第四章 群霞、晴らす

謝罪訪問

「なにをしに来たの?」


 藍色の前髪の隙間から、ディックの翠の瞳がグレアムを射抜いた。やや上向きの鋭く冷たい視線をグレアムは粛々と受け止める。

 グレアムがいるのは、ウェルシュ家のタウンハウスの玄関前だ。訪問して門を開けてもらえたが、こうしてディックが立ちはだかり、家の中には入れてもらえずにいる。もちろん彼らの期待を裏切ったグレアムに否やはない。むしろ敷地に入れてもらえただけ幸運だと思っている。

 ウェルシュ家の庭は雪解けの時季を迎えたからか、冬枯れていた景色の中に小さな新芽の色を見せていた。しかし空気は、ここ最近の暖かさから一転して冬が舞い戻ってきたかのように冷たい。早く帰れとばかりに、強い風がグレアムの身に吹き寄せた。

 それでもグレアムは、手っ取り早く用事を終わらせる気はない。春荒れに屈するような、生半可な覚悟で訪れたわけではなかった。


「先日の件につきまして、改めて謝罪に伺いました」


 もはや他人であるということを念頭に、丁寧に頭を下げ用件を述べると、両腕を組んだディックはますます眉間に皺を寄せる。じと、としばらくグレアムを見て、目を伏せて呆れたような溜め息を零した。


「聴いたよ。最近調子が悪いんだって?」


 自分の魔法師学校での様子を知っていることに驚いて顔を上げると、ディックはグレアムの顔に自分の顔を近づけた。グレアムの真意を見定めんとしているようだった。


「ジュディがいないと魔力が足りなくて困るから、謝って許してもらおうとでも思ったのかい?」

「いいえ」


 グレアムはこれをきっぱりと否定した。


「魔力については、己の真の実力を把握していなかった俺の不徳です。ジュディスは関係ありません。それよりも……俺が無茶することで、彼女に負担をかけていたことに気が付かなかった。話も聴いていなかった。そのことについてもまた、謝らなければならないと思っています」


 ジュディスが学業を怠けるようになった理由を、グレアムは先日の帰省のときに改めて母から聴いていた。そういえば、とそこでようやくジュディスから打ち明けられたときのことを思い出したのである。

 それは、二年ほど前のこと。奇しくも、ジュディスが再び体調を崩すようになったときと、グレアムが講師に魔法師兵以外の道を勧められたときと時期が重なっていた。

 このときのグレアムは、自らのことにばかりかまけて、ジュディスの必死の訴えを聞き逃してしまった。そればかりか、ジュディスが講義を休みがちになったのを本当にただの怠慢だと思い込んでしまったのである。婚約の理由をきちんと理解していなかったこともあるとはいえ、浅慮にも程がある。あまりにも自分が愚かで、悔やんでも悔やみきれない。いくらけなされても足りないくらいだ。

 申し訳ありませんでした、とグレアムはもう一度、深々と頭を下げた。それから少しだけ頭を上げて、口元を歪める。


「本当は、ジュディスに直接謝りたかった」


 そのために、追い返されるのを覚悟でウェルシュの邸宅へと赴いたのだ。ジュディスになにも非はない、すべて自分が悪いのだということを、ここで今一度明らかにするために。


「ジュディは……今、寝ているよ」


 ディックの表情がまたしても歪む。当初の嫌悪の表情とは違い、困惑を含んだ複雑な表情。


「体調はまだ悪いのですか?」

「そりゃあね。……それでも、落ち着いてきてはいる」

「それは良かった」


 とはいえ、あれからもう三ヶ月以上経つ。それでもなお、身の内の魔力を制御できずに体調を悪くしているのだとすると……自分の責任の大きさを思い知らされる。


「また、伺ってもよろしいですか?」

「来ても、ジュディには会えないよ」

「では、容態だけでも伺いに。また来週参ります」


 拒絶されるまでは謝罪に来よう、というのがグレアムなりのけじめのつけ方だった。訪問先の迷惑も考えたが、これ以外の謝意の示し方がグレアムには思いつかなかったのだ。

 頭を下げて、暇を告げる。

 強風の中へと踵を返すグレアムに、ディックはなにも返さなかった。



  * * *



 招かれざる訪問者が去り、閉じた扉にディックは凭れる。そのまま天井にぶら下がったシャンデリアを見上げた。高い窓から入り込んだ外光を浴びて、雫型のガラスがちらちらと瞬く。

 あれほど憎々しかったグレアムは、まるで憑き物が落ちたような顔をしていた。ひどく寂しげで、空虚な表情だった。頑固に凍り固まった雪の塊が、日差しを浴びて溶けてしまったかのようで。その呆気なさと意外な儚さに、ディックの心は不覚にもぐらついた。

 義弟となるはずだった男だ。自分を尊敬し、慕ってくれた。可愛くなかったはずがない。後輩になる日を、弟になる日を、とても楽しみにしていたのだ。

 グレアムの葛藤だって、本当は知っていた。体調のことは自分で伝える、というジュディスに強く出られず任せきりにしたのも、そのためだ。二人で話し合ってくれればいいと思ったから。だが、思いつめやすいグレアムと肝心なことを言わないジュディスの性格を知っているのなら、もう少し口を出すべきだったのだ。


