いつかヘリアンサスに誓って
森陰五十鈴
第一章 黄葉、散りゆく
図書館の眠り姫
窓の外で、黄色が揺れる。
冬を前に精一杯命を燃やす銀杏の色。扇形の葉は寒さに色をくすませて、けれど懸命に枝にしがみついていた。
薄暗い部屋の中で、ジュディスはその眩しい色を見つめる。顔が少し綻んだ。
黄色は、ジュディスの好きな色だった。ジュディスの一番の想い出の景色が、黄色に塗り潰された場所であるからだ。本当は秋の色ではなく、輝かしい夏の色なのだけれど、同じ系統の色を見るとどうしてもそのときのことを連想して幸せな気分になるから、一番好きな色。
そして、約束の色でもある。
「今年も、行けなかったな……」
窓の傍に置かれた四人掛けの大きな机を一人で占領したジュディスは、周囲の静寂を乱さないよう微かな声で呟いた。頬杖をついて思いを馳せる。この夏、今年こそは、と思って誘ってみたのだけれど、難しい顔をしたその人に断られてしまったのだ。代わりに別の場所を提案してくれて、そこでは楽しく過ごしたのだけれど――。
ガタガタ、と小さく窓の木枠が音を立てる。大きく揺れた銀杏の木に翳され、入り込む陽の光が少し陰った。
ふう、と小さく溜め息を吐く。自覚してしまった胸のわだかまりはその程度では晴れなかった。
彼は、いつもジュディスの気持ちを解ってくれない。渋い顔で、期待するジュディスから海のように深い青の瞳を逸らしてしまうのだ。
――来年こそは、きっと。
そう信じると心に決めて、ジュディスは手前の本に視線を戻す。
再び窓から入った暖かな日差しのもとで、紙の上の音符を追っていくうちに、その心地の良い温もりに身を委ね、ついには本の上に突っ伏した。
浅い寝息を立てるジュディスの向こうで、銀杏の木から一つ、また一つ。
はらり、はらり、と、窓の外で黄色い葉が落ちていく。
はらり、はらり、と、夕焼けの下で茶枯れた葉が落ちていく。
グレアムの視界を妨げるように、プラタナスの木から一つ、また一つ。
学校の敷地内に降り積もった冬の気配を踏みつけながら、グレアムは図書館へと向かっていた。紫紺のブレザー姿で冷たい風の中を突き進み、掃除夫が掃き損ねた枯れ葉を踏み荒らす足音は、彼の不機嫌さを物語っている。
芝の広場に埋められた四角い飛び石を渡ってしばし。グレアムの目の前には、褐色煉瓦を積み上げた倉庫のような矩形の建物。しかし入り口だけは分厚く大きな木の扉と豪奢な彫刻で飾られており、まるで神殿のような印象を受ける。
軋む扉を開けて中に入れば、二階まで吹き抜けの通路を挟んで書庫が真っ直ぐに並んだ圧巻の光景。アメラス魔法師養成学校の図書館は、この書棚と赤褐色の壁と木の調度品の温もりのある内装で名建築としてアメラス国内で名を馳せている。……そのわりに、利用者は学内の人間に限定されているため、来館者は少ないのだが。
グレアムは両脇の棚に目を向けることなく、吹き抜けの通路を歩いていく。落ち葉がなくとも、その足音は未だ荒い。それでも館内に響く音を咎める者が居ないのは、彼の不機嫌さに恐れをなしたからか。それとも、あまりにいつもの光景に、慣れてしまったからなのか。
通路を半ばまで突き進んだところで、左に折れる。そこは読書用の机が立ち並んだ区画だった。他の区画とは違い、本に配慮されていない大きい窓。入り込んだ西日の向こうに揺れているのは色づいた銀杏の木だ。もう少しすれば臭いのする実を落とす木は、図書館の隅にだけ植えられている。
窓ごとに置かれた机の一つ一つを見渡し、人の居る席を見つけた。赤身の強い光の中でも藍の輝きを放つ長い髪。そちらへと足を向ける。
机に広げた本を抱くようにして、娘が眠っていた。ハーフアップにしてもなお、腰まで届く藍色の長い髪。解れ毛が掛かる顔は抜けるように白く、制服である紫紺のジャケットとスカートを纏った身体は細い。
