亀裂が走る

 北校舎の西隅にある保健室にようやくたどり着いたグレアムは、保健医の指示に従って白いベッドの一つにジュディスを寝かせた。二人がかりでコートを脱がせ、腹まで布団をかぶせたジュディスの胸元を、ひっつめ髪の年嵩の保健医が寛がせる。外気に晒された骨ばった白い鎖骨部分を見て、グレアムは眉を顰ませた。


「やっぱり熱が出てるわね」


 ジュディスの脇から引き抜いた水銀式の体温計をグレアムに見せながら、彼女は言った。


「それに、体内の魔素が荒れているわ。身体にかなり負担が掛かっているはず」


 保健医の見解に、グレアムもまた頷いた。背負っている間なんとなく感じていたし、彼女の胸元を見た瞬間に確信したことでもあった。


「時間があるなら付いていてあげて」


 水を持ってきてあげるから、と言って、保健医はベッドを仕切るカーテンを閉めて出ていく。

 クリーム色に仕切られた空間にジュディスと取り残されたグレアムは、近くに置いてあった古い木製の三脚椅子を引っ張り出して腰を下ろした。布団を肩まで掛けてやり、はみ出た白い左手を、グレアムの大きな両手で包む。細い腕に着けられた銀の腕輪をじっと見つめた。

 グレアムとジュディスの婚約の証となる銀環。度々磨いてはいるものの、経時変化を防ぎきれずに黒ずんでしまった、それ。


 異国では婚約の証に男性から女性へ指輪を贈るそうだが、アメラスでは銀の腕輪を互いに贈りあうのが主流だった。それを男性は右、女性は左に、結婚するまで着け続ける。婚姻を結ぶと、銀の腕輪は金の腕輪に取り換えられ、離縁するか死別するまでずっと嵌め続けるのだ。

 半身の腕輪は、主たる素材と腕輪であることさえ守られていれば、基本的にどのようなものでも構わない。太い帯状のものにすることもあれば、鎖を連ねた細いものにすることもある。彫刻を刻むこともあるし、石を嵌めることもある。値段を気にするのであれば、鍍金めっきも可能だ。

 グレアムとジュディスの場合は、細く平たい銀の板を環状にしたバンクルだった。手の甲側の中心には、青銀色非透明の小さな珠の鉱物が嵌っている。肌が触れる裏側には魔法術式が彫られていた。それはジュディスの身体の負荷を軽減させるためのものらしいが、果たしてそれはいったいどういったものだったか――。


 幼い頃の記憶を引っ張り出せずにいるうちに、保健医が水差しを持ってきてサイドテーブルの上に置いていった。

 途切れてしまった思考をもう一度再開する気になれなくて、グレアムはジュディスをベッドに下ろす際に床下に放り投げた荷物を拾い上げ、教材を引っ張り出して読みはじめた。先程講義で聞き流していた部分を復習しようと思い至ったのだ。


 カーテンの向こうで保健医が動く音以外は聴こえない、静寂の時間がどれほど過ぎたことだろう。


 もぞもぞと布団が動くのに気づいて、グレアムは本から視線を上げた。ジュディスは目を覚ましたようで、翠色の目でぼんやりと保健室の白い天井を見上げている。その瞳はきちんと焦点が合っているようで、先程ベンチに横たわっているときとは違って意識がはっきりしているのだ、とグレアムは安堵した。

 ジュディスの首が左右に動いて辺りを見回す。やがてグレアムの存在に気付いたようで、視線がこちらに向けられた。


「グレアム……?」


 か細い声で呼びかけられる。それがなんだか普段と変わらないような気がして、グレアムの胸の奥で苛立ちが再燃した。だが、相手は病人だから、と自身の中に湧き上がった感情に目を背け、グレアムはジュディスに声を掛ける。


「起きたか。水はいるか?」


 頷くので、汗を掻いた水差しからグラスに半分ほど水を注いで、ゆっくりと身を起こしたジュディスに渡してやる。

 意識ははっきりしているものの、熱が高い所為かジュディスはグラスを包むように持ってぼんやりとしていた。やがて、ちびちびと舐めるようにグラスの水に口を付ける。時折眉間に皺が寄せられるのは、未だ具合が悪いからだろうか。当人が覚醒したことで、体内の魔素は少し落ち着きを取り戻したようだが、平静というにはほど遠いようだった。

