三年後のロージー

 手に用箋挟みクリップボードを持ちながら、硬直する一人の少女――否、今年二十歳になるはずだから、少女という呼称は不適格だろうか。とにかく、久しぶりに見たロージーは、髪型こそバレッタで後頭部で纏めたものに変わっているものの、相変わらず目は大きく、小柄で仔犬のような印象だった。緑色のローブを着ているということは、あの後学校をきちんと卒業し、魔法師として活躍しているらしい。健やかな様子に、グレアムは安堵した。

 案山子のように突っ立っていたロージーの肩を、彼女と歳の変わらない同僚が小突く。それで我に返った彼女が彼らと何事かの会話を交わすと、うち一人がこちらへと歩いてきた。茶色い髪に茶色の目の、素朴な二十代後半の男だ。


「伯爵のご子息と伺いました。ご挨拶させていただきます。此度カンテでの街灯設置を担当させていただいております、魔法師院技術部のアルバ・ラントと申します」


 そうしてラントと名乗った男は一礼をする。年下のグレアムを相手に丁寧な対応、そして貴族を相手にした卑屈な慇懃さもない。礼儀正しい男性だった。


「後ろに居りますのは、エリック・フィーゼンと――もう一人はご存知ですね、ロージー・キャラハンです」


 その紹介に少しだけ違和感を覚えたが、グレアムは構わずに魔法師としての一礼を返した。


「グレアム・アクトンです。確かに伯爵家の者ですが、今回ここにいるのは偶然ですし、魔法師院では後輩に当たります。どうぞお気遣いなく」


 はあ、そうですか、と拍子抜けしたかのようにラントは返す。人の好さそうな顔の眉根が寄った。


「では、ここへはどのような用事で?」

「人を捜していまして」


 ジュディスの特徴を告げるが、ラントもフィーゼンも見覚えはない、と首を横に振った。


「それってジュディス様……ですか?」


 特徴から察したのだろう、ラントの背後から遠慮がちに顔を出したロージーが尋ねる。


「見ていないか?」


 いいえ、とロージーは首を横に振った。


「あの……どうかされたんですか?」

「ああ……」


 と説明しかけて、どう伝えたものかグレアムは悩んだ。謝罪のためにウェルシュを訪れたらジュディスがカンテにいると聴いたから、というのがおおよその理由だが、その背景にあるものが一口では説明し難い。

 足元に居たサリックスが、グレアムの腕の中に飛び込んでくる。咄嗟に抱えた猫が牽制をするかのようにじっと翠色の瞳で見上げてくるものだから、これまた途方に暮れた。

 グレアムの表情からなにか察したのだろう、ロージーは、やっぱりいいです、と首を振った。


「ロージー。その人が知り合いなら、捜すのを手伝ってさしあげたらどうだ?」


 気まずい雰囲気に気づいているのか、ラントが横合いから口を挟む。思わぬ提案に目を見開いたロージーは躊躇し拒もうとするが、ラントは構わずロージーの背を押した。


「こっちは今日、これで終わりだし。あとは二人でどうにかなるからさ。お世話になった先輩なんだろう? 久しぶりなんだから、少し話をしてこいよ」


 そうしてグレアムのほうに追いやられたロージーは、たたらを踏んで振り返る。困った琥珀の視線の先で、置き去りにしたラントとフィーゼンが赤煉瓦の坂の上で手を振っていた。

 二人になにか叫ぼうとして大きく口を開けたロージーは、しかし声を発することなく口を閉じ、しおしおと肩を下げた。それから怯えたようにぎこちなくグレアムのほうを振り返る。


「ごめんなさい、アクトン先輩。あの人たち、わたしが学校で騒ぎを起こしたことは知っているんですけれど、たぶんそれが先輩のこととは知らなくて……」


 どちらも一般階級で貴族の話題には詳しくないのだ、だから悪気はないはずだ、とロージーは縮こまった。居心地悪そうにもじもじと指を動かしている。


「それに、あの、ここに居るのも本当に偶然で……。派遣先がアクトン領だって聞いて、私も驚いたんです。でも、下っ端のわたしに拒否権なんてあるわけもないし……。だから、下心とかやましい考えなんて本当になくて」

