はじめて見る横顔
「ジュディスは、幸せになれますか」
グレアムのその言葉を、ジュディスは玄関に程近い木の上から聴いていた。ざわり、と葉擦れの音よりもずっと大きく不穏な音を立てて、ジュディスの胸の中が騒めく。
――幸せにって、なによそれ。
暗い感情が怒涛のように押し寄せる。猫の姿でなければ、叫びだしていたかもしれない。
根拠のない兄の返事にあっさり納得して帰るグレアムに、ジュディスの腸が煮えくり返った。
毎週のように訪ねておきながら、どうしてこういうときばかり潔いのか。そのことがとても腹立たしい。
衝動的に、ジュディスはグレアムの後を追った。四ヶ月に渡る変身生活のお陰で、猫の身体にはもう慣れている。その身体のしなやかさを駆使して木から木へと跳び移り、塀を越えて敷地の外に出た。
グレアムは薄曇りの空を見上げながら悠々と歩いていた。いつもはせっかちな歩き方をする癖に、今日はやけにゆったりと歩を進めていた。それにまた腹が立つ。厄介な荷物を下ろせたとでも思っているのだろうか。
ジュディスは苛々しながら猫の足で塀から塀へと飛び移り――片足を踏み外した。角で白い腹を擦りながら、整備された道路の上へと落ちていく。叩きつけられた衝撃に、びゃ、と声が出た。
猫の身体に慣れた、と思って油断した。右半身の痛みに呻きながら身を起こすと、頭上から影が差す。
「大丈夫か?」
グレアムがいた。膝に手を当てて身体を直角に折って、深海色の瞳で猫を覗き込んでいる。
ジュディスの身体はグレアムを見上げたまま固まった。咄嗟に彼を追いかけたのは良いが、なにをするかまでは考えていなかった。
「あそこから落ちたのか。……間抜けな奴だな」
ジュディスが落ちた石塀を見上げながら、ふわりと微笑む。間抜けと言われたことも忘れ、ジュディスの心臓が大きく跳ねた。久し振りに見る穏やかな表情を放心しながら見上げる。
「どうした。……怪我でもしたのか?」
しゃがみ込み、ますます顔を近づけて心配そうに覗き込むグレアムに、ジュディスの身体はいっそう硬くなった。ジュディスの気もいざ知らず、グレアムは眉間に皺を寄せながら猫の身体をあちこちと見回し、顔を上げて辺りを見回した。
「飼い猫ってわけでもないんだな。野良が何処かから迷い込んだのか?」
グレアムの言葉にはたと気づく。貴族が犬猫を飼う場合には、自らの所有物であることを証明するために、首輪をつけることが一般的だ。しかし、本当は人間であるジュディスは、猫から戻るときに首輪をしていない。そして、ここは貴族の邸宅が立ち並ぶ区画。野良猫と判断されるのも無理はなかった。
どうする気だろう。ジュディスの額に汗が浮いた――ような気分に陥った。
両脇に手を入れられ、持ち上げられる。腹を晒すことになり羞恥で顔が熱くなったが、グレアムは素知らぬ顔で猫を器用にうつぶせにして両腕で抱え込んだ。そのまま歩き出す。
数分して、二人は家立ち並ぶ景色から開けた場所に出た。道路が十字に交差した円形の広場。大きな馬車二台が余裕をもってすれ違えるほどの広さだ。縁に沿って設置されているのは、色とりどりのパンジーの植わる花壇。中央には、白い石で造られた噴水。
グレアムは噴水の縁に腰かけると、猫の身体を持ち上げてあちこち調べまわった。脚、胸、腹と指でなぞるように触られて、ジュディスは狼狽してまともに思考できなくなった。
「……特に怪我はなさそうだな」
安堵の溜め息が混じった声とともに、ジュディスはグレアムの隣に下ろされた。ぱちぱちと目を瞬かせる。怪我の有無を確認されていたのだ、とようやく理解が追い付いてきた。ジュディスが悲鳴を上げなかったから、怪我がないと判断したのだろう。
「まあ、俺は動物の身体には詳しくないから、確かなことは言えんが。治癒の魔法は使えないから良かったよ」
ふわりとした笑みを浮かべているのを、頭を撫でられながら呆然と見上げる。グレアムが普段見せることのない類の笑み。――だが、ジュディスはそこに翳りがあるのを見て取った。
グレアムはわしゃわしゃと猫の頭を撫で続ける。ジュディスはされるがままになっていた。
背後で、噴き上げられた水が水面に叩きつけられる音が響く。
静かだった。昼間なのに、周囲に人はいない。暖かくなってきて、日傘を差して散歩する令嬢がいてもよさそうなのに、まるで二人のためにこの場が用意されたかのように、見事に人の気配がなかった。
