持て余す恋心

 その日、保健室に用事があったロージーは、偶然出くわしてしまったグレアムの様子に少なからず驚いた。いつもロージーに親切に穏やかに教えてくれるグレアムが、あれほど荒れた様子を見せたのは初めてだったので。

 とっさに弁解しかけたロージーを躱したグレアムは、エントランスホールのほうへと行ってしまった。その背を見送りながら、なにがあったのだろう、と密かに心配する。保健室の扉に立ったときから、中でなにやら揉めているのは聴こえていた。内容は分からなかったが、あの様子からして揉めていたうちの一人はグレアムだ。相談に乗ってあげられるのであればそうしたいが、それもあまりに出しゃばりなような気がして、ロージーは後ろ髪を引かれる思いで、己の用事を済ませることにした。


「ああ……お疲れ。早かったね」


 白髪の混じったブルネットを後頭部で一つに括った保健室の主は、狼狽えた様子でロージーを出迎えた。ベッドを囲むカーテンを引いている途中だった彼女は、慌てた様子で患者の姿を隠した。ロージーの目に一瞬だけ中の人物の姿が映る。

 ――もしかして、あれが。

 先程出てきたグレアムの様子、そして先日図書館でグレアムの友人から聞いた情報から判断して、彼女がグレアムの婚約者なのだろうか。

 見透かせやしないのにクリーム色の厚いカーテンをじっと見つめていたロージーを、保健医が呼んだ。


「お兄さんの診断書でしょう? 準備してあるから、ちょっと待ってて」


 そして保健医は机の上に置いてあった封筒をロージーに渡した。表にはなにも書いていなかったが、中身を見てもいいのか判断できなかったので、そのまま受け取って礼を言い、保健室を出ていく。


 ロージーは、キャラハンの家から、大怪我をした異母兄の診断書を貰い、送るように頼まれていた。詳しくは知らないが、なにかの申請に診断書が必要なのだという。異母兄は魔法師学校とは無関係のところで怪我をしたが、魔法師をやっていけるかどうかの判断を下したのはここの保健医だから、ということで。

 書類を受け取り郵送の手配をするだけの作業だったが、異母兄との関係を考えるとあまり気が進まず早く終わらせたかったので、その足で学校の総務室へと向かった。事務員に手続きをお願いし終わった頃には、日がとっぷりと沈んでしまった。うすぼんやりとした灯りの点いた暗い廊下で、夕食、の文字が頭を過ぎる。だが、食堂には人がたくさん集まっている頃合いだろう。自分がどれだけ注目されているか知っているロージーは、今宵は自分の部屋で粗食を取ることに決めた。


 購買で適当に買ったパンを、机とベッドと本棚だけしかない愛想のない個室でそそくさと片付け、ロージーは制服姿のままでベッドの上に転がり込んだ。横向きの姿勢でぼんやりと向かいの机を眺めながら、思い出すのはグレアムのことだ。

 保健室に居た、おそらくグレアムの婚約者であろう人は、綺麗な人だった。一瞬しか見えず詳細をつぶさに観察できたわけではないが、神秘的な藍色の髪と儚げな雰囲気だけでロージーは自らの敗北を悟ってしまった。あんな人が婚約者なら、ロージーはまず勝てっこない。――いや、そもそも相手が婚約を交わしている時点で、ロージーの入り込む余地はないが。

 でも、と横恋慕は良くないと知りながらも、ついロージーは考えてしまう。


「仲、あまり良くないのかなぁ」


 保健室で怒鳴り合っていたのだし、貴族の婚約の多くは政略に寄るものだというから、お互いの相性とは無関係に結ばされることもあるのだろう。キャラハンの家もそういう感じだ。父と彼の正妻は、あまり仲が良くない。


『ロージー、女はね、男の人の唯一にはなれないの』


 ふと、実母の言葉が脳裏に蘇る。昔、ロージーがまだ自分の立場を解っていなかった頃、何故父はたまにしか家に来ないのか、と実母に尋ねたときに返ってきた言葉だ。


『でもね、その人の特別になることはできる。だからロージー、貴女は唯一の女ではなく、特別な女を目指しなさい』


 それが女としての幸せにつながるのだから、と母は寂しげに微笑んで言い聞かせた。それ以降も度々――そう、いつも別邸を訪れた父が本邸に帰る度に、ロージーへと言い含めるようになったのだ。

