叶わない夢ならば
――懐かしい夢を見た。
今はもう、叶わない夢だ。
王太子との茶会も回数を重ねると慣れていって、寒さの盛りが過ぎた頃には必要以上の緊張をするようなことはなくなっていた。彼が気さくだということもあるし、演奏を褒めてもらったということもまた大きい。共通する趣味は話を弾ませて、ひたすらお茶を飲んでやり過ごすなどということもなくなってきた。
そんなある日。魔法師院に行くわけでもないのに、突然ディックが変身を解くように言ってきた。ロデリックがウェルシュ家を訪問するのだという。どんな約束があるのか、と訊いたら、曖昧な応えしか返ってこなかった。なんだか変だと思いつつも、拒む理由もないので従う。
「ジュディは、ロデリック殿下のことをどう思う?」
使用人に来客を告げられ、浅緑色のドレスを着たジュディスはディックと共にエントランスホールの階段を下りていた。
「優しくて気さくな方……かしら。政治向きのことは判らないけれど、賢い方だと思うし」
「政治方面でも有能な方だよ。この前も軍部の人間を言い包めていたし……って、そういう人としての評価じゃなくてさ」
ジュディスは首を傾げた。ディックの質問がなにを意図しているのか把握できない。
「まあ、これから分かるか……。それじゃあ、いってらっしゃい。後は頼んだよ」
投げやるような兄の言葉に目を瞬かせた。
「……え? 私一人なの!?」
「今日、殿下はジュディに用事があるんだよ」
――聞いてないっ!
なんて、客間の扉の前で叫べるはずもなく、頬を膨らませながら静かに扉をノックした。
「失礼します」
ロデリックは、テラスに面した大窓の傍に立っていた。纏められた
ジュディスの入室に気付いたロデリックは、視線だけをこちらに向けた。
「もう
声に釣られるように、窓の外へ目を向けた。まだ芽も付けていない楡の枝に、褐色の羽衣に黒い斑紋を入れた小さな春告鳥が留まっている。
「まだ冷え込むけど、着実に春は近づいてきているんだね」
囁くような柔らかい声で言う彼は、心ここにあらずといった様子だった。それでも、途方に暮れたジュディスに気が付いて、座ろうか、と促してくれる。
円卓の上に紅茶が配られてようやく、ロデリックは話を切り出した。
「突然訪ねて悪かったね。実は、話しておきたいことがあって」
「話、ですか?」
魔法師院に行ったときではいけなかったのだろうか、と思うのだが、こうしてわざわざ来たからには他人に聞かせたくない話でもあるのだろう。ただ、そういったものが自分に関わりがあるとは思えなくて、やはりこの状況に疑問を持たずにはいられなかった。
しかし、ロデリックはすぐに本題に入ることはなかった。
「変身魔法を使うようになってから、調子はどうだい?」
「良い……と思います。猫の姿でも、具合が悪くて寝込んでばかりいるよりは、気分良く過ごせておりますし」
「でも、ずっとそのままというわけにはいかない。そうだろう?」
カップを手で包むように持ったジュディスは、ロデリックから視線を逸らした。それは、気づいてはいたが考えないようにしていた事実だった。
失恋の傷に甘えていないで、本当はそろそろ真剣にこれまで考えてこなかった将来を考えなければいけないのだが、ではどうすればいいのか、といったことが全く想像つかなくて、つい先延ばしにしている。
あとはもう、普通の貴族子女のように両親に任せるか。
それを王太子に言う勇気はなかった。
「……私としても悩んだんだ。君にとってこれが本当に最善の道なのか。だが、私が君にできることはこれしか浮かばなくてね……」
ジュディスは眉を顰めた。兄もそわそわとして様子がおかしかったが、ロデリックもまた様子が変だ。二人していったいなにを企んでいるのか、と訝しむ。
企んでいるのだろう。ディックはともかく、ロデリックがジュディスの将来に頭を悩ませる謂れはないのだから。それなのにこのようなことを言うのだとしたら、兄がなにか相談したのだとしか思えない。
やがて、意を決したロデリックの眼が真っ直ぐジュディスを射抜いた。
「ジュディス」
名前を呼ばれて、どきりとした。固唾を飲んで続く言葉を待った。
「私の側室にならないか」
ぽつりと落とされた一言は部屋の中で重く響き、一呼吸おいてその意味を理解したジュディスは、頭の中が真っ白になった。
「兄様、どういうことなの?」
ロデリックがウェルシュ邸を去った後。見送りを終えたエントランスホールで眦を吊り上げたジュディスは兄に詰め寄った。普段あまり見られない剣幕のジュディスに怯えたディックは、慌てて片手を前に突き出して白い壁際まで後ずさりした。
「待て待て誤解だ! 僕は殿下になにも頼んじゃいないって」
「ならどうして、私が殿下の側室だなんて……っ!」
ジュディスは声を荒らげた。王太子の側室だ。グレアムのことがあったにしても、突然降って湧いてきたとしか思えない事態に、ジュディスの頭は混乱していた。ウェルシュ家は、少なくともジュディスが生まれた頃からは、そういった政治の中枢に食い込むような立場になかったのだ。しかも父は伯爵位。侯爵家を差し置いて来るような話ではないと思っていた。
