第七章 誓う、黄花
親心
三週間の長期休暇を取ることができたのは、一月後だった。ひと悶着あったが、メイリンも奇跡的に戻ってきて、先の襲撃の件が落ち着いたのがちょうどその頃だった。
軽く纏めた荷を背負ったグレアムは、今出てきたばかりの砦を見上げる。深緑の中に聳え立つ灰色の建物。無骨で素っ気ない、それこそ堤防のような建物だが、この中にグレアムの三年間が詰まっていた。実家に戻ることもなく、ずっとこの場所に留まっていたのだ。実に充実した三年間だった、と振り返るにはまだ早いだろうか。
「頑張ってこいよ」
砦の前までわざわざ見送りにきたトラヴィスがグレアムの肩を叩く。襲撃の後遺症もなく、すっかりいつもの調子を取り戻している。トラヴィスだけではない。あの襲撃を生き延びた者たちのだいたいはもう復活している。
「振られたら俺たちが慰めてやるから、心置きなく砕けてこい!」
肩を組んで大げさに言うトラヴィス。今回の休暇の目的は説明してあるはずなのだが、何故か元婚約者に復縁を請いに行くことになっていた。話を聴いていなかったのか、聴いたうえでわざと曲解して発言しているのかは、判断に苦しむところだ。
「縁起でもない」
トラヴィスの腕から逃れながら、苦笑して返す。復縁は有り得ないが、謝罪もできずに砕けてしまうのは本当に洒落にならない。
「僕は、うまくいくことを祈っているよ」
トラヴィスと同じく見送りに来てくれたマシューも笑みを浮かべながら言う。彼は真面目に話を聴いていたはずなので、グレアムは素直にその励ましを受け取った。
一度砦に近いアキナの村に立ち寄って、そこから乗合馬車に乗って王都を目指す。
アメラス北西端から王都までは、馬車を乗り継いでおよそ四日。晩夏を迎えて日差しは和らぎ、天気も幸いにして雨に降られることはなく、理想的な速度で快適に移動することができた。ついてきた猫も疲れ以外の大事に至ることなく、無事に四日目の夕方には、無事に王都に辿り着くことができた。
そして今グレアムは、懐かしきアクトン家のタウンハウスの前に居る。今も変わらぬチャコールグレーの屋根を見上げると、いつの間にか大きくなっていた緊張感と不安感が少し和らいだ。門をくぐり深呼吸をすれば、さらに肩の力が抜ける。帰ってきた、というこの感慨は、久しく感じていなかったものだ。
「おかえりなさい」
邸の中に入り、猫を腕に抱えたグレアムが執事の出迎えを受けている最中、気怠げな女の声が頭上に降り注いだ。弾かれるように顔を上げてみれば、玄関側の階段から母が下りてきたので驚いた。教師染みた恰好も気怠げな雰囲気も相変わらずだ。
「母上? どうしてここに」
普段この時期は、両親は領地に居るはずだった。なので、今回の件を伝える便りは、両親宛には領地に送り、こちらには数日滞在する旨しか書いていなかったのだが。
「貴方が来ると聞いて、急遽やってきたのよ」
「休みの帰りに領へ立ち寄るとお伝えしましたのに」
なにせ、今回の休みは三週間。砦・王都間の往復とジュディスへの謝罪の機会を見積もっても、日数はまだあまりある。だから、報告がてら領地に立ち寄り、遠回りして砦に戻ろうとグレアムは計画していたというのに。
「三年もの間一度も戻ってこなかった子の言葉なんて、信用できると思う?」
下縁眼鏡の向こうから流し目を向けられてしまうと、心配をかけた息子としてはもう頭を下げるしかない。
「……申し訳ございません」
グレイシアはしばらくじとっとした視線をくれていたが、やがて区切りをつけるように、ぱしん、と両手を叩いた。音に顔を上げたグレアムの先で、母は腰に手を当てて微笑んだ。相変わらず猫のような微笑みだ。
「夕食にはまだ早いわね。談話室でお茶でも飲みましょうか。レイも呼んでね」
そうして執事に言い付ける母の前で、グレアムはまたしても驚いた。レイ、というのはレイモンド――グレアムの父のことである。
「父上もこの家に?」
「ええ。一緒に来たの。仕事だとか言っていたけれど、本当は貴方が心配でね」
