二色の記憶

「まったくこの子は……どうしてこんなことになってしまったのかしら」


 グレアムの帰宅を楽しみに、などと父は言っていたものの、実際母の部屋を訪れたグレアムが聞かされたのは、嘆息を混じえた小言だった。

 グレイシア・アクトン伯爵夫人――グレイスの愛称で親しまれている母は、厳格な父の妻とは思えぬ気怠げアンニュイな雰囲気の人物だった。薄墨の前髪を左頬のみに垂らし、残りは後頭部ですべて纏めて団子にしている。常に半眼にしているかのように細くなった黒目には、下縁の眼鏡。二藍の衣装に身を包んだ姿は、まるで家庭教師の装いだ。事実、母は婚前に教師をしていたことがあったという。こう見えて、結構教育熱心だ。

 そんな母は、グレアムを招き入れた梅鼠うめねず色の整った私室で、紅茶を片手に滔々と説教をはじめたのだ。……とても息子の帰宅を喜ぶ母親には見えないが、幼少の頃からこれがグレイシアなりの愛情表現であることをグレアムは知っている。


「私、ジュディスがお嫁に来るのを楽しみにしていたのよ?」


 決して叱るのではなく、言い聞かせる体裁を崩さない母に、グレアムは縮こまる。


「それは……存じております」


 常に気怠そうな母と、おっとりしたところのあるジュディス。方向性は違えど猫のような気質を持っている二人はとても気が合った。度々ジュディスと二人だけでお茶を飲んでいたくらいである。

 思えば、ジュディスとの婚約は、なにもかもがうまくいっていた。自分は、それをすべて無に帰したのだ。


「それで、どうするの?」


 具体的なことは言わなかったが、父の言う〝責任〟の話だとグレアムには解った。気質の違う二人だが、さすがに夫婦関係がうまくいっているだけあって、レイモンドとグレイシアは志向は一致しているのだ。


「……判りません」


 あと半年ほどしかない魔法師学校を卒業することだけは決めていたが、跡を継ぐ準備をするか、魔法師になるか、グレアムは決めかねていた。

 父の言う通り、グレアムは魔法師になる理由を失った。だからといって魔法師兵になる夢を投げ出すことにも抵抗があるが、魔法師兵になったところで果たせる〝責任〟があるのかどうかも疑問だ。

 一方、跡継ぎとしてアクトンに尽くすことは、少なくともグレアムが落としてしまったアクトン家の評判を改善方向に働きかけることができるだろう。

 それを考えれば、どうすべきかは自ずと見えてくる。しかし、グレアムはその通りにすることに躊躇いがあった。


「そう……。あなたの指針は、ジュディスだったものね。それを失くしたのだから、無理もないわ」


 紅茶片手にあっさりと言われてしまって、グレアムは項垂れた。ジュディスを傷つけた罪悪感も然ることながら、自分自身に関わるあらゆることにジュディスを言い訳にしていたことに気付いたのだ。

 ジュディスをさんざん利用した身でありながら。

 自分が如何に情けない男であるかを思い知る。


 気落ちした息子を眺めやり、グレイシアは頬杖をついた。ふぅ、と溜め息を吐くと、陶磁器のカップの縁を人差し指でなぞりはじめる。


「あの娘はね、いつもあの日のことを嬉しそうに話してくれたのよ。大事な大事な想い出だと、それはもう幸せそうに」

「あの日……」

「そう。ウェルシュの一家とカンテの柳葉向日葵ヘリアンサスの花畑に行ったときのこと」


 ――また、あの場所。

 グレアムの表情が歪む。

 雲一つない蒼い晩夏の空の下、一面に広がる太陽色の絨毯。 二色ふたいろに塗り分けられた世界は、確かに子ども心にも鮮烈だった。

 特に幼い少女だったジュディスは夢みたいに綺麗だ、とはしゃぎ回ってはいたが――しかし、彼女にとってはそれだけの場所のはず。

 だからグレアムには、ジュディスのヘリアンサスの花畑への執着ぶりが一向に理解できないのだ。


 そんな息子を見て、グレイシアはカップの縁から指を離すと、その手を頬に当て、また溜め息を吐いた。


「いつかあの場所で求婚プロポーズしてくれるんだって。そういう約束なんだって」

「プロポーズ……」


 呆然とその言葉を繰り返す。



  * * *



 婚約したばかりのグレアムとジュディス。年の頃は十一。この頃のグレアムはもう貴族としての自覚は芽生えていて、貴族の婚約・結婚の意義するところは理解していたが、その反面で連れ合いを持つことのその意味――つまり情の面がよく解っていなかった。