「……なんの話だ?」


 仕事でいるだけなのになにをつらつらと並べ立てているのか、とグレアムが首を傾げると、ロージーはぽかんと口を開けた。大きな琥珀色の瞳でまじまじとグレアムの顔を見つめた後、肩をがっくりと落としていく。


「…………なんでもないです」


 項垂れたことで垂れ下がった亜麻色の髪の下で、ロージーの口がわずかに歪む。苦笑いを浮かべた彼女は、お久しぶりです、と改めてグレアムに頭を下げた。


「元気にしていたか」

「はい。あれから、カタリナ様に良くしていただきました。社交界だって渡り歩けるようになりましたし」


 学校で友だちだってできたんですよ、と言う彼女は、少々得意げだった。どうやらグレアムが卒業した後の最終学年は、うまく学生生活をやっていたらしい。好成績も残して卒業できたそうだ。


「技術者の道を選んだんだな」

「ええ。ちょっとでもキャラハンの家から離れたくて。地方勤務のある技術職にしました」


 カタリナのお陰で、学校生活も、貴族社会もなんとかうまくやれていたロージーだったが、キャラハンの家族との折り合いはうまくつけられなかったそうだ。特に、父親と異母兄との仲が拗れたらしい。分かち合うことは不可能だと察したロージーは、キャラハンの人間と関わり合うことを諦め、実母と家を出たそうだ。


「もちろん完全に決別、とはいきませんでしたけど。わたしがキャラハンを名乗って魔法師として活躍していく代わりに、わたしと、わたしの母にはもう干渉しない約束で」


 グレアムは先程ラントと挨拶を交わしたときのことを思い出した。彼は、彼女のことを〝ロージー〟と呼んだ。貴族としての名である〝ロザンナ〟ではなくて。

 彼女は本当に、貴族の娘である〝ロザンナ・キャラハン〟を止めたのだ。


「それで良かったのか?」

「いいんです。すっきりしました。お母さんは、まだ父に未練があるようですけれど。でも、落ち着いた生活を送れています」


 あんな家で生活していくなんてもうこりごりです、と笑うロージーの顔は朗らかとしていて、本当に貴族生活に未練を感じていないようだった。

 良かった、とグレアムは胸を撫で下ろす。あれから、カタリナにすべてを任せてしまう形となってしまったが、ロージーのことは気になっていたのだ。魔の森に配属されてからも、時折彼女のことを思い出していた。

 庶子である彼女を憐れんだのが、はじまりだった。それなのに、自分が不甲斐なかった所為でより彼女を崖縁へ追い込むことになってしまった――グレアムはずっと、そのことに責任を感じていた。

 その責任を果たせないことをずっと未練に感じていたが、彼女は彼女自身の力で、自らの道を選んだようだ。逞しいその姿に安堵する一方で、少し眩しく思える。


「幸せそうでよかった」

「そうですね。……はい、今は幸せです」


 噛み締めるように頷いて笑う。その笑顔は、グレアムが見てきたどの笑顔とも違って、太陽のように晴れやかだった。


「先輩は? どうでしたか、この三年」

「……悪くなかった。いや、良い三年間だったよ」


 サリックスのことも併せて、簡単に近況を伝える。気の置けない友人と逢って、周囲に認められるようになって。魔物が襲い来る森での戦いは厳しくあったが、それだけに自分の価値を高められる場所だった。あの場所で学び得たものはとてつもなく大きい、と感じている。


「だが、もう終わりだ。俺は父の跡を継ぐために励まなければならない」


 魔法師兵の肩書を返上して、気心の知れた仲間たちと離れ離れになって。あの充実した日々から遠ざかった自分の未来がどのようになるのか、とここに来てやはり不安に思う。決意してもまだ未練のある自分が情けない。