西日の中にぽつんと置き去りにされた夜の精。
詩的に表現すれば、そんな言葉が出てくるだろう娘を、グレアムは深海の瞳でじっと見つめた。やがて、瞼を閉じて一呼吸すると、その細い肩に手を伸ばす。
「起きろ、ジュディ」
そっと揺さぶる。一度、二度。その程度では起きないので、少し強くしてもう二回。それでも起きないので、焦れて背中を弱く叩けば、ようやく彼女は目を覚ました。
翠玉のぼんやりとした目をしばたたかせ、目をこすり、眠りを妨げた男を見上げる。グレアム? と赤みを失った唇が小さく動いた。
「……授業は、終わったの?」
ゆっくりと発せられた擦れ声に、グレアムはたちまち瞑目した。眉間に皺を寄せ、苛立たし気に溜め息を吐く。振り上げた右手で短めのアッシュブロンドの前髪を掻き、飛び出しかけた怒声を宥めて、努めて冷ややかに言葉を紡ぐ。
「今、何時だと思っている」
寝起きでぼんやりしていたジュディ――ジュディスは、不思議そうな表情で窓のほうへと顔を向ける。茜色に焼けた空を見てようやく事態が認識できたようで、さっきよりもずっとぎこちない動作でグレアムのほうに顔を戻し、上目遣いで顰め面を見上げて、引き攣り気味な微笑を浮かべる。
「……寝ちゃった」
低く短い唸り声。感情のままに出掛けた罵声をグレアムが必死で飲み込んだ所為で、喉に少しダメージが残った。先程より深呼吸の回数を増やして気を落ちつける。
さすがにグレアムの怒りが伝わったらしい。ごめんなさい、と蚊の鳴くような声でジュディスは項垂れた。
「最近、気が緩みすぎじゃないのか」
低く指摘すれば、そうだね、とジュディスは誤魔化すように微笑んだ。ジュディスの授業の
「先程の演習も、俺の出番のときにこっそり出ていっただろう。つまり、はじめから怠ける気でいたわけだ。……いくら講師が大目に見てくれるからと言って、学校に来ている以上、学業を疎かにするものではない」
「はい。ごめんなさい」
そうして素直に頭を下げたかと思いきや、ジュディスは急にきらきらとした目で顔を上げた。
「でも、さっきのグレアムすごく格好良かった。あれだけ器用に炎を操るなんて……すごく繊細で、あんなに綺麗で……」
「そんな煽てに乗ると思うなよ、ジュディス」
そのときのことを思い出してか、遠くうっとりとした目で紡がれたジュディスの褒め言葉を、グレアムはにべもなく切り捨てた。自分の目を盗んで抜け出したと思っていたので、まさか実演を見られていたとは思わなかったが、彼女が怠けた事実は変わらない。熱のこもった瞳には絆されかけたが、見逃していい理由にはならない。
叱られた所為で急に勢いの衰えたジュディスは、ふいに自分の身を抱きしめた。
「……寒いね」
弱々しくこぼれた言葉に、グレアムはまたも溜め息を吐くと、自らのジャケットを抜いて彼女の肩に掛けてやった。いつの間にか赤い色を失くし、青い闇が満ちてきた図書館。彼女の身体は小さく震え、顔色は一層白くなっている。
「本を片付けてくる。お前は少し待っていろ」
そうして、机の上に広げられていた本に手を伸ばす。彼女が見ていたのは楽譜。
寝起きと寒さで弱ったジュディスには、扱いが難しい大きさと重さである。
すでに慣れたグレアムは、すぐさま本の収められていた書棚を見つけ出すと、楽譜を返却し、早足でジュディスの元に戻った。薄暗闇の中で一人座っているジュディスが、肩に掛けたジャケットの襟元を掴んで震えているのを見て、グレアムは目を細めた。ジュディスはもともと身体が弱い性質だ。しかし、いくら秋半ばとはいえ、ここまで寒さに弱かっただろうか。
司書が閉館を呼びかけ回っている声を遠くに聞きながら、グレアムはジュディスの手を取って立ち上がらせると、そのまま出口へと向かった。
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