思わぬ再会

「その方、側室にされては如何ですか?」


 それは、三年前の冬のこと。ジュディスの婚約が解消されたあとのことだった。婚姻の儀を数ヶ月後に控え、ラプシェ国からこのアメラスに移り住んだシャルロット王女との茶会の席で、だ。青に包まれたサロンの、青い瑪瑙の板を嵌めた円卓。その上のケーキスタンド越しのシャルロットに、世間話として友人に哀れな妹がいることを言ってしまったのだが、つい熱が入ってしまったらしい。向かいでスコーンを摘んでいたシャルロットは、そんなことを言い出した。


「いや、まさか。貴女との婚姻もまだだというのに、側室の話など――」


 いくらなんでも早すぎる、と言うロデリックの背には、寒い季節なのにも関わらず汗が滲んでいた。なんとなくある焦りの気持ち。そう、まるで、浮気が発覚した男のような気分。

 どう取り繕うか、と言い訳が頭の中を駆けめぐる中で、波打つ黒髪を持つシャルロット王女は白い顔に嵌まった鳶色の目を垂れさせてふんわりとした笑みを浮かべた。


「常々思っておりましたの。殿下は側室を迎えられるべきだ、と」


 ぴたり、と思考が止まる。


「私たちは政略結婚。愛のない結婚です。王族としての役目から仕方のないこととはいえ、愛する相手がいないのは寂しいことでしょう?」


 それからシャルロットは瞑目し、胸の前に両手を当てた。


「私は、あの方との思い出があります。貴方が想うことを赦してくださいましたから、それだけで充分です」


 苦しげに俯く王女の姿に、ロデリックは心を打たれた。彼女は祖国に恋人が居たのだが、アメラスへの輿入れの話が進められた際に、その恋人を喪っていた。

 己のが悲劇を素直に告白し、王妃の勤めを果たす代わりに亡き恋人だけを愛することを赦して欲しい、と請うてきた姿は、まだ記憶に鮮烈に残っている。


「ですが、貴方は?」


 再び開かれた鳶色の眼差しがロデリックを真っ直ぐ射抜く。十も年下の王女の少女らしい純真さに目がくらむようだった。


「愛し愛されることのできる方が、殿下にも必要です。ジュディス嬢なら、そのお相手にふさわしいのではないですか?」

「それは――」


 どうだろう、などという否定に近い言葉は、発せられなかった。

 言い訳はいくらでも考えられる。友人の妹だから。魔力をうまく代謝できない病に罹っているから。だからただ気になるだけだ、と言うことはできる。

 だけど、それは本心なのだろうか。

 ロデリックの脳裏に、いつかの夏の日の光景が蘇る。

 生け垣の間から覗いた、歌姫の姿。

 夏の陽炎が見せたのかと錯覚するような幻想的な光景に魅入られたのは本当で。

 今もまだ、脳裏に焼き付いて離れない。


「私は――」


 もしも、とシャルロットの語る夢を想像する。シャルロットのような良き相棒パートナーだけでなく、愛する人を傍に置けたなら。そしてそれが、彼女であったなら。

 あの歌声を傍に置けたなら。

 シャルロットに後押しされ、決意したのは、それから幾日もかからなかった。


 まさか、約束の二年を越えて待たされることになるとは思っていなかったが。

 それでも、彼女は自分の下に来るのだ、と信じて疑わなかった。


 このときまでは。



  * * *



「サリー! とにかく安全なところに居るんだ! 分かったな!」


 そう言い残してグレアム・アクトンが置いていった猫から、ロデリックは目を離すことができなかった。灰色の毛並みに黒い柳葉のような模様。透き通るような翠の瞳。そして、覚えのある魔力。

 まさか、と思う。

 だが、ディックから聞いた話では、彼女はウェルシュの領地で療養をしているはずだ。体調は思わしくなく、だから側室入りも一年延びている。その間、本人から手紙だって受け取っていた。こんなところに居るはずがない。まして、あの男と共にいるなど。

 それに、そう。グレアムはこの猫を使い魔だと言っていたではないか。仮にジュディスがグレアムの下に居たとして、あの男もさすがに元婚約者を猫の姿のままで、使い魔と偽ってまで傍に置いておくことはすまい。

 そう思うのに、一度浮上した疑念を拭うことができなかった。


「殿下」


 動揺に身体を硬直させていたところを、護衛の掛け声によって我に返る。


「あ、ああ。結界だな」


 顔を上げ、結界装置のある砦の中央に移動しようとして、やはりその猫が気になった。灰色の脇腹に両手を伸ばす。


「連れて行かれるのですか?」

「安全な場所に居たほうが良いらしいからな」


 抱え上げた猫は、抵抗しなかった。


 砦の一階の中央の部屋。一見して他の部屋の入口と変わらない結界室の前に辿り着くと、ロデリックは四人の護衛のうち二人を駐在兵たちの支援に行かせた。残した二人には周囲の警戒を命じて、一人と一匹結界室の中に入る。

