理不尽な悪意

 ロージーが魔法を暴発させたという噂を聞いて、論文の仕上げに取り掛かっていたグレアムはペンを放り出して直ちにその現場へと向かった。太陽が南中に差し掛かる前。講義の時間であるのにもかかわらず、学生たちが女子寮と校舎の間の並木道にたかっている。

 その野次馬たちを掻き分けて現場を見るまでもなく、噂が真実であると肌で感じた。ここ数日晴れ間続きだったというのに、辺りには雨上がりのような清涼感が漂っている。その一方で、砂塵が通り過ぎた後のような、空気のうねりの名残と粒子の拡散も感じた。前者は水の魔法が使われたときの、後者は魔力が爆散したときの感覚だ。かつてジュディスが魔法を暴発させたときも、同じような感覚があったのを思い出す。

 学生たちの騒めきの中から事の詳細を聞き取ったグレアムは、集団に背を向けた。ロージーは一度に大量の魔力を扱った反動で意識を失い、保健室に運ばれたという。目覚めるまでに時間が掛かることだろう。となれば、問いただすべきはもう一人のほうだ。東へと走り、男子寮を目指す。


 人気のないラウンジを横切り、階段を使って三階へ。学生たちの個室がある居住区画に至る通路の入り口に立つ。どれほどでも待とう、と覚悟は決めていたが、ほどなくして目的の人物が部屋から出てきた。

 グレアムは荒い足取りで紺色の絨毯を踏みしめると、その男――フリンに詰め寄ってその胸倉を掴みあげた。


「ロージーになにをした」


 ロージーが魔法を暴発させたその場にフリンが居合わせた、という話をグレアムは野次馬の中から聞きつけた。頭から水を被り着替えに戻った、というので寮に来てみれば、思った通り。紫紺の制服から白のシャツに黒のズボンという簡素な服に着替えたフリンが、涼しい顔で自室から出てきた。

 これまで切磋琢磨し合ってきた友人と言える男だった。疑惑が出たときはまさかと思い追及を避けてしまったが、こんなことになってしまった以上、ことを有耶無耶にできるはずもない。

 襟元を引っ張り上げられたことで顔がやや上向きに持ち上げられたフリンは、薄い笑みを浮かべて鼻を鳴らした。


「王子様の登場ってか」

「茶化すな」

「他になにを言えっていうんだ? ロザンナ・キャラハンのことで、こうしてのこのこ顔を出しておいて」


 グレアムの剣幕もものともせず、フリンは濁った沼のような色の目で深海色の真っ直ぐな瞳を見返すと、落ち着いた動作でグレアムの手を打ち払った。


「……ったく、せっかく着替えたばっかりだってのに。もう皺ができたじゃないか」


 わざとらしく襟元を伸ばすフリンの仕草に、グレアムの頭はむしろ冷えていった。頭の芯が痺れていくような、氷の冷たさだ。暴挙も厭わないような興奮が収まっていく。

 しかし、怒りが消えたわけではない。


「フリン」


 友人だった男の名前を呼ぶ声は、自分でも驚くほど低く冷え切っていた。白い壁と紺色の床の廊下。春の日溜まりが入るはずの場所だというのに、二人の間には、真冬の厳しさが戻ってきたように凍える空気が居座っていた。


「俺のなにが気に食わない」

「……全部だよ」


 フリンは真っ直ぐに切りそろえた前髪の下に手を入れて掻き上げると、そのまま自らの髪を鷲掴むように握り込んだ。グレアムに向けられる、昏い眼差し。


「いいよなぁ、お前は。目を掛けられて、婚約者もいて、将来は決まっていて、夢もあって。で、ちょっと調子が悪いと甘えていられる。良いご身分だよ、跡継ぎってだけでさぁ」


 ほんっとうムカつくなぁ。兄貴にそっくりだ。繰り返してフリンは言う。

 グレアムはフリンの兄――ラウエルの後継者について思い出した。真面目で人好きのする穏やかな人物だ、と多くの者が噂している。次期当主として誰からも望まれている、と。かつてフリンも兄をそう評していた。

 そしてフリンは、ラウエル家の〝価値〟を上げるために魔法師兵になることとなった次男坊。家のために自ら魔法師兵としての道を選ぶとは大した奴だ、とこれまで思っていたが、もしもその道が家族に強制されていたものだとしたら――?


