残る問題

 眠りから覚めてすぐ、目に入ったジュディスの姿に、グレアムは嘆息した。ようやく心を通わせた恋人は、グレアムの腕の中で気持ち良さそうに眠っている。上下する胸。自分の身体に顔を擦り付けてくる様は愛おしく、微笑ましく――それでいて憎らしい。


「…………」


 もう一度嘆息した。


 あの後。旅立つには遅く、グレアムはカンテでもう一泊することを決めた。それでホテルに戻ろうとしたわけだが、お互いの想いが通じ合った所為だろうか、ジュディスがグレアムと別の部屋で眠ることを嫌がった。

 それどころか、一緒に寝たいとまで言い出した。

 自分たちは婚約を解消している。ウェルシュの家に許しをもらっていない。ありとあらゆる理由を並べて説得を試みたが、そんなの知ったことではない、とジュディスは一歩たりと引くことなく。

 潤んだ瞳でこちらを見上げてくる愛しい女性の頼みに、遂にはグレアムも折れた。


 ――ただし、就寝時は猫の姿になることを条件にした。

 グレアムの愛猫サリックスの正体は、既にしっかりと聴かされていた。だから、これまでのように今回もそうしろ、と頑なに言って聞かせたのだ。


 当然だ。グレアムにだって欲がある。異性が、それも愛しい女が腕の中にいて、なにもせずに済ませるほどの我慢強さは持ち合わせていない。もっとも、ジュディスのほうはそれを望んでいたようであったが、こればかりはグレアムも退くわけにはいかなかった。

 先ほども言ったが、まだグレアムたちは二人の関係を互いの家に――特に、ジュディスの実家に許してもらっていない状態だ。いくら互いが気にしなかろうと、仮に家の許しを得られる結果になることになろうと、現段階で婚約すらしていないのである。貴族社会ではことさら手続きが重要視される。互いの感情のみで無視すれば、どのように噂されるかは火を見るより明らかだ。

 噂など、とジュディスは言う。だが、グレアムは正々堂々と彼女の隣に立っていたかった。周囲に認められてこそ、本当に彼女が自分のものになるような気がしていた。特に、厄介なのはあの王太子。彼を諦めさせるためにも、付け入る隙を与えるわけにはいかない。


 そっと静かに身を起こす。窓の外は白みはじめていた。グレアムはそっと愛猫に布団を被せ、窓を少しだけ開けた。

 爽やかな朝の空気が、部屋の中に入ってくる。

 その冷たさが自身の昂りを鎮めてくれることを祈りつつ、明るくなっていく丘の上の街の風景をぼんやりと見続けていた。




「まずは、殿下に報告に行こうと思うの」


 すっかり日も昇り、朝食を済ませたあと、人の姿に戻ったジュディスはそう告げた。簡易的に整えたベッドに腰掛けた白いワンピースの彼女は、少し不安げに翠色の瞳を揺らす。


「前に一応お断りしたんだけど……まだきちんと話したわけではないし、もう一度はっきりさせないといけないと思うの」


 どのみち約束を反故にしていたことを正式に謝らなければいけない、とジュディスは暗い面持ちで言った。あの巨狼の襲撃があった夜、ジュディスはロデリックに見つかり、事の次第を話したという。そのときに側室入りの話も断ったのだそうだ。ただ、状況が状況で勢いで言ったようなものであるし、襲撃の後ロデリックがすぐに砦から立ち去ってしまったことから、冷静な話し合いはできていないのだという。

 だからもう一度ロデリックに会わなければ、というジュディスに、グレアムは表情を曇らせる。ロデリックのジュディスへの執着ぶりを知っているだけに、会わせたくないというのが本音だった。


