約束の場所

 結局、その後も時間を掛けて町中を歩き回ったが、ジュディスの手掛かりは一向に得られなかった。昼過ぎから諦念を抱きつつも自らを奮い立たせていたグレアムだったが、日射しが傾いていくにつれ、その気力も減衰しはじめた。空気は爽やかになりつつあるとはいえ、まだ高い気温も体力を奪っていく。

 疲れ果てたグレアムが辿り着いたのは、あのヘリアンサスの花畑だ。カンテの町の北の丘を覆い尽くすように、植えられている。ちょうど花の季節だったらしく、丘は一面黄色に染まっていた。小さな向日葵が風に揺れる。


「あれから十年か」


 黄色い丘を眺めながら呟く。こんなに鮮やかな景色だったのか、と驚く。凄惨な記憶に塗り潰されていた所為か、ここまで鮮烈な色をグレアムは覚えていなかった。だからジュディスの長年の望みを解ってやれなかったのだろう。それが二人の間に齟齬を生み、いつしか亀裂となった。

 もう少し互いを理解していれば、とこの十年を想う。互いが見ているものを知ろうとしていたら、現在も二人変わらずに居られたかもしれない。

 丘の上を歩く。なにとなしに、あのときの場所を探した。ジュディスが魔力を暴発させ、地面を抉った場所は埋められてしまったようだった。当然魔物に襲撃された跡もなく、全てが黄色の花の下に埋もれてしまっている。


 結局探すのを諦めたグレアムは、適当な場所に座り込んだ。顔の横をヘリアンサスが揺れる。


『ねえ、私たちが結婚するときになったら――』


 右腕を天に翳すように持ち上げる。三年もの間、そこにはなにも嵌っていなかったというのに、何故だか腕が軽いような気がした。婚約の証の銀環がないことを今になって思い出す。突如湧き上がる喪失感。自分はまだ、ジュディスとの縁が切れたことを受け入れきれていなかったのか。


「本当、いつまでも未練がましいな」


 喉の奥で低く笑い、腕を振り下ろす。拳が軽く地面を叩いた。


「すまない、ジュディス。約束を破ってしまって――」

「覚えていたの?」


 突如耳元でした声に、心臓が大きく跳ねた。幻聴か、と疑うが、いつの間にか背後に寄り添うように気配がある。サリックスではない。それよりもずっとずっと大きな気配。

 まさか、と思いつつ、振り返ることができなかった。幻と認識するのが怖かった。グレアムは硬く目蓋を閉じ、いや、と否定の言葉を紡ぐ。


「忘れていたんだ。腕環を投げつけられたあと、母上に指摘されるまで」


 そうなんだ、とやはり聞こえる声と同時に背中に重みがかかる。それでもなお、振り向く勇気が持てなかった。


「私もね、忘れていたの。姉さまに記憶を返してもらうまで、ずっと……ずっと」

「思い出したのか……?」


 背中に伝わる肯定の気配に、グレアムの胸に後悔が押し寄せた。右手でアッシュブロンドの髪をぐしゃぐしゃと搔き回す。だがそんなことをしても罪悪感を振り払えるはずもなく、しまいには両手で頭を抱えて項垂れた。


「すまない。本当にすまない。俺は、結局逃げてしまった。逃げないと誓ったのに……守ると誓ったくせに」

「忘れられて辛かったけど……私も悪かったわ。貴方に辛い記憶を押し付けて、自分はのびのびと生きて……自分のことばっかり。貴方の苦しみをちっとも分かっていなかった」

「そんなことはない。あのとき、お前に選択肢はなかった。記憶を封じられたことは、仕方のないことだったんだ。俺が、俺が弱かったばかりに……」


 辛く苦しい記憶を思い出させた。そして、その記憶に耐えることを強いた。あのときあの場にいた誰もが望んだことを、グレアムが台無しにした。それがいったい、どれほどのことか――

 唇を噛み締めるグレアムの背中にかかる重みが離れた。と思ったら、脇の下から繊手が回される。背中に感じる彼女の頬や胸を、信じられない気分で感じていた。

 幻影でも妄想でもない。紛れもなく本物の――


「もういいの、グレアム。十年前のことも、三年前のことも、全部全部許すから」


 回された腕の力が強まる。


「こうして、約束を思い出してくれただけで十分。だからもう、自分を責めないで」

「でも俺は、自分を許せない。許したくない。忘れたくないんだ、ジュディス――っ」


 彼女の腕を振りほどくように勢いよく身体を捻り、グレアムは振り向いた。驚愕して翠の目を見開いたジュディスの姿が目に入る。霞も消えもしない、確かな質量を備えたそれは、目の前の人物が本物であることを知らしめた。