「満たされて、将来も約束されてなんの不安もないくせに、さらに自分の好きなことをやろうとして、それが許されて。……我が儘放題でいい気なもんだよな。

 だから困らせてやろうと思って、あの女を焚きつけてやった。まんまと乗ったところで、あの女を気に入らなかった連中を唆して、とにかくお前の周りを引っ掻き回してやったんだ! 思った以上の騒ぎになったから、随分愉快だったよ!」


 だんだんと表情を歪め、言葉を荒らげ、グレアムを傷つけんと悪意を振りかざすフリン。ようは八つ当たりに使われたわけだ。自分の兄で払えない鬱憤を、よく似たグレアムにぶつけた、といったところか。

 とんだとばっちり。だが衝撃を受けたり怒りに駆られるよりも先に、そうすることでしか己の不満を表現することができないフリンにグレアムは憐れみを抱いた。

 ここにもまた、不自由な人間がいたのか。


「で? なにもかも失って、今どんな気分だ。聴かせてくれよ」


 凶眼でこちらを射抜くフリンは、言葉とは裏腹にまったく愉快そうではなかった。むしろ縋るような色がある。なにを期待しているのか。グレアムはやはり、このフリンという男のことが理解できなかった。

 ただ一つ。グレアムはフリンの期待に添えなかったことは判る。


「俺は、すべてを失ったわけじゃない」


 グレアムはまだ、アクトン家の跡取りとしての立場があった。グレアムを叱った両親にはまだ見限られてはいないし、フリンのいう〝我が儘〟だろうと魔法師兵となって成し遂げたい目標もある。その道も絶たれたわけではない。

 グレアムの手から離れていったのは、ジュディスとロージー、そしてフリンの、三つだけだ。絶望するには、まだ早い。


「……ふーん。そうかよ」


 つまらねぇな、と吐き捨てたフリンの顔からは、すべての表情が抜け落ちていた。深緑の瞳に影が落ちる。水を汚した泥が、底に沈んでいくように。


「なら、せいぜい残りは大事にしろよ。俺みたいな奴は、何人もいるぞ」


 理不尽な悪意を向けてくる奴は。忠告めいたことを言ったフリンは、ポケットに手を突っ込んだ格好でグレアムから顔を背けた。春の景色が眩しい窓の向こうに、いったいなにを見ているのか。


「――俺はただ、ロザンナ・キャラハンを揶揄からかっただけだ」


 不意に落とされたそれが、グレアムの最初の問いに対する答えだと、一呼吸ほど置いて気付いた。


「まあ、些か度が過ぎたことを言ったかもしれないが。でもこれまでずっと周りの悪意に晒されてきたんだから、普段だったらあの程度、どうってことないはずだ」

「煽った身でなにを――っ!」


 いけしゃあしゃあと言うのに、一度立ち消えかけた怒りが再燃した。再びフリンに詰め寄ろうとしたグレアムだったが、


「限界だよ、あの女」


 ぽつりと落とされた言葉に、動きを止める。その意味するところを察し、ロージーの心配に視線を彷徨わせたグレアムに、フリンは苦笑いとも自嘲ともつかない表情を浮かべた。


「親の圧力が強いのかもな。しかも俺と違って不器用なようだから、逃げ場もない」

「他人を陥れるようなことをするのが、器用な人間のすることだとでもいうのか」

「刹那的な愉しみを見つけるのは得意でね」


 低く笑った後、フリンは肩を竦めた。

 もう話すことはなくなった。グレアムは学友だった男に背を向ける。


 フリンはフリンで葛藤を抱えていたのかもしれない。自分の兄にそっくりだというグレアムに対して鬱屈した想いを抱えていたのかもしれない。しかし、だからといって、フリンを許せるはずもない。

 彼が妙なことを思いつかなければ、グレアムはジュディスをこのような形で失うことはなかったし、ロージーはもう少し穏やかな学校生活を送れたはずだ。グレアムにもロージーにも少なからず非があったことだとはいえ、他人にここまで引っ掻き回される謂れはなかった。


「残念だ、フリン」


 最後にそれだけ言い残す。

 卒業まであと僅か。残り百日にも満たない日数だったというのに、その日まで友情を続けられなかったことが実に悔やまれる。


 フリンからの返事はなかった。

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