「大丈夫。私は絶対にグレアムの傍にいる」


 グレアムの心配に気づいたのか、ジュディスはグレアムの深海色の目を覗き込むように見上げた。例え王命が下ったって逃げ出してみせるんだから、とまで嘯いてみせる。


「だから、ね。一緒に行こう」

「……ああ」


 元気づけるように微笑むジュディスの顔を見て、グレアムはようやく表情を綻ばせた。

 が、それもすぐにまた顰め面に変わる。


「……その前に、ずっと気になっていたんだが」

「なあに?」


 可愛らしく首を傾げるジュディスを、グレアムは探るような目でじっと見つめた。


「マシューや砦の者が見た〈水の精ナイアード〉って、お前じゃないだろうな?」


 真っ直ぐだった翠の眼差しが泳ぐ。


「……その」


 ジュディスは胸の前で両の手の指先を合わせ、落ち着かなげに動かした。曖昧に笑って見せるが、グレアムは誤魔化されず、半眼を逸らすことなくジュディスを見つめる。

 諦めたようにジュディスの肩が落ちた。


「たぶんそれ、私……」

「お前はっ!!」


 一喝した後、頭を抱えた。この三年間の魔の森での〈水の精ナイアード〉目撃情報が一気に頭の中を過ぎる。そう、その中には確か、水浴びを目撃したものがなかっただろうか。


「なにかあったらどうするつもりだったんだ!」

「だって、私だってたまには人間の手足でのびのびしたかったのだもの。猫の身体っていうのも窮屈なのよ。……いろいろと不便も多いし。それにみんな、都合よく〈水の精ナイアード〉って思ってくれたから」


 だから森の中で少しくらい人間の姿に戻っても問題ないだろう、と思ったのだと言う。


「そういう問題じゃないだろう!」


 グレアムは頭を抱えた。誰かに水浴びの現場を見られた可能性を考えると確かに腸が煮えくり返るが、その子以上に森の中で魔物に遭遇する事態だって考えられた。もし自分の手の及ばぬ場所でジュディスが襲われていたらと思うと、ぞっとする。


「危ない目には遭わなかったわ。万が一魔物が出ても、対処できる自信もあったし」

「戦闘訓練を受けたことがない奴が、軽々しく言うな!」

「でも、サリックスは斥候だってしていたのよ。グレアムにあまりとやかく言われることではないと思うのだけれど」

「それは……」


 図星を突かれて、言葉に窮した。ジュディスとサリックスが同一の存在である以上、サリックスならよくてジュディスは駄目だという論理は成立しない。いや、そもそも自分がジュディスを危険な場所に仕向けていたという事実に、グレアムは打ちのめされそうになった。なるほど、ディックがサリックスの心配するはずだ。


「そもそも、人間同士で使い魔契約ができるだなんて……」


 ここで改めて直面した驚きの新事実に呆れて肩が落ちる。もしマシューにこのことを伝えたら、新しい魔法の分野フィールドが開拓できることだろう。


 ……まあ、それは置いておいて、だ。


「今から出れば、着くのは夕刻だ。まずはウェルシュ家に向かう……ということで良いか?」

「ええ。まずは兄様だけにでも、私たちの意思を話さなければいけないと思うの」


 そう深刻そうに頷いた後、ジュディスはおもむろに立ち上がり、グレアムにもたれかかるように抱き着いた。首に回された腕からかすかに震えが伝わる。最終的な判断をしたのは国と両家の当主とはいえ、婚約解消を持ち掛けたのはディックその人だ。こうやって再び解り合う機会を与えてくれたとはいえ、認めてくれるのか不安なのだろう。


「たとえ王命でも、逃げ出して見せるんだろう?」


 茶化してやれば、かすかな頷きが返ってくる。

 その背中をさすって宥めてやりながらも、グレアムもまた不安を覚えている。過去にジュディスの体調を気遣わなかった事実は大きい。今度こそ信用してくれ、などとおいそれと言えるはずもなく、どうすればウェルシュ家の信頼を取り戻すことができるか想いを巡らしてみても、なかなか答えは見つからない。

 それでも。


「勝ち取ろう、今度こそ。二人の未来を」


 一度手放したからこそ知ったこの重みを、今度こそ抱えて生きると決めたのだ。

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