なら可能性として、兄が要らぬお節介を働かせたのではないかと思ったわけだが、ディックは全力で否定する。
「殿下は、ジュディの将来を心配してくださったんだ。それで、自分ができることを提案してくださった」
「それが側室!?」
「仕方ないだろう、殿下は結婚が決まっていらっしゃるんだから」
ロデリックには婚約者がいた。相手は、南の隣国ラプシェの第三王女シャルロット。今年の春の終わりには挙式の予定で、その準備のためにシャルロット王女はもうアメラスに入国され、城で生活されているとジュディスは聴いていた。
国の世情を見ても、時期からしても、どうあっても破談にはできないから、どうしてもジュディスは側室という立場になってしまうのだ、とディックは諭すように言うけれども。
「そういうことじゃなくて!」
王太子妃になりたいとか、側室の立場は嫌だとか、ジュディスにそういう野心や矜持はない。結婚が決まっているロデリックに輿入れする話が出ていることそのものが問題なのだ。
シャルロット王女の年齢はジュディスの一つ下で、ロデリックとは十一の歳の差となる。乙女と呼べる年齢の姫君が、結婚相手に側室ができると知って、いったいどう思うか。
「むしろシャルロット王女が勧めてくださったと聞いたよ、僕は」
近況としてジュディスのことを話したら、シャルロット王女のほうから「それなら側室にすればいい」と提案してくれたのだ、と。
シャルロット王女が側室の存在を許すことも驚きだが、いったいどういう伝え方をすればそういう結論になるのか、不思議でならない。
「正直、僕は良い話だと思う」
ジュディスの様子を窺いながら、しかしはっきりとディックは言った。
「お前の病状を理解しているし、気も合うんだったら……お前の結婚相手としてこれ以上の人はいないんじゃないか?」
やはり兄としてはそこなのか、ともう一度ディックの介入を疑う一方で、納得する自分がいた。
それに、ロデリックは他にもいろいろ提案してくれているのだ。
側室となる以上どうしても子どもを成してもらう必要はあるが、それも一人で良い。
義務さえ果たせば自由に過ごしてくれて構わない。
そう約束してくれた。
正直、ジュディスから見てもなかなかの待遇だと思う。何処まで言葉通りに履行されるかは疑問だが、多少なりとそういった環境を用意してくれるはずだ。少なくとも、趣味を否定されないのは良い。
「僕としても、よく知った相手と一緒になってもらえると安心だし」
「私は……」
こういう話をしていると、どうしてもグレアムのことが頭を過ぎる。
「分からないよ……どうするべきなのか」
懐かしい夢を見た。
グレアムと婚約したばかりの頃の夢。
ヘリアンサスの花畑で、グレアムに求婚される日をずっと待ち望んできた。
しかし婚約を解消した今はもう、叶わない夢になってしまった。
――だったら、ロデリックの提案に乗るのも一つの道ではないだろうか。
どうせいつかは家のために、誰かと結婚しなければならない身なのだし。
そうは思いつつも、いまいち踏ん切りがつかない。
両親は、積極的に勧めるようなことはなかったが、拒むようなこともなかった。突然の王太子からの提案に戸惑っている様子だったが、ジュディスが前向きなら、と最終的にはジュディスに判断を任せるそうだ。
そうして結論を先に先にと延ばしているうちに、魔法師院を訪問する日が迫る。
「二十歳になるまで、時間をください」
先日の暖かさが嘘のように寒さが戻ってきたその日。いつも通りロデリックの部屋を訪れたジュディスは、隣に座るディックに励まされながら、そう応えを告げた。答えを出すことのできないジュディスに、ウェルシュ家当主たる父が家族会議の末に下した判断だった。
曰く、ウェルシュ家が王家の仲間入りをすることによる影響が予測できない。だから、しばらく様子を見て判断したい。
また、グレアムに替わる婚約者探しも諦められない。欠点はあるものの新しい魔力の受け取り手が見つかることが、現状一番ジュディスの体調が楽になる手段であるからだ。
以上の点と、ジュディスの結婚の適齢期を鑑みて、二十になる年までに結婚が決まらなかったらロデリックの側室に収まる、という結論に達した。
「それでどうでしょう、殿下」
おずおずとディックが尋ねる。もちろんこのウェルシュの結論は、ロデリックの一存で容易に覆る。ロデリックが否と言えば、ジュディスは彼の側室になる他ないのだ。
それを全て承知の上で、ロデリックは提案に頷いた。
「待つよ。君の覚悟が決まるまで」
穏やかな表情で、けれど少し寂しそうに言うロデリックに、ほっとしたジュディスの胸の内に去来するのは、諦念だ。
夏生まれのジュディスに残された、およそ二年の月日。その間に、これまで願っていた未来が、ますます遠ざかっていくことだろう。
色褪せた想い出が鮮やかさを取り戻すことはもうないのだ、と思うと、この先どんな未来があったとしても、灰色の人生にはきっと変わりない。
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