 体内の魔素が必要以上に体内に蓄積すると、吐き気、頭痛や眩暈、倦怠感などがあるのだという。今ジュディスの身体には、そういった症状が現れていることだろう。


「……調子は?」


 尋ねると、うん、まあ、と曖昧な答えが返ってきた。先程よりは良い、ということだろうか。


「グレアムは、どうして?」


 どうやらジュディスは、ベンチでグレアムと会話したことを覚えていないらしい。目を開いたのも頷いたのも、意識が朦朧としている状態での反応であったようだ。

 経緯を語りながら、グレアムは拳を作った片手に自らの額を押し当てる。話を終えると、無意識に歯を食いしばった。

 ――なんで、こいつは。

 自らの身体が他人よりも弱いことを認識しておきながら、自己管理をこうも怠るのだろうか。

 魔法の勉強といい、今回のような迂闊な行動といい。

 何故、と腹が立ってくると、自然グレアムの口から怒りの言葉が漏れはじめた。


「ジュディス、お前そろそろいい加減にしたらどうだ」


 低く抑えたグレアムの言葉に、ジュディスは怪訝そうにする。それがまた惚けているように見えて、グレアムの怒りの炎はますます強くなっていった。


「毎度毎度講義をサボって……そのうえ今日は、体調が悪くなるまで外で居眠りするだなんて。どうしてこうも無自覚な行動ばかりしているんだ」

「ごめんなさい……」

「謝罪の言葉は聞き飽きた!」


 萎れるジュディスの謝罪の言葉を、グレアムは跳ね退けた。頭にどんどん血が昇っていき、冷静さを失っていくのを自覚することができないほど、グレアムは腹が立っていた。


「なんのためにお前はここに居るんだ! 自分の身体をなんとかするためだろう! それなのにここ最近のお前ときたら、自覚のない行動ばかり……っ!」

「ごめんなさい、でも、私だって」

「下らない言い訳をするんじゃない!」


 足を踏み鳴らして、グレアムは立ち上がった。三脚椅子が黒い大理石の床の上に倒れて大きな音を立てる。ジュディスの肩がびくりと跳ねて、見開いた目でグレアムを凝視する。


「どうして、どうしてお前は、いつまでもそうやって甘えたことばかりしている!」


 周囲に人気がないとはいえ、ここが何処なのか、ジュディスがどういった状態かということも忘れてグレアムは感情のままに怒鳴った。狭いクリーム色の空間が揺れる。


「お前はそう暢気に構えているが、必死になっている人間が、この学校にどれほどいると思っている!」


 グレアムは適性のない夢を叶えるのに必死だ。ロージーは己に不利な状況の中で、自分の役割を果たそうと精いっぱい努力している。他にも自らの活路を見出すために、努力して学んでいるものが大勢いる。

 だが、ジュディスはどうだ。毎日暢気に過ごして、のらりくらりと努力することを避けて。彼女の家族が一縷いちるの望みを縣けてジュディスを魔法師学校に入れたことを解っていないのか。才能を持ち合わせているというのに、どうして自分の為だけにでも有効活用しようとしないのか。

 そして、その結果がこれだ。自らの体調を崩して、他人を心配させて。

 彼女がここに居る意義は、いったいなんなのか。


「だって……だって……っ」


 絞り出すような声に、グレアムは我に返った。見れば、ジュディスが顔をくしゃくしゃに歪めている。ぎゅっと閉じられた瞼の端からは、涙が次々に零れていた。

 すっと、頭に集まった血が下がっていく。


「私だって、本当はもっと、きちんと……っ」


 嗚咽を漏らしながら必死に言葉を紡ごうとしているが、グレアムに怒鳴られたことによほど衝撃を受けたようで、ジュディスの言葉は一向に纏まる様子がない。


「だいたい、グレアムだって。私の話、きちんと聴いてくれないのに……っ!」


 思いを寄らない言葉に、グレアムは側頭部を殴られたような衝撃を受けた。ジュディスのいう〝話〟に心当たりがなかった。毎日どこかで必ず言葉を交わして、二人だけの時間も作って。いつも真摯にジュディスの話を聴いているとまでは確かに言えないが、グレアムにはジュディスを蔑ろにするようなことをした覚えは全くないというのに。

 それに、ジュディスだって、グレアムの話を聴いてくれているというのか。

 思考が逆戻りしかけていることに気が付いて、グレアムは頭を振った。冷静さを欠いていることを自覚したのだ。


「……すまない。頭を冷やしてくる」


 ジュディスの返事はなかった。手元の白い布団を握りしめて、涙を流したまま顔を背けている。グレアムもまた彼女に背を向けて、カーテンを乱暴に開けた。

 少し離れた向こう側で保健医が腰を浮かせてこちらの様子を窺っている。


「……大丈夫?」


 おずおずと尋ねてくるが、グレアムは応えることができなかった。なにを持って大丈夫と評するか判断が付かなかった。


「騒いで申し訳ありません。……ジュディスを頼みます」


 保健医の目を見返せないまま、わずかに頭を垂れて、グレアムは大理石の床を足早に突っ切ると保健室を出ていった。

 扉をできるだけ静かに閉じたところで、目の前に人がいることに気が付いた。薄暗い廊下で猫に遭遇した鼠のように身を強張らせているのは、なんという偶然か、あのロージーである。


「ごめんなさい。たまたま通りがかって……」


 もごもごと口を動かすロージーに、いったいどこまで聞かれたのだろう、と頭の隅で疑問に思うが、すぐにどうでも良くなった。部屋の外まで聞こえるほどに怒鳴り散らしていたことに我ながら呆れる。


「あの」

「すまない。今度にしてくれないか」


 なにか言いたそうにしていたロージーを振り切って、グレアムは校舎の出口へと向かった。

 外はすでに日が暮れ、夜の帳が下りている。空の端、遠くの山の稜線に僅かに引っかかった白い光を睨みつけながら、グレアムは冷たい空気の中を突っ切って行った。

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