 難しい顔をして黙り込んだグレアムを、ロージーは訝しそうにのぞき込み、恐る恐る口を開いた。


「さっきも訊きましたけど……どうしてジュディス様を捜していらっしゃるんですか?」


 ロージーに尋ねられて、グレアムは思わず腕の中のサリックスを見た。灰猫は素知らぬ顔で尻尾を揺らしている。


「謝罪をしようと思って」

「謝罪?」

「三年前のことを。まだ本人にきちんと謝ることができていなかったから」


 ロージーの表情がふと消える。


「わたしも……謝りたいです。あのときのこと」


 俯いた視線の先で、組み合わせた両手をぎゅっと握る。


「でも、アルバさんたちはああ言ってくださいましたけど、わたしがジュディス様を捜すのは、やめたほうがいいと思うんです。だから、お手伝いはできません」


 ごめんなさい、と頭を下げる。自分はジュディスにとって恋敵で、あまつさえ彼女の人生を台無しにした原因だから、きっとジュディスは自分に会いたくないだろう、と。


「先輩方が仲直りをされること、祈っています。……どの口が言うんだって感じですけれど」


 自嘲気味に笑うロージーに、そんなことはない、と返そうとして、グレアムは一瞬踏みとどまった。かけるべきはそんな言葉ではないと感じた。彼女の後悔を取り払うように見せかけた罪悪感を煽るような言葉ではなく、もっと会話としては単純な言葉を探り当てる。


「……ありがとう」


 ロージーの顔に、ぎこちなく笑顔が浮かぶ。


「それでは」


 そうして踵を返したロージーだったが、数歩歩いたところでふと足を止めた。首を傾げるグレアムの視線の先で、彼女は思い出したように振り返ると、グレアムの名を呼んだ。


「一つだけ。わたし、今度結婚するんです」


 グレアムの目が見開かれる。少し離れたところに立つロージーは、照れくさそうにはにかみながら続けた。


「貴族じゃない一般の方なんですけど、わたしのこと唯一だって言ってくれる人に出逢えたんです」


 そこで一度言葉を切ったロージーは、胸に手を当て、瞼を閉じた。深呼吸をしているのか、肩が二度ほど大きく動く。


「だからもう、なにも心配いらないです」


 先輩はわたしのことを忘れてください、と琥珀色の瞳を輝かせて真っ直ぐな眼差しを投げるロージーの姿に、グレアムは衝撃を受けた。悪いものではない、けれど心の中でなにかが覆されるような、大きな心の揺さぶり。


「そうか」


 頷きながら、じんわりとなにかが胸の中を広がっていくのを感じた。安堵と喜びと、少しの寂しさと。彼女の言う通り、ロージーの人生で自分の出る幕はもうない。グレアムが心配する必要はもうないのだ。

 今こそが本当の、ロージーとの縁が切れるときだと悟る。

 グレアムは顔を上げ、精一杯の笑みを浮かべて言った。


「おめでとう。お祝いは贈れないが、幸福を祈っている」


 ロージーもまた、笑顔でもって応えた。


「はい。それでは」


 今度こそロージーはグレアムに背を向けて、坂を駆け上がっていった。その後ろ姿が向こう側に消えるまで、グレアムはじっと動かずに見送った。

 ふぅ、と一つ息を吐く。抱えていた荷物を一つ下ろしたような気分だった。


「ロージーは、きちんと前に進めたんだな」


 呟いて、グレアムはサリックスをそっと道の上に下ろした。座り込んだ猫が、真剣な眼差しでこちらを見上げてくる。自分たちはどうするのか、と言わんばかりに。


「俺も……俺たちも、ちゃんと前に進まないと」


 そのためにも、なんとしてもジュディスに会わなければいけない。

 グレアムは一度深呼吸をすると、坂の上を見据えて歩き始めた。その後ろをゆっくりとサリックスがついていく。

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