 四方に白い紗幕の掛けられた、薄暗い部屋。チェスの駒を思わせる台座に載せられた魔石の青白い光だけが室内を照らしている。中に居た魔法師にここは自分が請け負うことを伝えると、彼はよろしくお願いします、とあっさり頭を下げて部屋を出ていった。どうやら、結界に人手を割くのも惜しくなるような相手であるらしい。

 ロデリックは安堵した。立場を考えると自分の安全は真っ先に優先されるのだろうが、一方で自分はただ危険から逃げ出すだけの王子にはなりたくなかったのだ。嫌がられるのを承知で仕事を貰えるか尋ねて、結果自分の役割を得ることができた。役立たずのお荷物王子の汚名を免れることができたのだから、グレアムの采配には少しだけ感謝しても良い。


 ロデリックはいったん猫を床に置き、結界装置の前に立った。人の頭ほどある真球の魔石に手を添えて魔力を流すと、白色の石の台座を通って床の魔法陣が光り出す。

 ディック・ウェルシュの論文の内容が使われたこの台座は、いわば共振装置だ。結界に使う魔力そのものは、魔力から供給される。魔法師の役目は、自分の魔力を呼び水として魔石の魔力の波長を調律し、魔法陣を使えるようにすること。台座はその調律を助けるためのものだ。元来難しかったその作業は、ディックの論文を参考に作られた道具を利用することで容易になった。

 魔法陣の魔力の光を観察し、外の様子も確認すると、ロデリックは再び結界室に戻った。結界の維持は基本魔石がやってくれるが、魔法師は結界が切れた際の張り直しと魔石の魔力が切れた際の補填のために室内に留まっていなければならない。


 一息ついたロデリックは、再び猫に目を向けた。ロデリックを避けるように、室内の隅に蹲る灰猫。その頭に手を置く。やはり猫らしかぬ魔力の流れを感じ、いつかのように魔力の流れを遮断してみると、猫はみるみるその姿を変貌させた。

 青白い中に浮かび上がる、白いワンピース。藍色の長い髪を下ろした娘の姿へ。


「ジュディス……」


 ロデリックの口から、如何なるものとも言えない溜め息が零れ落ちる。それから口の中に苦いものが広がった。ずっと欺かれていたのだ。ジュディスにも、友人ディックにも。


「グレアムのところに居たのか」


 尋ねれば、ジュディスはただ首肯した。


「三年間、ずっと?」


 もう一度ジュディスは頷いた。慌てもせず、ただ申し訳なさそうに頷くだけの反応に、ロデリックの中で苛立ちが増していく。


「どうして! 君を捨てた男だろう!」


 場所も状況も、怒りの所為ですべて頭の中から吹き飛んで、ロデリックは叫んだ。裏切られた気分だった。自分の下へ来ると言っていたこの娘が、他の男の下に居たなんて事実が赦し難かった。汚らわしささえ覚える。

 だいたい、あの男のなにが良いのか。ロデリックは、ジュディスを側室にするにあたって、婚約者だったその男のことを調べた。確かに学業の成績は良かった。卒業考査もなかなかのものだ。堅物なきらいはあるが、真面目で講師たちからの評判も良かった。伯爵家の後継者として、将来も安泰。だが、それらはジュディスの病状を無視して好き勝手し、他の女に心揺らいだことを帳消しにできるほどのものではない。そう思っていたのに。

 自らの中で暗い感情が膨れ上がるのを感じながら、ロデリックは若葉色の瞳を濁らせてジュディスを睨みつけた。

 だが、ジュディスはロデリックの変化にもかかわらず、澄んだ色の眼でロデリックを見返す。


「だって、私がいなくなったら、あの人はどうなるの?」


 静かな問いを装った答えは、ロデリックの心に突き刺さった。自分を全く見て貰えていないその事実が、想定外にロデリックを傷つけた。


「殿下のもとに行けば、確かに私は魔力の苦しみからも、辛い過去からも逃げられます。けれど、あの人はまだ過去に囚われたまま。もし、サリックスわたしがいなくなったら、あの人は心の拠り所をなくしてしまいます。それを黙って見過ごせるほど、彼との付き合いは浅くないのです」


 そもそも自分の所為なのだから、と言って、ジュディスはこれまでのことを告白した。グレアムが魔法師学校に在籍していたときから猫として会いに行っていたこと。グレアムに求められてこの魔の森へ来たこと。そしてここで一緒に居るために彼の使い魔になったこと。そして、グレアムは未だ正体に気付いていないこと。


「だから私は、サリックスとして彼の傍にいることを決めました。きっとジュディスでは、彼を救えないから。だから、殿下のもとへは行けません」


 ごめんなさい。もっと早く言えばよかった。そう頭を下げるジュディスに、ロデリックは自分でも意外なほどの衝撃を受けていた。見捨てられた気分だった。そもそも、彼女を拾おうとしていたのは自分のほうだったのに。

 夏のあの日の歌声が遠ざかる。


「……一生、猫のままで生きていく気か?」


 ジュディスがグレアムの傍に居るにはそれしかないのだ、と言外に告げるが、ジュディスの心はまったく揺らがなかった。


「それも悪くはないのかも。だって、少なくとも今、辛いことはなにもないのですから」


 そうして向けられた、割れて砕けてしまいそうな微笑みがロデリックの胸を抉った。

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