森の怪異(※流血表現有)

 魔物と戦うための訓練を長いことしてきたとはいえ、実際に魔物に対峙するのは〈氾濫フラッド〉以来、実に八年ぶりである。しかもよりによって、トラウマの原因となるあの〈竜の尾ドラゴンテール〉。口の中が瞬時に干上がった。

 それでも、覚悟はきちんと持てていたのか、頭の中は冷静で、杖を構えて周囲に目を配るところまでは案外すんなりと行うことができた。

 トラヴィスが剣を抜いている。マシューは固まっているが、どうにか動けそうだ。メイリンとリチャードは、宣言通り後ろに下がって、手を出す気はないらしい。目の前の敵は二体。あれが小物だとして、初実戦の三人が相手にするにはまあまあな数……だろうか。こちらの数が多いのだから、幸いだ。


「トラヴィス、一体頼めるか」

「了解、惹きつけりゃあいいんだな?」


 さすがというか、グレアムの意図をすぐに把握したトラヴィスは、淀みなく茂みを掻き分け一番近くにいた右の蜥蜴トカゲに接近する。その間にグレアムは、マシューの傍に行き、その肩を叩いた。


「俺が接近して気を惹く。狙撃できるか?」

「た、たぶん!」

「なら頼んだ」


 もう一度肩を叩いて言い残し、グレアムは魔力を練り上げながら駆け出した。茂みに足を取られながらなので、トラヴィスと違っていまいち速度が出なかったが、なんとか蜥蜴の魔物の前に辿り着く。その頃には、魔法のバリアが完成していて、グレアムは魔物に接敵しながら鋭い爪を防ぐことができた。

 爪を受け止めつつ、バリアの展開範囲を狭めて、腰の位置にある頭を杖で横薙ぎに打ち払う。左に大きくのけぞったところに、マシューの火の球に被弾した。

 瞬間的に高まる気温。

 だが、魔物はさして堪えた様子はなく、再びグレアムに襲い掛かった。慌てて再びバリアを広く展開させた。

 遺構の石畳の上で足を踏ん張って、透明な傘越しに敵を観察する。魔物の躰は、爬虫類と言うだけあってか、びっしりと土色の鱗に覆われている。よほど硬度があるのだろうか、打撃はもちろん、刃は通しそうにないし、火も通さないようだ。だが、よくよく観察してみると、白い腹のほうは分厚めではあるが皮のようだった。ここなら、鱗よりは攻撃を与えやすいだろう。


「マシュー、石か氷の矢をくれ!」


 叫んで、再び杖を振るう。マシューの魔力を感じながら敵の隙を突き、放たれたところで相手の躰をめくるように杖を下から上に振り上げた。

 尖った石の欠片――石の矢が、仰け反って露わになった柔らかく白い腹へと深く突き刺さる。当たり所が良かったのか、魔物はその一撃だけで絶命した。


「助かった!」


 呆然として固まるマシューに声を掛けてから、グレアムは少し先のほうで剣先で魔物をいなすトラヴィスの下へと走った。


「トラヴィス、腹だ!」


 叫びつつ、魔力を練る。杖身に水を纏わせ、魔物を躰の下から打ち上げるのと同時に水柱を立たせた。水圧が魔物の腹を押し上げる。腹が露わになったところを、トラヴィスが剣で串刺しにした。こちらは一度剣を抜いた後、もう一度心臓目掛けて剣を突き立てないといけなかった。


「……まあまあですね」


 血糊が遺構を汚したのに苦みを覚えつつ、息吐いたところで、木の幹の側で腕を組んで始終を眺めていたメイリンが、リチャードを後ろに引き連れグレアムたちの前へ来る。


「トラヴィスは、少なくとも一対一で生き残れるほどの戦闘技能を有しているようですし、グレアムは分析力があります。マシューは――」


 と、彼女は不意に言葉を切り、トラヴィスの方を向いた。突然眼鏡越しの視線を向けられて戸惑いの表情を見せる彼に歩み寄りながら、無言で二本の剣を抜く。


「え? え?」


 事態が飲み込めず混乱して身構えたトラヴィスの横をメイリンは駆け抜けた。そして、右手を一閃。その場でくるりと身体を一回転し、今度は左手で一閃する。

 木漏れ日に閃く華麗な剣舞ソードダンスに魅せられた頃には、グレアムも状況を把握していた。犬のような体躯に魚のような頭の白い魔物が、トラヴィスの背後に接近していたのだ。