 ようやく会えたジュディスの姿に、胸がいっぱいになる。気づけばグレアムは、その華奢な身体を引き寄せていた。胸に抱え込んだ温もりを実感するのと同時に、これまで自分にすら誤魔化してきた想いが、奔流となって押し寄せる。


「ずっと会いたかった。自分から手離したくせに、忘れられなかった。この三年、俺はずっとお前のことを――」

「知ってるよ。ずっと見てきたから」


 グレアムの背に、そっと優しく手が添えられた。宥めるように、上下に動く。


「正直に言って、嬉しかった。グレアムが私のことを想ってくれているって知って……婚約していたのは、惰性や義務だけじゃなかったって知って、嬉しかったの。私はずっと貴方を独占してきたんだわ」


 その声にだんだん物悲しい響きが宿るのに気付いて、グレアムは息を詰めた。嫌な予感が襲う。耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、必死でジュディスの身体を手繰り寄せようとした。


「でも、もう終わりにしなきゃね」


 グレアムの想いに反して、ジュディスの身体がすっと離れていく。突如失われた温もりが信じられず、グレアムは瞬きも忘れて泣き笑いの表情を浮かべるジュディスを見つめた。


「私がいると、貴方は苦しみ続ける。私と一緒にいたら、貴方はずっと救われないわ」


 だから、ここでお別れしましょう、というジュディスを絶望的な気分で見上げた。


「ありがとう、グレアム。苦しいことも辛いこともあったけど、私ずっと幸せだった――」


 離れていく白く細い腕を、グレアムは咄嗟に掴む。


「待ってくれ。お願いだ、行かないでくれ」


 驚愕するジュディスを、グレアムは必死で引き留めた。きっと痛みを与えるほどの力で彼女の腕を引いている。それでも、グレアムは手を離すことができなかった。


「救われなくて良い。苦しいままで良いから、俺の傍に居てくれ」


 彼女の手に額を押し付け、グレアムは懇願した。


「お前と別れてから、ずっと心に穴が開いたような気がしていた。自分が自分である実感がなくて……虚しかったんだ。お前を守ると決めていたことが、俺を俺たらしめていたんだ」


 母の言うとおり、グレアムはすべての事柄をジュディスを基点に選んでいた。なにが彼女のためになるか、自分はジュディスのためにどうあるべきか、そればかりをずっと考えてきた。依存、と他人は言うかもしれない。それでも、グレアムが自分の意志で、自分の責任のうちに決めたことだった。

 それほどまでに、ジュディスの存在は大きかった。そこまでしても、ジュディスに居て欲しかった。


「だから、お前が許してくれるなら、俺の傍に――」


 空いた手を胸の前で握りしめながらこちらを見下ろすジュディスを目にして、グレアムは最後まで言い切ることができなかった。見開かれた翠の瞳が大きく揺れ動いている。自分がぶつけた想いに動揺している。

 そこでグレアムは、自分のことばかり並び立てていたことに気がついた。ジュディスの都合も気持ちもまるで考えずに縋り付いていた。一度縁が切れた男にこんなことをされて、彼女はどれほど困ったことだろう。自らの行いが恐ろしく、ジュディスの手を握りしめた手を、ぎこちなく開いていく。


「……すまない」


 謝罪の言葉が喉に絡む。ジュディスの顔を見ていられなくなって、グレアムは顔を俯けた。非難されるか、それとも黙って立ち去るか。どちらも恐ろしく、身を縮めてただ裁定のときを待つ。


「……本当に?」


 グレアムの頭に降ってきたのは、遠慮がちな問い掛けだった。


「本当に、傍にいても良いの? 私はグレアムに辛いことや自分の体調のことを押し付けて、押し付けるだけしかしなかったひどい女だよ? ずっと負担をかけてきたのに」


 齎された希望に、信じ難い気分でグレアムは再び顔を上げる。こちらを見下ろすジュディスの潤んだ瞳に期待の色があるような気がした。

 それなら、とグレアムは覚悟を決めて願いを口にする。


「それでも、お前が俺を望んでくれるなら。俺は、お前が欲しい」


 くしゃり、とジュディスの表情が歪んだ。


「私も、グレアムの傍にいたい」


 首元に齧り付くかのように飛びついてきたジュディスの身体をグレアムは受け止め、抱きしめる。彼女の身体の震えが伝わる。それを止めようとばかりに腕に力を入れると、柔らかさが実感とともに返ってきた。

 胸が歓喜に満ち溢れる。目頭が熱くなり、グレアムはきつく目蓋を閉じた。


「お願い。ずっと私の傍にいて……っ!」


 すすり泣くような声を聴いて、グレアムはそっとジュディスの耳に囁きかけた。


「もう、お前を離さない」


 だから覚悟してくれ、という続きの言葉は、ジュディスの唇に塞がれ吸い込まれていった。

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