道路も、塀も、街路樹も、綺麗に整備された景色をぼうっと眺めながら、ジュディスは冷静になった頭でどうするべきかを考えていた。人間に戻って婚約解消を承諾した恨みを言う? 他人に嫁ぐことをあっさりと祝福したことに文句を言う? それとも意趣返しにこの猫の爪で引っ掻くか? どれも自分のやりたいことではないような気がして、白い石の上に腹ばいになっていた。
その間もグレアムは、しつこいくらいに頭を撫でている。どうしたのだろう、と不思議に思った。グレアムは、特別動物好きというわけでもなかったはずなのに。
「お前は、行く場所があるのか?」
唐突に言葉を落としたグレアムに、ジュディスは顔を上げた。後ろに着いた右手に体重を預けて座るグレアムは、まっすぐに伸びた道の向こうに視線を飛ばしながら、独り言のように続けた。
「俺は、とうとう失くしてしまったな」
なにを言っているんだろう、とジュディスはグレアムを見上げた。彼には家も学校もあって、何処でも好きなところに帰れるはずなのに。
「昔の婚約者が、他の男のところに行くのが決まったんだそうだ。当然だな。もういい年齢だし、少し痩せぎすだが、見た目もいい。王太子の下に行っても、遜色ないだろう」
ジュディスは人知れず頬を赤らめた。思えば、こんなふうにグレアムに容姿を誉められたのは初めてだ。ドレスが似合う、とかそんな言葉は貰ってはいたけれども。
「めでたい話だ。そう思う。そう思うんだけれども……」
身を起こし、猫の頭を撫でるのを止めたグレアムは、両手を組み合わせ、肘を膝に着けて前のめりになった。頭を垂れて、腕の間から靴の先に視線を落とす。
「馬鹿だな、俺は。自分から裏切っておいて、大事にもしていなかったくせに、置いていかれたように感じてしまうなんて」
目を伏せて、頭を振る。灰色の髪が心許なさそうに揺れた。
「謝りに行っていたのも、けじめをつけるためだ。赦されようなんて思ってはいない。そのはずだったんだが……」
腕を持ち上げ、広げた掌で目を覆うように頭を抱えた。
「やっぱり俺は赦されたかったんだな。まったく、なんて浅ましい。どうしてそんな図々しくいられるんだ俺は」
低く乾いた笑い声が、グレアムの口から漏れる。その姿が泣いているように見えて、ジュディスは口を開く。しかし、猫の口からはなんの言葉も出なかった。
グレアムにかける言葉を、ジュディスはなに一つ持ち合わせていないのだ。
「……でも、これで吹っ切れた」
ひとしきり笑ったあと顔を上げたグレアムの表情は一変していた。涙の流れていない頬を引き締め、深海色の鋭い瞳で何処か彼方を睨みつけている。
「これで心置きなく、魔の森に行ける。ジュディは俺の知らないところで幸せになって、安全で、魔物から遠ざけられるというのなら、それで良い。あとは俺が、魔物を狩り尽くすだけだ」
決意を口にするグレアムの横顔は、悟りを得たような穏やかな顔をしていた。憑き物が落ちたような顔。だが、何処か寂しげでもあった。
ジュディスがはじめて見る表情。
視線が釘付けになる。胸が締めつけられる。
思わず伸ばした手は猫の前足のままで、グレアムの腕を掴むことができないと知って力なく引っ込めた。猫であるこの身が恨めしく、けれど魔力を断って人の姿に戻る勇気も出ず、爪先で石の表面を引っ掻いた。
――魔物なんて、狩らなくていいのに。
どうして昔から、グレアムは戦うことにこだわるのだろう。
そういえばその理由を、ジュディスは知らない。
「……つまらない話をしてしまったな。悪かった」
立ち上がったグレアムは、そうして猫の頭を一撫でした。
「付き合ってくれてありがとう。少し、気が楽になったよ」
早くこの区画から出たほうが良い、他の人間に見つかったら捕まりかねないぞ、とグレアムは市民街の方向を指差した。
「それじゃあ、元気でな。高いところには気をつけろよ」
手を振って、魔法師学校の方角へと立ち去るグレアムの後ろ姿を、ジュディスは座ったままじっと見送った。グレアムの言葉を反芻し、表情を思い返し、自分が感じたことをそのまましばらく思案した。
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