破裂した心

「すまない、ロージー。俺は、君の期待には応えられない」


 そうグレアムに告げられたのは、冬の終わりを告げる風が吹き荒れた休み明け。唸るような風音が聴覚を狂わせていたはずなのに、その言葉だけはやけにはっきり聞こえた。


「こんなことになったのは、中途半端なことをした俺の所為だ。本当に申し訳ない」


 ――違う、そんな言葉を聞きたいわけじゃない。

 心の叫びは声とはならず、去っていく背中には届かなくて。

 それからロージーは、独りになった。




 春に浮かれた鳥の鳴き声が、これほど憎々しく聞こえるとは思ってもいなかった。校舎と女子寮を繋ぐ道端に座り込んだロージーは、虚ろな目で空を見上げる。

 いつの間にか春は盛りを迎えていた。草は旺盛に背丈を伸ばし、寒々しかった木々は新緑を纏っている。ちらほらと可愛らしい花も顔を見せるようになって、なんと輝かしい時季を迎えたことか。

 しかし、ロージーの心の中だけは、未だに凍り付いたままだった。万年雪よりも頑固な氷の塊が、ロージーの胸の中に居座り続けていた。グレアムに拒絶され、ひどく絶望的な気分のまま一月以上過ごしている。なんとか自分を奮い立たせて学業をこなしていたのだが、さすがにもう限界だった。

 今朝。満足に櫛も通さなかった栗色の髪は下ろしたまま。それでもなんとか最低限の支度はして寮を出たものの、校舎へ向かう途中で突然歩く気力を失くしてしまった。道端にしゃがみ、それからずっとこうして地べたに尻を着けて空を見上げている。

 幸いにして、周囲は関わってこないという意味では優しかった。寮から出てきた女子学生たちはロージーのことを奇妙な目で見るだけで通り過ぎていってくれた。

 それから始業の鐘の音を遠くに聴いて、どれほど経っただろう。


「いいなぁ……」


 正面に降り注ぐ日差しを鬱陶しく思いながら、おしゃべりの代名詞で有名な小鳥たちがはしゃいで飛んでいくのを眺めて声を漏らす。

 もう随分と人と喋っていない。講義内容の質問や、事務的な会話のために声を出すことはあるが、それ以外は沈黙したままだ。友人がいないのが理由の一つ。鳥たちを憎むほど羨んでおきながら、人と会話する気になれなかったのが、また一つ。


 ロージーは疲れていた。冬期休暇が明けてから父の命令に従って、グレアムの気を引こうと努力し続けた。彼の優しさと人の好さに付け込むように、なにかと理由を付けて声を掛け続けて。人目の多いところをわざわざ選んだのは、逃げ場を失くすためだ。そうすればいつかグレアムは観念するしかなくなる。嫌われていないのだから見込みはある。そう言われて、白眼視されるのにも耐え続けてきた。

 だが、結果はどうだ。ロージーはここ最近のグレアムの表情を思い浮かべた。疲弊した顔には、いつしか億劫そうな色しか浮かばなくなった。勉強会のときはあれだけ真っ直ぐにロージーを見てくれていたというのに、深海色の瞳は逸らされるようになった。拒絶されていることに気が付かないロージーではない。これまでずっと、他人が自分を避けるのを見てきたのだから。

 そして先日、とうとう謝絶の言葉を口にされた。これまで逸らされてきた瞳を真っ直ぐに向けられて、頭も下げられて。もう取り付く島がないことをはっきりと思い知らされた。


 だが。

 ――本当は、解っていた。

 ロージーは、自らの膝を抱え込んだ。靴の先で伸びた雑草を弄る。背丈を伸ばした青く細い葉が、右に左にゆらゆらと揺れる。

 グレアムに告白したあのときから、ロージーが選ばれることなどないのだと、解っていた。それでも後に引けなかった。父の要望を叶えないと、ロージーの居場所はなくなる。異母兄に代わってキャラハン家の威信を維持することが、ロージーの存在意義だ。使えないと見做されたら、きっと実母共々追い出される。

 それに、ロージーにとっても悪い話ではなかったのだ。ロージーを唯一助けてくれたグレアムとの結婚。一度は諦めた夢を手に入れる好機チャンス。だから、父の企みに乗ったのだけれど。


ばちが当たったのかなぁ……」


 抱えきれずに吐露した言葉は涙声だった。婚約者と別れることになったグレアムにはもうしがらみはないのだから、自分が貰ってもいいはずだ、なんてむしの良い事を考えたのがいけなかったのだ。独りになってしまうのは、当然の結末だと言える。

 そう、すべては自分が悪い。後悔に心が押し潰されて、ロージーの気分はたちまち地面に沈んでいく。


「はあ……」


 空気の塊を吐き出すが、一向に心の中は晴れなかった。


「これからどうしよう……」


 霞んだ青空を見上げて、ロージーは呟く。

 おそらく父は、まだグレアムに接近するよう強要を続けるだろう。でも、グレアムはきっと靡かない。真摯にそれを告げに来たのがなによりの証拠だ。

 そうしたらどうなる? また社交界で笑われて、奥様に罵倒され、異母兄に嘲笑われ、父に見限られて、キャラハンの家を追い出されて。

 父の〝特別〟を自負する実母も、きっとロージーを恨むだろう。

 そうしたら自分は、何処に行けばいい?