「……結局、誰も中途半端」


 溜め息が零れる。なにかに急き立てられていたかのように婚約解消を進めていたのはなんだったのか、と自分のことが分からなくなった。

 眼鏡の縁にかかった前髪を掻き上げ、そのまま頭を乱暴に掻き毟って、赤絨毯の階段を上がろうとしたところで、上のほうに蹲る小さな影に気が付いた。


「ジュディ……見てたの?」


 立ち竦んだまま階段の手摺の隙間から玄関を見下ろしていた灰と黒の縞猫は、すい、と視線を背けた。猫だからだろうか、その顔色をディックは読むことができない。


「また来るって言っていたけれど、どうする? 会う?」


 そう尋ねて、グレアムの次の訪問を拒絶していなかったことに、今さら気が付いた。

 猫のジュディスは否定するような仕草をして、しなやかな尻尾を立てながら邸の何処かへと去っていった。




 次の週末、本当にグレアムはまた訪れた。ジュディスへの見舞いだという花束を持って。

 魔法師院訪問時に人間に戻ったジュディスはなにも言わなかったので、ディックは彼を玄関先で追い返した。グレアムもまた判っていたようで、ジュディスの容態だけ聴き、花を置いて帰っていった。

 そしてまた次の週、そのまた次の週と、花を持って訪れた。千寿菊マリーゴールド鋸草アキレア文目アイリス金蓮花ナスタチウム――いずれも見舞いによく使われる、健康を気遣った花言葉を持つ花だった。

 あの朴念仁が言葉を気にして花を選んだことに驚く一方で、本当にジュディスの健康を気遣う以外の意味はないのだということを思い知らされる。

 だからだろうか。ディックは花の扱いに困りつつも、「迷惑だ」の一言が言えずにいた。


 だがそれも、五回目となると、お互いこの不毛なやり取りも終わりにしなければ、と思えてくる。ジュディスにもグレアムにも、この状況が芳しいものでないことは明白だった。


「もう来ないでくれないか」


 苦々しい気分で受け取った紫色の花束を握りしめながら、ディックは声を絞り出した。グレアムがわずかに目を瞠る。

 初回の来訪はまだ、風の冷たさを感じていたというのに、いつの間にか本格的な春を迎えていた。小鳥たちが囀りながら緑の増えた庭をぴょんぴょん駆け回っている。

 だが、大きく張り出したひさしで日の光が遮られたこの玄関だけは、まだ空気がひんやりと冷たかった。


「君の気持ちは、痛いほどに伝わった。できればジュディに会わせてあげたいとさえ思う。……でも、駄目なんだ」


 束の間躊躇うも、意を決して口を開いた。


「グレアム。ジュディはね、王太子殿下の側室になることが決まっているんだよ」


 半分嘘だ。内定はしているが、ジュディスはまだ行くと決めてはいない。それでもあえて断言することで、グレアムが引き下がりやすいようにした。


「それは――」


 深海色の瞳がますます大きく見開かれた。その様子に胸が騒つきながらも、無表情を徹してディックはなおも告げる。


「殿下から望まれてのことだ」

「そうですか……」


 グレアムの視線が煉瓦の足元に落ちた。ディックは息を詰めてグレアムの表情を窺う。彼がどんな反応をするのかが気になり、そんな自分に戸惑った。グレアムがどう思おうと、今更どうにもなりはしないというのに。


「ジュディスは、幸せになれますか」


 視線を上げたグレアムが、ぽつりと零す。


「殿下はきっとしてくれる。僕はそう思うよ」

「そうであるなら、良かった」


 安堵の表情に、今度はディックの眼が見開かれた。安堵とはいっても、ジュディスとの縁が切れたことを喜ぶ類のものではない。ただ純粋に彼女を祝福する言葉。グレアムという人間の器量を思い知らされた気分になる。


「確かに、男の俺があまり訪問してはご迷惑ですね。今日限りで止めさせていただきます。どうかお幸せに。よろしければ、それだけお伝えください」


 一礼をして踵を返そうとするグレアムに、何故だかディックは慌てた。ごねて欲しいとは思っていなかったが、まさかこうもあっさりと身を引かれるとは思わなかったのだ。

 気付けば、グレアムに対して制止の言葉を投げかけていた。怪訝そうなグレアムの視線を受けつつ、必死に言葉を探す。


「……一つだけ。君は、これからどうするの?」


 今ここで、完全に道が分かたれた彼の行く末が気になって、ディックは尋ねた。何故かそうするべきだと感じたのだ。

 ――グレアムなど知ったことではない、と自分はまだ割り切れていないのか。

 悩むかと勝手に予想したグレアムは、ディックをまっすぐに見つめてはっきりと言った。


「魔法師兵になったら――俺は、魔の森へ行きます」


 その言葉を聴いて、ディックは雷に打たれたような衝撃を受けた。

 魔の森。アメラスの北西にある、魔境の地。〈氾濫フラッド〉の発生源でもあるその場所へ行く、その理由に察しがつかないほど鈍くはない。

 ――やはり、姉の言う通り、早計だったのか。

 愕然としたディックはその場に立ち竦んで、グレアムの背をただ見送ることしかできなかった。

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