もう一度彼女に
目を開くと、石組の天井が目に入った。見慣れた天井のはずなのにどことなく違う、と継ぎ目を眺めながら頭を捻り、自室では天井ではなく二段ベッドの底板を見上げていたことを思い出した。
身を起こして周囲を見回せば、粗末な、しかしシーツだけは真っ白なベッドが壁に沿って並列している。向かいにあるのは薬品などが収められた棚。砦の医務室だ。
医務室のベッドは大半が埋まっていた。グレアムもそのうちの一つに横たわっていたわけだ。
「起きた?」
声を掛けられ傍らを見てみれば、些か疲れた表情のマシューが立っていた。
その瞬間、倒れる前になにがあったのかを思い出す。
「無事だったか」
「おかげさまで、命拾いしたよ」
マシューは口元を歪めて、笑いとも溜め息ともつかない息を吐くと、傍にあった丸椅子を引き寄せて座った。彼は葡萄酒色のローブを着ておらず、シャツにズボン姿だった。それは現在は差し迫った状況にないことを意味すると知り、グレアムは肩の力を抜いた。
「あれから、どうなった?」
「襲撃のほうは、昨晩のうちにどうにかなったみたいだよ。今は静かなもので、みんな後片付けしたり休憩したりしている」
昨晩、ということは、グレアムは一日も気を失っていなかったようだ。ふと時間が気になり辺りを見回してみたが、この部屋は窓がないので時間帯が判らない。察したマシューがいま昼過ぎだと教えてくれる。
「結構ひどいものだよ。たくさんの人が森に連れていかれた。砦にいた人は結界のおかげで無事だったけど、外にいた人がね」
本来、このように無駄な死傷者を出さないために、砦という設備があるのだが……今回は話が違った。小物の襲撃ももちろんだが、あの巨狼のような大物も他に二体いたらしい。奴らに砦を破壊される可能性を危惧して多くの兵士が砦の外に出ることになり、多くの死傷者が出たのだという。
もちろん、彼らは森の奥へと連れていかれている。どれほどの人員が森に呑まれたのか、マシューは言わなかった。
代わりに、重々しく口を開く。
「メイリンが連れていかれた」
息を呑まずにはいられなかった。
「信じられないよね。だからか、死んだのを確認したわけじゃないからって、リチャードが追いかけてるよ」
こちらもまた驚くべき事態だった。あの冷静なリチャードが、である。本来森に連れていた兵士は、死亡確認がされていようといまいと追いかけないのが原則だ。ミイラ取りがミイラになる可能性を危惧してのことである。それを知っていて追いかけたというのだから――リチャードがどれほどメイリンのことで動揺しているかがよく分かる。
「トラヴィスは……?」
「無事。いま外で剣振ってるよ」
森の中で倒れていたのを思い出したときは背筋が冷えたものだが、彼はどうやら十分に元気らしい。グレアムは安堵の溜め息を落とした。
「……死んだと思った」
マシューが溢す。グレアムは無言で頷いた。死ぬ覚悟をした。それくらい、あの巨狼は強敵だった。
「意識が薄れゆくときに、見えたんだ。君が魔物に殺されそうになる姿を」
その瞬間のことも、今はもうよく思い出せていた。巨体に吹き飛ばされ、その最中雷撃を喰らった。全身に走った痛み。そして暗転する瞬間に見えた、迫る巨狼。あのときのことを思い出すとよく生きていたものだと思う。
「どうして助かったんだ?」
「僕にもよく分からない。君がやられたのと同じくして、僕もあの雷撃を食らったからね。意識が朦朧としていたなかで、辛うじてそれだけ覚えてたんだ」
ただ、とマシューの話はまだ続いていた。
「聴いた話によると、〈
その〈
――だが、ふと思い出す。意識が切れ行く瞬間、巨狼の前に立ちはだかる影を見た気がしたのだ。長く藍色に光る髪を持った女性。
死を前にジュディスの幻覚を見たのだと思ったが、あれは〈
「それと、他の場所にいた人たちは、赤と緑の光の矢が降ってきたというけど……君じゃないんでしょう?」