階段を上る最中、まさか、とグレアムは思わずにはいられなかった。ジュディスとの婚約破棄の件に関して、あれほど怒っていた父である。謝罪は当然、三年も経って今更遅いくらいだ、と叱られるのであるならわかるが、心配されているだなんて信じられなかった。
グレアムの胡乱げな表情に気付いたのだろう。振り返ったグレイシアは、ふぅ、と
「家族だもの。なんだかんだ言って、親はどうしても子どもを許してしまうのよ」
グレアムの眉間に皺が寄る。父との親子の絆を疑ったことはないが、そういうことに関しては親子であろうとも容赦のない人だと思っていたので、グレイシアの言うことはとても信じ難い。母はもう一度仕方なさそうに溜め息を吐いた。
柔らかなクリーム色の談話室に入り、二人は部屋の中央にある円卓に着いた。グレアムが木目の床にサリックスを下ろすと、猫は前足を突き出して伸びをする。
「可愛いわね」
グレアムの斜め右の席に着いたグレイシアは、足元に下ろしたばかりのサリックスを覗き込みながら言う。
「使い魔なんですって?」
「ええ。彼女には随分と助けられています」
グレアムはしゃがみ込み、床の上で畏まった灰猫の喉元をさすってやった。サリックスは気持ちよさそうに目を細める。母は、使用人がお茶を用意している間もその様子を微笑ましげに眺め、やがて椅子に座ったグレアムを見てふと溢した。
「ずいぶんと逞しくなったわ」
「そう……でしょうか」
魔法師兵として強くなったことは自覚しているが、〝逞しい〟という言葉はピンとこなかった。
「甘さが抜けたわね。やっぱり可愛い子には旅をさせよということかしら」
と嬉しそうにしていた母の表情が少し曇った。
「……そうね。もっと早くから、広い世界を見せてあげれば良かったのかもしれない」
子育てを後悔するような言葉に、グレアムは耳を疑った。少なくともグレアムは、母や父の所為でこうなったとは微塵も考えていなかったというのに。
だが、グレイシアの表情は暗い。片方の頬に手を当てて、どこか遠くに視線を飛ばし、溜め息を吐く。
「婚約しなければ良かったとは言わないけれど、ジュディス以外の世界があることを知らせていれば、お互いに甘えることも重荷になることもなかったはずよ」
「どういうことですか?」
「自分でも気づいていないのね。前にも言ったような気がするけれど……。貴方はジュディスに対して責任を負っていた一方で、ジュディスを行動基準にしていたでしょう。ジュディスを貴方の世界のすべてにして、なにかにつけて彼女のことを言い訳にしていた。それが少しずつ、貴方たちの関係を歪にしていったのでしょう」
グレアムは学生時代を思い出した。ジュディスの体調不良を知らず、授業を怠けているのを捜し回って叱りつけていた日々を。〈
誰のためにやっていると思っているのだ、と。自分で決めたことなのに。
これは責任転嫁――ジュディスに対する甘えだ。
「キャラハンのお嬢さんの件は、きっと、ただのきっかけにすぎないわ」
いつかきっと似たようなことが起こっていただろう、とグレイシアは言う。もしかすると婚姻を結んだ後に起きたかもしれない、とも。まさか、と思いつつも否定できない自分が居た。なにも知らなかったあの頃は、無自覚にも随分とジュディスに対する不満を抱えていたのだから。
あのときのことはたまたまロージーが焦点になっただけで、いつかきっと、グレアムのジュディスに対する不満が何処かで吹き出していた。――あるいは、その逆も。
今更掘り返すようだけど、と母は続ける。
「貴方がしたことは、もちろん良い事ではないわね。認識の甘さが招いたこと。でも、まだ子どもだった貴方をそのままにしておいたのは私たち。私たちにも責任はあるわ」
「そんなことは――」
ない、と言おうとしたグレアムの鼻の前に、グレイシアは人差し指を立てて見せた。グレアムは口を閉ざし、眉を顰める。認識が甘かったのは学ぶべきことを学べなかった自分の落ち度で、両親に責任はないはずだった。
そんな息子に、母は困り顔で笑う。
「だからもう、自分を許していいのよ」
思いがけない言葉に、今度はこちらが困る羽目になった。
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