 気付いた頃にはもう、その犬とも魚ともつかない魔物は息絶えていた。ただ回転したようにしか見えなかったあの二撃で魔物を屠ってしまったのである。それでもメイリンは、相変わらず柔和な笑みを貼り付けたままだった。それが少し、そら恐ろしく感じる。


「〈陸魚ランドフィッシュ〉、ですか」


 メイリンは刃を指の間に挟んで、二本の剣を器用に片手にぶら下げると、もう片方の手で布を取り出し、一本ずつ刀身を拭った。

 報告にないですね、と剣を鞘に戻しながら独りごちた彼女は、右の人差し指でこめかみを突いた。


「さては……」


 彼女の眉が顰められたそのとき。


「あ、いた!」


陸魚ランドフィッシュ〉とかいう魔物がやってきた方向から、一人の青年兵士が現れた。慌てて森を掻き分けてきたのだろう、兵士は顔中に汗を浮かべ、葡萄酒ワイン色の軍服は土や葉などで汚れている。


「すんません! こっちに一体魔物を――」

「これのことですか?」


 にこやかにメイリンが新しい魔物を指さすと、兵士は空気を抜かれた風船のようにたちまち勢いを萎ませていった。


「あ……はい、それです」

「でしたら、もう処理は終わりましたので」

「あ……はい、ありがとうございま――いえ、ご迷惑をかけてすみませんでした!」


 走ってきたときとは別種の汗を額に滲ませて、深く深く頭を下げる彼を尻目に、メイリンはこちらを振り返った。


「とまあ、こういうこともあります。この森では、決して油断しないように」


 はい、と返事をしながらも、意識は青年兵士のほうへと向いてしまう。未だに頭を下げている彼の姿に、グレアムはメイリンという女性がどういう人なのか、その一端を見た気がした。

 穏やかそうな見た目に、惑わされてはいけない。

 そのメイリンは、服の下で密かに冷や汗を掻くグレアムたち三人を気に留めることなく、また〈陸魚ランドフィッシュ〉の来たほう――森の奥へ視線を向けた。


「そろそろですね」


 なにが、と誰かが問い返す前に、それは来た。

 茂みの向こうから、かさかさ、となにかが迫る音がする。


「……まさか、まだ魔物が?」


 上擦った声を出すマシューに、


「静かに。動かないほうが良い」


 リチャードは制止して、一同動きを止めた。トラヴィスも、マシューも、もちろんグレアムも固唾を飲んで事態を見守る。ベテランらしいリチャードや新参者の兵士が緊張している風なのもまた、不安を煽った。ただ一人メイリンだけが涼しい顔で、の訪れを待っている。

 がさり、と近くの茂みが大きく揺れた。そして、縄でも投げられたかのように、なにか長いものが茂みから飛び出て、魔物の死体に巻き付いた。蔦だった。一掴みしなければ持てない太さの、鮮やかな緑色の植物だ。

 それが茂みの中から何本も何本も。

 蔦は、艶やかなからだで三体の魔物の死体に絡みつくと、綱引きをするようにずるずると死体を引き摺って血の跡を残し、森の奥へと消えていった。


「………………なんすか、あれ」


 トラヴィスが蔦の消えた方向を指さしながら、引き攣った表情をリチャードに向ける。メイリンに尋ねない理由が、グレアムにはなんとなく解る気がした。


「〈引波プル〉と我々は呼んでいるが、実際のところ不明だ。ただ、この森で死体が出ると、必ずあれが起きる」

「人間でも?」

「人間でも、だ」


 迂闊に死ぬなよ、とリチャードは言う。なにもなくても死にたくははないが、確かに死んだ後にあれに引っ張られ、森の養分にされることを想像するとぞっとする。


「言ったでしょう。〝みな等しく森に喰われる命だ〟と」

「いや、言葉通りの意味とは……」


 せいぜいこの魔の森では死人が出やすいくらいにしか思っていなかった。最悪、この森の中に死体が埋葬されるくらいであると。

 つまるところ同じでも、怪奇現象に見舞われるのは意味合いがだいぶ違う。


「死者が出るだけでこれです。〝森を傷つけるな〟の忠告、呑み込めますね?」


 それがいったいどのような事態を引き起こすのかは相変わらず説明されなかったが、あの〈引波プル〉とやらを見た後では、そういうこともあるのだと受け止めざるを得なかった。

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