初仕事
初めて直面した魔の森は、鬱蒼として暗い印象を持つ以外は、特に普通の森と変わりなかった。変な植物が生えているわけでもないし、奇妙な声がするわけでもない。普通の陰性の広葉樹林。かつて文明があったという話だが、入口付近だからか遺跡の類も見えるわけではない。魔境とは思えぬ普通ぶりだった。
そんな緑陰を背景に、メイリンは先程と変わらぬ穏やかな笑顔を見せた。軍服の彼女の腰には、なんと
その後ろ、三歩ほど下がったところには、リチャードがグレアムたちやメイリンの様子を見守るように控えていた。彼の手には木製の
因みに、グレアムたちもまた戦闘用装備でこの場に集まっていて、魔法師兵の二人はリチャードと大差なく、その手には杖がある。トラヴィスは、軍服のジャケットを脱いでおり、シャツの上に革の胸当て着けた姿で、
「ご存知のことと思いますが、我らダイクの駐在兵の役目は、魔の森の魔物との防衛の他、魔の森の調査、観察、魔物との戦闘による〈
「
「失礼しました。フレアリート砦の隠語です」
氾濫を防ぐ堤防の役目を果たすから、と駐在兵たちの間でそう呼んでいるらしい。
「話を戻します。我々駐在兵は〈
戦闘。この道に入ったら逃れられないものと覚悟していたとはいえ、いざ実戦と聞くと身体が強張ってしまう。なにせ、魔法師学校でやってきた実技など模擬戦止まり。本当の意味で命懸けの戦いなど、やったことがない。
「戦闘って確実なんすか?」
「すでに別動隊によって、この先の道で魔物の集団が捕捉されている。ほぼ確実に接触するだろう」
グレアムたちのために、わざわざ見つけた魔物を討伐せずにおいたのだ。新人相手にそこまでするのか、という驚きの一方で、それを平然と行えるだけの実力を持つ者がこの砦に居るのだということを思い知らされる。
「そうしたら皆さんには、三人で協力して戦ってもらいます」
メイリンは何処までも柔和な笑顔でさらりととんでもないことを言う。
「どのようにしていただいても自由。皆さんがどこまでできるか見せてください」
もちろんいざというときは助けますから、と付け加えられるが、戦え、と突然言われた恐怖感と緊張感がそれだけで緩和されるはずもない。
グレアムたちは、互いに顔を見合わせた。皆――特にマシューの表情は硬い。全員実戦が初めてなのは間違いがなさそうだ。
一人一人の顔を確認しながら、グレアムは必死で考える。前衛が一人、後衛が二人。敵は、いったい幾つだろう。トラヴィスはまず敵に貼りついてくれることだろうが、マシューは? 急遽とはいえ魔法師兵にさせられるくらいだから、一応それなりの戦闘力はあるに違いないが、彼にいったいなにができるだろう。
打合せの時間が欲しい、と思った。だが、様子を見る限り、メイリンがそれを許してくれそうな雰囲気はない。説明を終えたらさっさと出発する気だ。
ではいざ、とメイリンは踵を返して、巡回ルートだという道に入ろうとしたところで。
「ああ、忘れていました」
くるり、とこちらを振り返った。一つだけ、絶対厳守の約束事がある、と自分の顔の前に人差し指を立てる。
「この森の如何なる植物も傷つけてはいけません。木はもちろんですが、草花も同様です」
「へ……?」
森を歩く際にはおおよそ不可能と思える約束事に、グレアムたちはまた呆気に取られた。
「歩いている最中に踏んだり、木登りは許容範囲内のようですが。枝を打ったり、花を詰んだり、実っている果実をもいだりするのは完全に禁止です」
「やったらどうなるんですか……?」
「運が悪ければ、死にます」
やはりここは魔の森だったか、と戦慄した。何故死ぬのか分からないところがまた、怖ろしい。
「良ければ?」
ひきつり気味に尋ねるトラヴィスに、うーん、とメイリンは頭を捻る仕草を見せた。
