未知の襲撃
「今日、当番じゃなくて良かったな」
小さな窓から漏れ入る月の光を眺めながら、グレアムは呟いた。
夜。同じ部屋の者は寝静まっている時刻。グレアムは今晩見張りの当番はなかったのだが、どうも寝付くことができなかったらしい。ゆったりとしたシャツとズボン姿でローテーブルの傍にあった椅子を窓のほうまでに持って来て、外をぼんやりと眺めていた。
その手には、いつかジュディスが贈った懐中時計がある。
ジュディスは猫の躰をグレアムの膝の上で丸まらせて、テンプが揺れ動くさまをじっと見ていた。
三年経過しても未だ時計を大切にしてくれていることが、ジュディスには大変喜ばしい。だがその一方で、まだ彼が自分に囚われていることの証明にも思えて複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
壊してしまうべきか。そっと猫足を文字盤に押し付けると、グレアムに優しく払われた。
「嫉妬や僻みだと分かっているが、殿下を守るための見張りだと思ったら、身が入らなかったかもしれない」
そう話す口元は笑いつつ、グレアムの深海色の瞳は沈んでいた。
「どうしようもない男だと思うか?」
そんなことない、と伝えるために、ジュディスは猫の頭をグレアムの胸に擦り付けた。人に擦り寄るなんてはじめは恥ずかしかったこの行為にも、今ではもう慣れている。むしろ人肌を感じられるこの行為が好きになりつつあった。
ありがとうな、と頭を撫でられる。これもまた好きなことの一つだ。……離れられない、一つの理由だ。
「殿下もシャルロット王女と結婚されたと聞いた。ジュディスは、幸せにやっているだろうか……」
言葉とは裏腹に、嫉妬と後悔をない交ぜにした表情を見て、ジュディスの胸が痛む。
――まだ、こんなにも思って貰えている。
悦ばしく苦しいこの気持ちを持て余していた。割り切れないでいた。
「さあ、もう寝ようか」
窓から離れ、ベッドの上で肌掛布団を掛けて横になったグレアムの足元で丸くなる。しかし、グレアムが寝入ったあともジュディスは眠れなかった。
硬い布団を慎重に踏みしめ、そっと枕元へ行き、ジュディスはグレアムの寝顔を眺めた。無防備な寝顔。二十一なのにあどけなく見えてしまうのは、いつも寄っているように見える眉間の皺がすっかりなくなっているからだろうか。
――私は、ここにいるのに……。
そっとグレアムの髪に触れるが、猫の足では踏みつけることしかできない。
それがひどく口惜しい。
――気づいてくれても、いいんじゃない?
そう思いながら、変身を解いてグレアムに会いに行けない自分の勇気のなさを自嘲する。どうしてずるずるとこんな状況を続けてしまうのだろう。
そうして砦にいるというロデリックのことも思い出す。今日は彼がいると聞いて砦内を逃げ続けていた。ロデリックはサリックスの姿を知っている。見つかったら――きっと連れ戻される。
しかし、ジュディスは一年もの間約束を破り続けている。そのことで後ろめたさも覚えていた。以前兄経由で側室入り延期の断りを入れたが、やはり一度きちんと自分の口から言うべきだろうか。
そっと部屋を出る。廊下は、石壁を照らす篝火まで息を潜めているような気がするほど、砦の中はこの上なく静かだった。ひたひたと音なく歩く猫を咎める者は誰もいない。サリックスの存在は、この三年でみんな慣れているからだ。
うろうろとあてどなく砦内を彷徨ううちに、ある部屋の前に辿り着く。そこが王太子の泊まるという部屋だということは、砦の駐在兵が話しているのを聴いて知っていた。
――どうしてここに。
それが後ろめたさ故であることは、なんとなく自分で気づいていた。
どうしようというのだろう、と自らの行動に呆れる。本当に直接会って断りを入れたところで、グレアムから引き離されるのがオチだろうに。
頭を振って踵を返す。
魔物襲撃の鐘が激しく打ち鳴らされたのは、そのときだった。
鐘の音で飛び起きるのは、もはや習慣だ。身体にもう染みついている。だからこそ今回の鐘の鳴らしかたが異様であることにもすぐに気づいた。
ベッドがら飛び降り、ローブを羽織り、杖をひっつかみ、いつものように猫に声をかけようとしたところで、その子がいないことに気が付く。
「サリー……?」
後ろ髪を引かれるが、猫一匹を探し回って前線に出ないわけにはいかないだろう。仕方なくグレアムは部屋を出た。