 頼る当てもなく、他人に嫌われない保証もなく――むしろ、学校での生活と同じ轍を踏みかねない。人間関係を構築していくことにはもう、自信を無くしていた。

 独りで生きることも考えてみるけれど、なんだかんだロージーに良くしてくれた実母のことを思うと、その選択肢すらないことを思い知る。

 ――逃げ場が、ない。


「随分情けない姿だな」


 出口のない部屋に閉じ込められたような閉塞感に喘いでいると、冷ややかな声が投げかけられた。男の声だ。女子寮に近いこの場所にいるとは珍しく、怪訝に思って視線を向けてみれば、黒髪をまっすぐに切り揃えた、泣き黒子の男が立っている。

 グレアムの友人だという、フリン・ラウエル。彼は相変わらず嘲笑と侮蔑をもってロージーを見下ろした。


「振られたんだって、グレアムに」


 面白がって平然と人の心を逆なでしてくるその人に、落ち着かせていたはずの怒りがたちまち膨れ上がった。


「うるさい、うるさい、うるさいっ!」


 口の中から一つ言葉が出る度に、その声が大きくなっていく。奔流のように押し寄せる言葉を、ロージーは止める術なく吐き出し続けた。


「全部、あなたの所為! あの日、あなたがあんなことを言うから!」


 それは年末、父にある貴族のパーティーに連れていかれたときのことだ。

 学校と変わらず、好奇と嘲笑の視線を浴び続けて心をすり減らしていたロージーは、いかなる偶然か、フリンと遭遇したのだ。

 噂と、それから父の思惑を耳にしたフリンは、当時はまだグレアムに迫ることに気が進んでいなかったロージーの耳元で囁いた。


『いいじゃないか。どうせもう、グレアムとウェルシュ嬢の婚約は解消されたんだから。相手がいなくなった男に言い寄って、いったいなにが悪いんだ?』


 その言葉は、傷ついた心をたちまち侵していって、ロージーは父に従うことを選んでしまった。


「だったらなんだ? 鵜呑みにして、行動したのは自分だろ? 他人の所為にしないで、恨むなら自分を恨めよロザンナ・キャラハン。自分の好きな男も手に入れられず、父親の命令も果たせず、中途半端な自分をな」


 ロージーは唇を引き結んだ。あのとき、戯言だ、と一蹴すれば良かったものを、誘惑に駆られて流されてしまったのは、フリンの言う通り確かに自分の責任だ。それがひどく悔しく苦しい。

 これまで押さえつけていた情動が波立つ。あっという間に渦巻いて、ロージーの理性を呑み込まんとしていた。

 そこに追い討ちをかけるように、フリンが口を開く。


「アンタの父親はさぞかしがっかりするだろうな。娘が使い物にならない、ただの厄介者でしかなかったことを知って」

「……い」

「あ?」


 眉根を寄せて聞き返す馬鹿にした態度が、ロージーの苛立ちをよりいっそう煽った。


「知らない、知らない! そんなこと知るか! みんな、わたしのことを馬鹿にするくせに、どうして全部わたしに押し付けるの! 愛人の娘なのはわたしの責任じゃないし、異母兄ベルノルトが魔法師になれないのもわたしの所為じゃない! 先輩がわたしに振り向かないのも、わたしが……わたしそのものが悪いわけじゃない! 勝手なのはあなたたちのほうなのに、どうしてわたしばかり責められなくちゃいけないの!?」


 愛人の娘でなかったら、この学校で一人になることはなかったし、自業自得な異母兄に妬まれることもなかった。周囲が余計なことさえしなければ、グレアムへの想いは甘く苦い普通の初恋で終わっていた。それで良かった。ロージーが望んでいたのは、普通を逸脱しない穏やかな日常だったのに。

 父と実母が為した不義の結果として生まれてきただけで、みんながロージーを利用するだけ利用して、人格を、行いを、片っ端から否定する。そうされて当然だとばかりに踏みにじる。


「もう嫌っ!!」


 喉が張り裂けんばかりに悲鳴を上げたロージーは鞄を振りかぶると、思い切り地面に叩きつけた。留め金が緩かったのか、衝撃で中身が飛び出す。崩れ落ちるように地面に膝を付いたロージーは、手近に落ちていた教本を拾うと、両手で端を掴んで何度も地面に叩きつけた。


「なんで、なんでわたしばっかりこんな目に遭わなくちゃいけないの!!」


 叩きつけた衝撃で手からすっぽりと抜けてしまった本が、放物線を描いて飛んでいく。当たり散らすものを失くしたロージーは、咆哮のような悲鳴を上げた。

 空気が震え、なにもない中空が結露する。突如浮き上がった雫はなにかに吸い込まれるように、地面の上に蹲るロージーの頭上に集まっていった。

 人が変わったようなロージーの狂乱ぶりを冷ややかに眺めていたフリンの顔色が、たちまち青く変化する。ロージーの頭上に集まった水は、ひと一人飲み込めるほどの大きさの球となっていた。だが、形状を保っていたのは一瞬。表面から角のようなものが現れたり引っ込んだりして、徐々に形が崩れていく。


「おい、落ち着けロザンナ――」

「黙れぇぇぇぇぇっ!!」


 慌てて宥めようとしたフリンの言葉を掻き消すように叫んだロージーの頭上で、水球が両側面から圧力をかけられたように変形し――破裂した。

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