「上手く立ち回れば、五体満足でいられますけれども。……まあ、でもみんなが大変なのは変わりないので、やっぱり避けたいですね」
試すのはもちろんだが、うっかりもできるだけやめろ、とメイリンは念を押す。
「まあこの後、森の様子を見れば、そんなお馬鹿さんなことをしようとは思わないと思いますけれど」
気が遠くなりそうになった。約束事を設けなければいけないこと以外にも、まだ〝魔の森らしい〟なにかがあるというのだ。
その事実を前に、変わらぬ笑顔を貼りつけ続けているメイリンもまたどうかしている。
赴任して早々、うんざりしてしまいそうだった。
しかし、サリックスの翠の眼を思い出して、気を奮い立たせる。グレアムには目的があるのだ。ジュディスが今後平和に生きていくために、〈
「さあ、では行きましょう」
今度こそ、腐葉土をブーツで踏んで、メイリンは道の先を行く。
枝葉で陽の光がほとんど透過しない森の中は、初秋ということもあり、ひんやりとした空気が沈んでいた。土は湿り、軟らかい感触が足の裏に返ってくる。
噎せ返るような緑と土の匂い。これだけでも、自然の中にいることが実感させられる。
道行きは皆無言だった。先を行くメイリンと
トラヴィスもまた、部屋の中でのお喋りはなんだったのか、と思えるほどに大人しい。彼でも緊張しているのだろうか。だが、必要以上に力が入っている様子はなく、森のような大自然も歩き慣れているような、淀みのない足取りだった。……グレアムのほうは、時折根や小石に足を取られかけるなどと、無様な姿を晒しているというのに。
問題となりそうなのが、マシューだ。身体は硬直し、首こそ動かさないものの、左右の確認が
とはいえ、グレアムもあまり偉そうには言えない。歩き慣れない森の道にすでに手間取っているし、初実戦の緊張もある。そしてなにより困ったことに、学生時代にさんざん言われ続けてきたこと――つまり、魔法師兵としての自らの欠点の項目が頭の中を占めていた。どうにかしてこれを克服せねば。卒業考査での好成績好評価も自信までは補えなかったし、学生に戻ってもっと訓練を重ねておきたいとすら思う。要するに、怖気づいている。
「あ……」
ふと、前方から吐息が漏れる。かちかちに固まっていたマシューが、左の方へと視線を飛ばしていた。なにかを魅入られているように見つめている。
その視線の先を追って、グレアムもまた吐息が漏れた。
二十歩ほど離れた先、枝葉を掻き分けて陽の光が降り注ぐ一角があった。そこだけが影から切り離されたように、光り輝いて見える。白と緑の光りに包まれているのは、石造りの建物だ。煉瓦積みとは違う、扁平な白灰色の壁。湿度の所為だろうか、罅の模様を作って苔が
壁は、おそらくグレアムの背の高さくらいのところから崩れ落ちていた。中に埋め込まれていたらしい金属の繊維が断面から飛び出て、外側へと仰け反っている。
文明の跡。
疑っていたわけではないが、噂は本当だったのだ、と静かに興奮が湧き起こる。
ならばどうしてこの場所は、文明が侵食され、魔物が出るようになったのだろう。湧き上がっていく疑問に、思考が深く取られかけたとき。
「警戒しろ」
背後からの低い声が、グレアムの意識を浮上させた。
背筋が伸びる。父に叱られたときのようだ、と思い、殿を務める男が、父と同じように厳しさを持つ男であることを思いだした。
「そろそろ出てくる」
ひゅ、とグレアムは息を吸い込んだ。森の匂いに体内が満たされ、外への感覚が鋭敏になっていく。障害が多い場所で視覚はあまり役に立たないので、耳を澄ます。鳥の声すら聴こえぬ静けさが異常だと気付く。
がさり、と陽溜まりの奥が揺れる。
茂みの奥から顔を出したのは、あろうことか、大きな蜥蜴の魔物――〈
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