 そんなグレアムに気付いたのか、両親は、両家の親睦を深めんとウェルシュの一家を自身の領地に招待した。

 花の観光地として名高い、アクトン領カンテ。

 街のホテルを借りて、一週間ほど。

 真面目な父は、その間にも仕事をしていたりしたが……ゆったりとした日々をともに過ごすことで、それまで関わりの少なかった両家は仲を深めていった。


 グレアムは、正直に言うと、女の子のジュディスよりも魔法師として早くも有名になっていたディックのほうが気になっていたのだが……そのディックに「妹と仲良くしてやってくれ」と言われて、仕方なくジュディスと過ごしていた。街のあちこちを回るのを付き合って、病弱と言う割に元気だと呆れたことを覚えている。


 それは、柳葉向日葵ヘリアンサスの花畑に両家揃って野掛けピクニックに行っても変わらなかった。背の高い小さな黄色の花の中を利用して、やれかくれんぼだ、やれ追いかけっこだ、グレアムたちの年頃ではそろそろ卒業しても良さそうな遊びを彼女はせがみ、ひとしきり繰り返した。

 これにもまた仕方なく付き合って、婚約ってもしかして子守のためなのだろうか、なんて思いはじめた頃。


「ごめんなさい、グレアム。……退屈、だったよね」


 綺麗な白いワンピースが汚れるのも構わずに地面に脚を投げ出して座った少女は、楽しそうにしていた表情をふと消した。背丈の高い花々の隙間から見える青空を仰いだ翠色の瞳からは、灯火が消えたように輝かしい光を失くしていた。


「でもね、私嬉しくって。こんな風に遊んだこと、今までなかったから」


 寂しそうに口元を緩ませた婚約者の顔を見て、当時のグレアムは気まずさを覚えた。このときに至るまでずっと、病弱だなんて嘘だ、と思っていたから。


「あの……やっぱり嫌だった?」


 仏頂面で目の前に突っ立ったままなにも言わないグレアムに、ジュディスは大きな翠の瞳を揺らした。今にも泣き出しそうな気がして、ますます気まずさを覚えて、グレアムはジュディスの眼から視線を逸らして小さく返した。


「別に……嫌じゃない」

「ほんとう?」


 少女が少しだけグレアムのほうに身を乗り出す。輝きが戻ってきた視線が気恥ずかしくなって、グレアムはぶっきらぼうに応えた。


「……本当」

「よかったぁ!」


 大きく撫で下ろした胸の前で掌を叩いたジュディスは、周囲の花に負けんばかりに表情を輝かせた。嬉しそうに笑う彼女の顔を見て、優秀な魔法師のお兄さんのこととか、子守り役のようにジュディスに振り回されたことなどが、どうでも良くなった。


 とんとん、とジュディスが自分の隣の地面を叩く。そこに腰を下ろしたグレアムをじっと見たあと、ねえ、とジュディスは声を掛けた。

 持ち上げた左手に視線を落とした彼女は、最近新しく手に入った銀色の腕輪を撫で擦っていた。婚約の証だというその腕輪は、小さな青銀色の石が嵌っただけの面白味のないバンクル。それでも、彼女は気に入っているようだった。