「赤と緑……? 知らないな」
「だよね。赤いほうはともかく、緑色は僕たちの傷を癒したそうだ。
「……〈
グレアムはベッドの脇に立てかけてある自身の弓に目を向けた。あれを〈
何者なんだろうね、とマシューが話す傍らで、グレアムはジュディスのことを思い出した。ロデリックにあったからだろうか、死にかけたからだろうか、それとも〈
そう、それに。
夢を見たのだ。ジュディスの夢。
『グレアムっ!!』
月明かりの満ちる青い薄闇の向こうで、ジュディスが叫んでいた。久しぶりに彼女の声を聴いた気がした。普段は囁くような心地よい声は、悲鳴となっても耳に馴染んだ。
夢の中のジュディスは、泣き顔で。
やはり自分は彼女を泣かせるのか、と軽い絶望を覚えた。
一通り話し終えて気が晴れたらしいマシューが帰ったあと。グレアムは、足元に愛猫が居ることに気が付いた。招き寄せると、ベッドに飛び移ってくる。襲撃の間何処に居たのやら。それでも無事だったことに、グレアムはまた安堵した。
その頭を撫でている最中、医者がやってきて、少ししたら診察をする、と伝えた。それまでベッドの中に居ろ、と。承知したグレアムは、寝転がらずに座ったままぼんやりと棚の薬品瓶を目で追って、サリックスの背を撫でる。
気持ちよさそうに頭を擦りつけてきたサリックスに、グレアムは今しがたの決心を打ち明けた。
「ジュディに、会いに行こうと思うんだ」
猫は頭を持ち上げて、翠の瞳でグレアムのことをじっと見た。その様子にジュディスを重ね、グレアムは小さく笑う。
「死にかけて気づいた。このまま問題をいつまでも放置するわけにはいかない」
ジュディスの幻影を見て、そして彼女の夢を見て。そうして今胸の中で膨らんでいる彼女の存在。もしあのまま死んでいたら、と想像して、ぞっとした自分に気付いた。自身の死についてではない。自らの過ちで彼女を傷つけたことを放置することについてだ。
区切りがついていないから、未練になる。もう途絶えてしまった縁を、いつまでも眺めているものではない。それは自分にとっても不利益なことであるし、相手にとっても迷惑でしかない。一度反故にした婚約は、片恋だなんて可愛らしいものにはならないのだ。
「だから、いい加減に決着をつけないとな……」
しかし、そのときはグレアムがすべてを失うときになるだろう。
ロデリックの言うように婚約解消の件から逃げてここに来たわけではないが、婚約解消の件がグレアムをここに留めていることは確かだ。決着をつけたなら、責任を果たしたということで遠からず伯爵位を継ぐ準備に入ることになるだろう。つまり、魔法師兵をやめることになる。
そうなれば、トラヴィスとマシューという気心の知れた友人と会うこともなくなるだろう。彼らが貴族であればすれ違う可能性もあったが、そうではないのだから、会う機会はなくなってしまうだろう。
せっかく掴んだ友情が、また掌から零れ落ちていくような感覚に見舞われる。
そして、彼らを失ったところで、ジュディスが戻ってくるわけでもない。
仕方のないことだ。それでも、虚しさは感じてしまう。
いつの間にかぼんやりと視線を彷徨わせていたグレアムの太ももに、温かい何かが触れた。見れば、灰色の小さな猫の手がそこに置かれている。
サリックスは、グレアムを心配するように大きな翠色の眼で見上げていた。
「もし俺がすべてを失ったそのあとも」
早くも襲い来る喪失感に耐えきれず、グレアムは懇願するようにサリックスに呟いた。
「お前は俺の傍にいてくれるか……?」
愛しい人と身分差の友人が離れていくのを止められなくても、せめてこの猫だけは傍に居てくれないか、とグレアムはひたすら願う。
猫は答えず、ただじっとグレアムのことを見上げていた。
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