 母の言葉をすべて鵜呑みにしたわけではないが、愛人を作る貴族社会を見ていると、そう思ってしまうのも納得できる部分がある。


「特別、か……」


 呪いのように刷り込まれた言葉を呟いてみる。

 例えば、自分がグレアムの〝特別〟になったとしたら、どうだろう。

 その仮定を、自分がこの目で見てきたキャラハン家の現状と重ね合わせてみて――ロージーは、頭を振った。


「だから〝愛人の娘〟って言われるんだよ……」


 フリンとかいうグレアムの友人の蔑んだ深緑の眼を思い出して自嘲したあと、重い重い溜め息が溢れた。ふわふわの羽毛布団を乱しながら脚を抱えて蹲り、羽がたっぷり入ったふかふかの枕に顔を埋めた。

 真っ暗な視界に、グレアムの姿が浮かぶ。

 布団の上は温かい。自分の体温で温められている。が、それだけに切なかった。胸の中だけはぽっかりと孔が空いているようだった。

 また、溜め息が一つ。


「あーあ……あの人から余計なことを聴かなければなぁ」


 フリンが余計なことを言わなければ、こんな想いを抱かずに済んだのに。

 逆恨みだと解りつつも、恨めしくなってしまう。相手に嫌なことを言われたぶん余計に、だ。


「明日、どんな顔で会えばいいんだろう……」


 胸元に引き寄せた枕をぎゅっと抱きしめる。

 こういうときに限って、グレアムとの勉強会が次の日にある。自分の恋心は別にして勉強会自体は有り難いものであるのだが、もう少し自分の気持ちに折り合いをつけてから臨みたかったような気もする。

 明日、適当に理由をつけて中止にしてもらおうか。

 そんなことを考えながら寝返りをうって、再び机のほうを向いて、あることに気がついた。


「あ、コンパス」


 ロージーはベッドに手を付いて身を起こした。机の上に放置された魔法術式の講義の本。今日の講義で使ったものであるが、それが次回の講義で円規コンパスという道具が必要だと言うことをロージーに思い出させた。

 つまり、購入する必要があるのだ。


「ああ、どうしよう……」


 両手で頭を抱える。キャラハンの別邸で閉ざされた生活を送ってきたロージーは、コンパスがどういうものか知らない。何処で売っているかの検討も付かなかった。


「……先輩に訊くしかない、かぁ」


 ロージーには、グレアムの他に頼れる人がいない。

 つまり逃げることも先延ばしにすることもできないのだ、と悟った。




 翌日、図書館でグレアムに会ったロージーは、件の道具を見せてもらった。摘みを支点に開く二本の脚があり、片方の先端は針、もう片方には黒鉛芯がついていた。摘みの下には脚の開きの角度を調節する機構が付いている。

 これを使って円を描けるのだそうだ。グレアムが実際にやって見せてくれた。紙に針を突き刺し、摘み部分を指先でぐるっと回す。それだけで、黒鉛が針で刺した部分を中心とした綺麗な円を描いた。


「魔法陣を紙に書き写すのによく使うな」


 このようにグレアムは親切に用途まで教えてくれる。魔法陣は大きさの違う同心円の間に細かな術式を書く。そのため、フリーハンドの歪んだ円では学習の観点からも記録の観点からも不都合が多く、道具を使ったほうが良いということで、魔法師や学生たちは持ち歩いているらしい。


「買うなら、アルフェアの文具店に行くのが良いだろうな」


 グレアムは、魔法師学校からほど近い街の名前を挙げる。


「アルフェア、ですか……」


 魔法師学校に編入してからそろそろ三か月。自分があまり良い噂をされていないことを知っているロージーは、人目を避けて部屋に引きこもっていることが多かった。だから、学生がよく遊びに行くというその街に足を踏み入れたことがない。

 見知らぬ街を一人で歩き店を探すのか、と思うと、ちょっとした不安が湧いてくる。


「なんなら、今度の休みに一緒に行くか?」

「え……」


 もしも、と思いつつも言い出せなかったことをあちらから申し出てくれたので、嬉しさを覚えつつもロージーは戸惑った。だって、それってまるでデートではないか。


「……良いんですか?」

「俺も用事があるからな、そのついでだ」


 手を煩わせることよりも婚約者の存在がロージーは気掛かりなのだが、グレアムはあっさりと受諾した。解っていないのか、それともグレアムにとって婚約者はその程度の存在なのか。その辺りがいまいち判別できない。

 けれど、これはチャンスかも、と魔が差してしまう自分がいて。


「えっと、それじゃあ……お願いします」


 おずおずと頭を下げながら、悪魔の誘惑に負けてしまったな、と自分自身で思うのであった。

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