「私たちが結婚するときになったら、ここでプロポーズ、して?」

「え……」


 頬を染めて上目遣いで見てくる彼女とその言葉に、グレアムの思考は固まった。

 ロマンスを理解しない幼い少年に、幼い少女の願いはとうてい理解できなくて。


「そんなことしなくても、俺たちどうせ結婚するんだし――」

「ね。お願い」


 恥ずかしいから、と拒絶するグレアムにめげず、ジュディスは懇願する。じっと熱を帯びた眼差しが、夏の日差しよりも強くグレアムを射貫いた。

 そんな彼女としばらくにらめっこを続けたグレアムは、


「……わかったよ」


 彼女の熱量に根負けして、しぶしぶ承諾したのだった。



  * * *



 そんな、グレアムにとっては仕様もない記憶。


「忘れていたの?」


 母は、男って奴は、と呆れた様子で、茫然としたグレアムを見つめた。


「いえ……忘れたというよりは……」


 覚えていた。少なくとも、話題に出てすぐに思い出せるくらいには。

 ただ、これは物事がよく分かっていない幼い頃の約束だから、とすっかり想い出の隅に押しやってしまって、気にも留めていなかった。そして、ジュディスもまたそうだろう、と。

 ――それに、グレアムには、それよりもずっと大事なことがあった。

 あの日あの地での記憶は、それに結び付けられている。


「……そうね。あのあと、〈氾濫フラッド〉に巻き込まれたものね」


 無理もないか、と一転して母の眼差しに憂いの色が宿る。


氾濫フラッド〉――魔物たちによる襲撃事件は、奇しくもグレアムたちが野掛けピクニックに行ったその日に起きた。広大な平地であるその花畑にも魔物の手は及び、グレアムたちは魔物たちの襲撃に直面したのである。

 あのときの記憶は、グレアムの胸の奥に赤くべっとりと貼り付いたままだった。


「でも、だからかしら」


 同じくそのときのことを思い出していただろう母は、興味深そうにぬばたまの瞳を息子に向けた。


「あの子は、あなたが無条件で自分を守ってくれると信じていたみたいだから」


 グレアムの心臓が、一つ大きく鳴る。

 それからじわじわと、傷口に塩を塗り込められたような痛みが走った。


「俺も、そのつもりでした」


 瞑目した瞼の裏に、〈氾濫フラッド〉の光景が再び甦る。

 あの日、幸いにしてグレアムもジュディスも外傷はなかった。家族を失うようなことも、また。

 しかし、目の前まで迫った、口内に三列もの鋭い歯を持った蜥蜴トカゲの魔物は恐ろしく、あれに噛まれたら、と幼心に想像して背筋が凍りついたのを覚えている。

 そして、隣りにいたジュディスの怯えぶりは、グレアム以上だった。彼女は恐慌状態に陥り、グレアムとの婚約でせっかく落ち着かせた魔力を暴走させたのだ。

 奇しくも、彼女が本当に身体が弱いのだと知った瞬間である。


 だからグレアムは、彼女が二度とこのような目に遭うことがないよう、魔物と戦えるだけの力を手に入れると決意した。そのために、周囲から別の道を促される中、魔法師兵になるべくずっと精進してきたのだ。

 ……もっとも、ジュディスとの婚約を解消してしまった今、その必要はなくなってしまったわけだけれども。


「――いや、違う」


 忌まわしく恐ろしい記憶を久々に鮮明に思い出して、グレアムの胸の奥底からあの日抱いた感情が再び湧き上がった。

 婚約者を守る必要があったから、魔法師を目指したわけではない。ジュディスが二度とあのような思いをしなくていいように、魔法師という手段を取った。

氾濫フラッド〉が二度と起こらないようにしようと。再び起きたとしても、同じことが繰り返されないようにしようと。

 だったら――


「決めたの?」


 静かに問い詰めるグレイシアの声に、グレアムは視線を上げた。急に視界が開けたような、そんな気分に陥る。

 母の黒瞳がはっきりと見えた。


「はい。俺は、魔法師兵になります。跡を継ぐまでの、一時の間でも」


 自分の眼を真っ直ぐと見つめるグレアムに、母はなにを思ったのだろうか。息を呑んだあとにまた大きく息を吐いて、


「仕方ないわねぇ……。あなた、昔から言い出したら聴かないもの」


 そういうところはお父さんと一緒、と口元を緩めて、母は紅茶を口にした。

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