魔法の指導

 ロザンナは誰もいない広場のほうを向くと、目を閉じて大きく深呼吸した。目を開いてようやく手を前方に突き出すと、身の内で魔力を練り上げる。水の元素が彼女の掌に集まるのを感じた。ロザンナは素早くそれらを魔力の網で捕らえると、掌の先に水球を作りだした。

 できた瞬間は、見事な真球。だが、一呼吸程でその形はすぐに崩れて角だらけの形状となってしまう。

 今度は破裂する前にグレアムが彼女を止め、作りだした水球を消してもらった。


「不安定だな」


 率直な感想を口にすると、ロザンナも弱々しく頷いた。


「そうなんです。だから、さっきみたいに弾けちゃうことが多くて」


 グレアムは顎に手を当ててしばらく考え込んだ。頭の中でロザンナと魔法の様子を振り返り、もう一度見せてくれ、と頼む。言われた通り、彼女は再び水の球を作りだした。グレアムは彼女の手元ではなく、彼女自身に注目した。はじめはゆっくり深呼吸。水の球を作りだすときにはひゅっと息を止め、できたときには細く長く息を吐く。それから形をなんとか維持しようとして、呼吸を早く浅く繰り返して――。

 ぐにゃぐにゃとまた水球の形が崩れてきたところで、グレアムはロザンナを止めた。


「呼吸だ」

「呼吸……?」


 結論を口にすると、よくわからなかったのか、ロザンナは首を傾げた。


「要は魔素の供給の問題だな。君は、魔法を使う前、深呼吸をしているだろう」


 ロザンナは頷いた。おそらく気持ちを落ち着けるためだったのだろうが、彼女は魔法の基本について重要な点を失念していることに、グレアムは気が付いた。


「魔法を使うのに必要な魔素は、呼吸をすることで取り入れられる」


 真剣な様子でグレアムを見ながら、彼女は頷いた。熱心に話を聴くその様子に少し良い気分になる。


「深呼吸することに問題ないんだが、君は水球を作りだした後、緊張の所為か呼吸が浅くなっているんだ。それにより、はじめに体内に供給された魔素の量と、魔法を維持しているときに供給される魔素の量に変化が出てしまう。しかし、君ははじめに取り入れた魔素の量を念頭において魔法を使っているから――」

「あ……」


 グレアムの言わんとすることを察したようだった。


「つまり、集めた水の元素を閉じ込めようとしていた魔力の膜を、はじめは厚くしていたのに、それが薄くなってしまったのがいけないんですね? で、それはわたしの呼吸の仕方の所為で起こってしまった、と」


 なるほどなるほど、としきりにロザンナは頷いていた。熱心な上に理解が早い。きちんと真面目に勉強している証拠だろう。打てば響く感じが心地良くて、グレアムは次第に頬が緩んでいた。

 でも、と彼女はまた困ったように眉の端を下げる。


「どうすればその呼吸って安定させられるんですか? わたし、魔法を使うのに必死で、とても自分の呼吸まで意識する自信がないんですけれど……」

「まずは呼吸法を覚えることだな。本来は、一、二年の時に〝瞑想〟の講義で習うことだが……」


 彼女は編入生だ。入学してすぐに始まる教育課程カリキュラムを受ける機会がなかったことが、彼女が魔法を上手く扱えないことの一因だろう、とグレアムは考えた。

 彼女を教育していただろう家庭教師が教えなかったのは、些か奇妙な話ではあるが。


「今からいくつか教えよう。あと、瞑想の講義で使う教科書を見てみるのが良いだろうな」


 メモはあるか、と尋ねると、彼女は制服のポケットの中から小さなメモ帳とペンを出してきた。花柄のピンク色の紙に、クリーム色の持ち手に犬のキャラクターと足跡があしらわれたインク充填式のペン。実に可愛らしい、女の子らしい趣味の持ち物だ。

 密かに和みながら、グレアムはそのメモ帳に当時講義で使っていた教科書の題名と作者名を記入した。


「本当は俺のを貸すこともできるんだろうが……すまない、あれはよく見返しているんだ」

「いいえ、十分です。ありがとうございます」


 ロザンナは嬉しそうにメモを受け取り、書かれた内容に目を走らせる。明日購買で探してみよう、と一人呟いた後、ふとその表情が翳った。なにか問題があったのか、とグレアムは訝しむ。


「一、二年で習うなら、なんでみんな教えてくれなかったんだろう……」


 どうやら、ここで訓練する前に、講師や同級生に助言を求めていたらしい。しかし、思うような答えが得られず、こうして一人で練習することにしたようだ。だが、一人で練習したところで問題に気付けたかどうか。

 それに。


「瞑想の授業は、集中力を高めるためだったり、元素を感じるためのものだと勘違いしている者が多いからな。その所為だろう」


 瞑想は、なにもない広い部屋の中で、胡坐を掻き、目を閉じ、身じろぎをしないで感覚を研ぎ澄ませた状態で過ごすのが授業の主体である。その直前に呼吸法などの指導はあるのだが、多くの人間にとっては〝ただ座っているだけ〟の講義だった。もちろん、その座っている間に魔法を形成するための元素を感じ取ったり体内の魔素を制御したりしているので、実際は〝ただ座っているだけ〟というわけでもないし習うほうもそれを解っているのだが、そこで指示された呼吸の仕方がまさか魔法を使うのに役立っているとは、多くの学生は気付いていないようなのである。

 だから、誰も呼吸が原因だとは思い至らなかったのだろう、とグレアムは思うのだが。


「そうだと良いけど」


 それでもロザンナは浮かない様子だった。新しい年度となってからすでに一月近く経つが、彼女はまだあまり同級生たちに馴染めていないのだろうか。


「でも先輩、詳しいんですね。普通の人は気づかないんでしょう?」

「魔素の供給については、何度か調べたことがあるんだ」


 呼吸による魔素の供給。それは、まさにジュディスの障害の原因である。ただ普通に息をしているだけで魔素を多く取り入れてしまう彼女は、まず呼吸法を変えることで体内に入る魔素の量を制御することができないか、と必死に学んでいたのだ。グレアムもそれに付き合った。だから、魔法を使う際の呼吸法については人一倍詳しいしコツも掴んでいるため、現在となっては体内の魔素コントロールには自信があった。


 ……思えば、入学したばかりのあの頃は、ジュディスはまだ勉学に真剣だった。放課後に図書室で、二人で本を並べて勉強していたのは、今はもう遠い思い出だ。

 何故、彼女は現在、ああも怠け者になってしまったのだろうか。夕暮れ時の薄暗い図書室で転寝うたたねしていた婚約者の姿が脳裏に浮かぶ。あんな寒々しい場所で、どうして一人で――


「先輩?」


 過去に浸ってしまったグレアムの顔を、ロザンナが心配そうに見上げている。月光の青白い明かりの中で、琥珀色がきらりと光る。思ったよりも彼女の顔が近くて、思わずたじろいだ。それからようやく我に返り、彼女を差し置いてぼうっとしてしまったことを詫びる。


「いいえ。じゃああの、ご指導、お願いできますか?」

「ああ、わかった」


 グレアムはロザンナの正面に立ち、姿勢や呼吸の仕方を指導する。口頭での説明や自ら手本として実践してみせたり、彼女がやってみせたのを指摘したりして、そうして気付けば一時間近くの時が過ぎていった。

 この日、グレアムはロザンナに付きっ切りで、自分が予定していた訓練を何一つしないまま寮へ寝に戻ることとなった。しかし、帰途に着いたグレアムは、自分が何故か充足感を得ていることに気が付いたのだった。

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