婚はできない。その言葉が重く二人の間に落とされる。

 身体を起こしてもなお俯くロージーの顔から視線を逸らした先で、彼女の小さな手が白いシーツを固く握りしめているのが見えた。


「一つ、聞かせてください」


 明瞭として落ち着いた、普段に近いロージーの声。視線を上げれば、先程の荒んだ様子とは違う、真っ直ぐで澄んだ琥珀色の眼がグレアムを見つめていた。


「ジュディさんのこと、どう思っていますか」


 誤魔化すことなど赦されない。神の審判にも等しい問いに、グレアムは粛々と答えを口にした。


「たとえ俺のもとに戻ってこなくても、守りたい〝特別〟な存在だ」


 ジュディスがいたから、今のグレアムがある。彼女の存在なしに、自分自身は語れない。彼女への想いも後悔も昇華できない現在は、ジュディスこそがグレアムの一番のひとなのだ。


「……わかりました。諦めます」


 寂然とした声を吐き出して、ロージーは瞑目する。


「そんな風に言われたら、もう、なにも言えないです」


 再び目を開けたロージーは、花弁が散るような淡い微笑を浮かべた。悲しみと安堵がないまぜになった表情に、胸の詰まる想いがする。


「アクトン先輩、ごめんなさい。わたしなんかの所為で、先輩の人生をめちゃくちゃにしてしまいました。本当にごめんなさい」

「そんなことはない。俺にも多々非があったんだ。君だけの所為じゃない」

「優しいですね、先輩」


 そんなだと、わたしみたいなのに付け込まれますよ。そう笑って見せる彼女の強さは如何ほどのものなのか。彼女を選べなかったことに後悔すら覚えながら、グレアムはぎこちなく笑って頷いた。


「……本当にありがとうございました。こんなことになってしまったけれど、なにも知らなかったわたしが今日までなんとかやってこれたのは、先輩のお陰です」

「ロージー……」


 ――困ったことが有ったら相談してくれ。

 出かけた言葉を喉元で抑えつけて飲み込む。彼女を選べない自分が本当にロージーのことを思うのなら、先輩としての言葉をかけることすら赦されていない。

 代わりに、別れの言葉を絞り出す。


「さよならだ……キャラハン。達者でな」

「はい。アクトン先輩も、お元気で」


 踵を返したグレアムだったが、まだ後ろ髪を引かれている思いがした。何故か、と少し逡巡し、数歩離れたところでロージーのほうを振り返る。


「最後に一つだけ言っておく」


 金色に輝いた瞳がグレアムを見返した。ロージーが彼女自身の輝きを取り戻したことを内心で嬉しく思いながら、グレアムは最後の言葉を紡ぎ出す。


「俺は、あの日、君の頼みを聞いたことを、後悔していない」


 ジュディスとの婚約が解消された。一人の人間としての信用を失った。その理由の一つには確かにロージーの存在があるが、彼女の所為だとは思っていなかった。

 もしこの後悔を背負ったまま同じ時間を繰り返したとしても、グレアムはロージーに手を貸すだろう。確信を持って言える。彼女はいつも一生懸命で、逆境にも負けず、努力を惜しまなかった。応援せずにはいられない。


「君は優秀だ。これからの活躍を、楽しみにしている」


 どうかこれからも精進して、そしてキャラハン家のためでなく自分の望む未来を掴みとってほしい。そう願って、その言葉を贈った。

 ロージーの眼から涙が一筋流れ落ちた。

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