狙撃が得意なグレアムの持ち場は、城壁の上だ。城塔の螺旋階段を駆け足で上り、城壁に辿り着く。鋸壁の間から森を見下ろして、グレアムは驚愕せずにはいられなかった。
「なんだ、あいつは……っ!?」
それは、巨大な黒い狼だった。牛や馬の大きさなど軽く凌駕する。加えて
このような魔物は、これまで見たことがない。
「あれだ」
近くにいた兵士がたじろいだ。
「最近魔物が来なかったのは、あいつがいたからだ」
見るからに恐ろしい魔物だった。離れた
「グレアム、王太子殿下の様子を見てこい。まだ砦全体で所在を把握していないようだ」
「はい!」
近くの先輩兵士に言いつけられ、グレアムは城塔の中を戻った。
砦の中を走ってしばらくして、同じく走って何処かへ向かおうとしていたロデリックを見つけた。
「殿下! なにをなさっているのです!」
てっきり部屋にいるかと思ったら、白服の近衛兵を二人引き連れてこんなところにいる。なにをしているのか、とグレアムは内心舌打ちした。
「魔物が現れたと聞いた。私も魔法師だ。なにか役立つことがあるはずだ」
これにはグレアムも灰色の頭を抱えずにはいられなかった。まだ若い時分ならともかく、彼はもう三十だ。己の立場を弁えて優先するだけの分別を持っているだろうと思っていたのに。
「いいえ、今回ばかりはお引きください。砦の戦力総動員しても、追い返せるかどうかも分からない相手です。殿下はそれよりも、いち早く避難を」
「しかし……」
ロデリックは逡巡する様子を見せた。王子としての立場と魔法師としての矜持がせめぎ合っているのだろうか。深く葛藤している様子だった。
普段はきっと良い王子様なのだろう。ロデリックの悪評をグレアムは聴いたことがなかった。しかし、今はその良さが仇となっている。
グレアムは焦れた。彼に構っている場合ではない。急いで外に行きたいのに。先程から、砦の外が騒がしくなっていて、そちらのほうが気になって仕方がない。
「……なにか、私にできることは」
それでもなお食い下がるのは、人の好さ故か。それとも矜持ゆえか。
どちらでも良い。グレアムは苛立った。そ大人しく引いてくれれば良かった。周囲の近衛兵もグレアムの気配を察してか、そわそわし出す。
「お立場をお考えくださ……」
ふと、そこで閃くものがあった。王太子に役立ってもらいつつ、安全に避難してもらう方法を。
「……では結界のほうをお願いできますか」
マシューとの会話で思い出す、結界の新装置。王太子の肝いりというくらいだから、性能はロデリックも把握していることだろう。それを最大限に活かしてもらいつつ、安全なところに避難してもらえる。悪くない案のように思えた。
「……承知した」
グレアムの意図を見抜いていたのだろう、渋々ながら承諾してくれた。引き下がってくれたのは、己の立場を思い出したからだろうか。
「場所は把握している。護衛もいることであるし、お前は戻れ」
「そうさせていただきます」
そうして踵を返そうとしたグレアムの視界の隅を灰色の小さな影が過ぎった。
「サリックス! ここにいたか。良かった」
グレアムはサリックスに駆け寄ると、片膝をついてなるべく猫に目線を合わせた。
「ここは危ない。できるだけ安全なところに逃げろ」
グレアムの〝目〟となるサリックスだが、敵の姿が見えている以上、出番がない。なら、連れていくよりも安全な場所に居てもらうほうが安心だ。
「なんだ、猫か?」
背後から覗き込んだロデリックは、サリックスを見てそのまま固まった。
――もしかして、猫嫌いだっただろうか?
「……何故、ここにいる?」
「私の使い魔です」
「使い魔……?」
ロデリックは虚をつかれた表情でグレアムとサリックスを交互に見る。なにか言いたげだったが、廊下の向こうからトラヴィスがグレアムを呼ぶ声が聴こえて、それどころではなくなった。
「マジでヤバい。急げ!」
「分かった!」
遠くにいるトラヴィスに怒鳴り返し、去りざまにサリックスに念を押してグレアムは走り出した。左手に持っていた魔法弓に糸を張ってから、砦の外に出る。
青々とした木々の向こうから、満月がこちらを見下ろしていた。青白い光に、暗く大きな影が浮かび上がる。
見上げるほど大きな狼は、赤い瞳で周囲を睥睨し、腹の底に響くような高い咆哮を上げた。
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