甘さ故に
勝手に家を出て元婚約者の下へ向かった妹を、その人はいったいどんな想いで迎えたのだろう。雫型のガラスがちらちらと小さな光を反射するシャンデリアの下で、ディックの出迎えを受けたジュディスは不安になった。兄の甘さを知って身勝手をした自覚があるだけに、兄の反応が怖い。眼鏡越しに降り注ぐ翠の視線にジュディスは身を縮めた。
それでも、隣に立つグレアムの陰に隠れることはしない。人の両足に力を入れて、どんな言葉を投げつけられても良いようにひたすら耐える。兄の反応如何でジュディスの将来は変わる。いや、兄だけではない。その背後には、両親と姉も控えている。家族に対して自分がどれだけ意志を押し通すことができるのか。今このときに掛かっているとも言えた。
「久しぶりだ、ジュディ」
溜め息混じりに掛けられた言葉が想像以上に優しく、ジュディスは小さく息を吐いた。強張った首の筋肉が緩み、ゆっくりと垂れた頭を持ち上げる。人の姿で久しぶりに対面したディックは、
お帰り、とようやく迎えてくれた兄は、ジュディスの肩に手を置くと、グレアムにその視線を移した。どんな表情で彼を見ているのか、ジュディスは見上げることができない。ただ、神妙でありながらも落ち着いた様子のグレアムの表情を見る限りでは、そう悪い反応でもなさそうだった。
「今日のところは、帰ってもらえるかな。……ジュディと、話がしたい」
分かりました、と一言グレアムは頷く。それからジュディスに深海色の視線を飛ばし、安心するようにわずかに微笑んで見せた。
「また明日、伺います。ジュディスの今後のことを、是非お話させていただきたい」
「承知したよ。そう悪いようにしないから安心していい……と言っておく」
それでは失礼します、と頭を下げたグレアムは、扉を開けて夕闇の中へと去っていった。
ウェルシュ家のエントランスホールに兄と二人取り残されて、ジュディスの胸中が再び曇る。グレアムが去った、ただそれだけのことで、慣れ親しんだはずの我が家にここまで不安を覚えるとは。
恐る恐る見上げたディックは、穏やかな表情でジュディスを見下ろしていた。
「夕食にはまだ少し早いし、お茶でも飲もうか」
目を細めて柔らかい声でディックは言う。
「それとも、一度湯に入ってさっぱりしてくるかい?」
兄の提案を、ジュディスは断った。ディックと話をしないことには、とても安らぐことなどできないと思ったからだ。
二階の談話室に行き、お茶を淹れてもらう。柑橘系の酸味が効いた紅茶は、ジュディスの好物だった。使用人たちの温かな出迎えに、ジュディスの胸がまた痛む。
「グレアムとは、仲直りしたようだね」
差し向かいの灰色のソファーにくつろいだ様子で凭れる兄に、ジュディスは頷いた。
「これからどうするつもりだい?」
優しく投げかけられて、ジュディスは膝の上で拳を握った。高いところから飛び降りるくらいの気持ちで、ディックに思いを伝える。
「グレアムと、一緒にいたい……です」
「どうして?」
兄の反応はやはり穏やかだった。二度三度深呼吸して、気持ちと考えを整理する。
「はじめはね、今度こそ別れようと思ったの。この前グレアムが死にかけたのを見て……このままでは、駄目だと思った」
ジュディスのことを引きずったままだと、おそらくグレアムはいつか死ぬ。巨狼を前に死にかけたグレアムを目にして、あのときそう感じた。
「だからグレアムが私に会いに行くと決めたとき、私もグレアムに別れを告げようと、覚悟を決めようとしたの」
もっともグレアムはジュディスへの謝罪をもって魔法師兵をやめようと決めていたようだが、ジュディスの決意には関係なかった。むしろジュディスと決別することで死地から離れられるのであれば、それも良かれとさえ思っていた。
とはいえなかなか切り出せずにいたのは、やはりジュディスの甘さゆえだろう。ディックがグレアムに最後の
「けれど別れなかった。むしろその反対を選んだようだけど?」
「だって――」
拗ねて口を尖らせて、その幼さにジュディスは恥じ入った。猫でいた所為で成長が止まってしまったのか、と自らを反省し、居住まいを正して言葉を纏める。
「あれだけ覚悟を決めていたっていうのにね。意気地がないなって自分でも思う。だけどね――」
彼の本心を知ってしまうと、気持ちが簡単に揺らいでしまった。グレアムのほうに傾いて、そのまま離れられなくなってしまった。
ヘリアンサスの花畑で、離れようとするジュディスを引き留めるグレアムの瞳は、幼い迷い子のようだった。本当に自分を求めてくれているのだと知って、見捨てられないと思った。同時に見捨てられたくない、とも。自分に縋り付いてくる瞳が冷めて無関心なものに変わるのを、どうあっても見たくないのだと気付いてしまった。
そうしたらもう、自らの本心に全面降伏せざるを得なかった。なにをどう取り繕っても、自分はグレアムの傍に居たいのだ、と。
「それで僕に許しを貰いに来た、と」
「ええ。だって兄様は――」
「君たちの婚約を解消するきっかけを作ったからね」
ディックは昏く声を落とした。溜め息を吐き、何処かへと視線を飛ばす。
ジュディスは背筋を伸ばしたまま、ディックの言葉を待ち続けた。兄がグレアムとジュディスのためにお膳立てしてくれた、その真意が未だに解っていなかった。落ち着いて話し合って、今度こそ別れてしまえばいいと思ったのか、それとも、縒りを戻すべきだと考えてくれたのか――。
「僕を恨んでいるかい?」
目線を合わさないまま投げかけられた言葉に、ジュディスは頭を振った。
「兄様はあくまで私の心配をしてくれていた。そうでしょう?」
目線だけで見上げてみれば、ディックは表情を曇らせてこちらを見ていた。疑うような視線に、ジュディスは自分でも意識していなかった本心に気付く。
「……ううん。本当は嘘。少しだけ恨んでた。だからその罪悪感につけ込んで、好き勝手していたの」
サリックスとしてグレアムの下に行くと決めたとき、ジュディスは兄にだけ置き手紙を残していった。ジュディスの家出の理由を察しても連れ戻すようなことはしないだろう、と思っていたからだが、それは実のところ、兄への責めと牽制が含まれていた。他の家族への対応も、その他いろいろの問題についても押し付けたのは、兄への甘え以上に、それくらいしてくれて当然だという気持ちもあったからだろう。
だが、さすがに今となっては、身勝手が過ぎたか、と罪悪感が湧き上がる。
叱られても仕方がない、と身構えていると、ディックは大きな溜め息を溢した。
「……結局僕は、君たちには甘いんだ」
やれやれ、と呆れたように頭を振るのを、ジュディスは信じられない思いで見つめた。兄の瞳にジュディスを否定する色はなく、許されたのだと悟る。
「でも、父さんたちへの説得は、自分たちですること。僕は手を貸さないよ」
「……ありがとう、兄様」
もちろん、はじめからそのつもりだったので、否やはない。第一の難関を突破したことにほっと胸を撫で下ろしたジュディスだが、それで、と続けたディックの言葉に、再び胸中を曇らせることとなった。
「殿下のことは、どうするの?」
答えはとうに決まっている。それをはっきりと兄に告げてもなお、ジュディスの中で不安は燻り続けていた。
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