ロザンナではなく、ロージーとして

『俺は、あの日、君の頼みを聞いたことを、後悔していない』


 この一言にどれだけ救われたか、果たしてグレアムは気付いているのだろうか。


 保健医も遠慮して退室した保健室でただ一人、ひとしきり泣いたロージーは、涙に濡れた頬を手の甲で拭った。子どもの時分を除き、ここまで泣いた記憶はこれまでになかった。涙を吸った白いシャツの襟が首筋に当たって冷たい。

 しかし、それでも清々しい気分だった。外側に付着していた汚れも、身のうちに溜まっていた澱も、すべて流れ落ちて〝ロージー〟だけが残ったような、そんな気分。

 もちろん、問題が片付いたわけではない。面倒なことはまだたくさん残っている。それでも今は、随分と久しぶりに心を落ち着かせることができている。少しは前向きに考えてみようか、とも。

 ――どうすればいいのか、今は判らないけれども。


 そんなロージーの前に、もう一人見舞いの客がやってきた。


「はじめましてね。ロージー・キャラハン」


 黒い大理石の床をさばさばと、けれど綺麗な型で歩いてきた人物に、ロージーは首を傾げた。真っ直ぐな金髪と蘇芳色のヘアバンドが目を惹く彼女は、ロージーの知らない学生だった。堂々とした立ち居振る舞いと敬語を抜いて話しかけてきたことから、貴族の出身であることと先輩であることは推測された。だが、見ず知らずの先輩に話しかけられる理由が、ロージーの中にはない。


「……誰ですか?」


 警戒しながら誰何する。これまでまともな理由で貴族から話しかけられた経験があまりにも少ないので、身構えてしまうのは自分でもどうしようもなかった。


「カタリナ・ユークランド。ユークランド侯爵家の娘よ」


 ロージーは記憶を探った。父から顔を売るように教えられた貴族の名前の中に、ユークランド侯爵家はなかったように思う。


「そんな人が、わたしになんのようですか?」


 やはり警戒しながら尋ねるロージーに、カタリナは呆れたような溜め息を零した。気の強そうな顔をしているだけに、不興を買ったのではないかと一瞬焦るが、彼女の表情が怒りで歪むことはなかった。


「……まずはその言葉遣いを直さなくてはね。貴女が周囲の貴族子女から反感を買ったのは、その所為でもあるでしょうから」


 ロージーは鼻白んだ。実は、これでも自覚がある。ただ、会話の内容にばかり気を取られて、なかなか言葉遣いにまで意識を回せないのだ。砕けた敬語がせいぜいである。少しくらい大目に見てくれないか、と思っていたのは――なるほど、庶子であることを理由にした甘えだったのかもしれない。


「私はね、グレアム・アクトンに頼まれたの。貴女の力になってくれって」

「先輩が……?」


 彼女の訪問を受けたことそのものが予想外であったが、まさかグレアム経由の訪問客とは思いも寄らなかった。自分で話しかけておきながらの評価ではあるが、どうもグレアムは異性とはあまり縁がなさそうだったので。


「貴女と〝はい、さよなら〟と別れて終わりっていうつもりは、はじめからなかったようよ。あの男なりに、責任の取り方を模索していたの。だけど、自分が直接関わると元の木阿弥だから――」


 だから、グレアムの知り合いで、貴族位の高いカタリナを頼ったそうだ。侯爵家なら、男爵位であるキャラハン家にも口出しできる。


「まったく、信じられないわよね。ジュディスの親友たるこの私に、元凶あなたの世話を頼むなんて」


 ジュディスの親友なのか。ロージーは肩を強張らせた。


「でも、貴女がまともである限り心配は無用よ。可能な限り、私が支援してあげる」


 腰に手を当て、居丈高に言い放つカタリナ。とりあえずいじめられることはなさそうだと安心し、この人はいったいなんなのだろう、と呆れたが、次の一言にはとてつもなく惹きつけられた。


「さあ、言ってみなさい。貴女の願いはなに?」


 童話に出てくる魔女のような台詞。ロージーの視線は宙を彷徨った。


「わたし……わたしは……」


 うわ言のように繰り返す。胸の奥にあるを、形にする言葉を探した。


「わたしは、ロージーとして生きたいです。貴族の愛人の娘の、ロザンナ・キャラハンとしてではなく、ただのロージーとして」


 グレアムが助けたいと思ってくれたロージーとして。

 それが唯一、自分が好きだと思った自分だから。これからの人生で磨き上げていきたいのは、その自分だから。


「だから、ありがたいお話ですけど、支援のほうは――」

「馬鹿ね」


 要らないです、と言いかけたロージーの言葉の端を、カタリナはばっさりと切り落とした。


「誰かの力を借りない、全部自分で、なんていう考えは立派だけれど、理想論だわ。世の中、案外放っておいてくれないのは、よく知っているでしょう?」


 ロージーは言葉に詰まった。この学校に来てからというもの、庶子である自分を避けるばかりか、わざわざ嘲笑うために近寄ってきた者がいったいどれほどいたことか。


「その意気や良し。でも、使えるものは使いなさい」


 カタリナの言葉は強く、けれど優しかった。逢ってまだ数分、けれどこの人なら信用できる。そう思わせるなにかがあった。グレアムの紹介だからそう思うのかもしれないが。グレアムが頼みごとをするだけの人物であることが、窺い知れた。

 ベッドの中にいることを申し訳なく思いながら、ロージーは背筋を伸ばして丁寧に頭を下げる。


「……はい。それでは、よろしくお願いします」


 そうして顔を上げて、真っ直ぐにカタリナの青玉サファイアの瞳を見つめた。


「わたしに貴族社会の泳ぎ方を教えてください」


 まずは、貴族に立ち向かう。そう決心したロージーは、満足そうに笑うカタリナの手を取った。

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