グレアムとジュディス
薄闇を招かんとする空の下、芝生の上に白く浮かび上がる飛び石を二人で歩き、中央にガラス張りの
アメラス魔法師養成学校――略して、魔法師学校の学舎は、空から見てみると口の字型をしている。より正確には、二つの丸屋根を接合点としたコの字を向かい合わせにした形。北側と南側、それぞれ六階まである大きな建物は、魔法師学校の学徒約千人の日常のほとんどが収められている。特に北の一階部分、口の字の上辺の半分をまるまる使用した白壁の空間は、日に三度ある最も大事な行事――食事を司る場所だ。
グレアムは食堂に入ると、カウンターでホットミルクを一つだけ頼む。それから、先に席についていろ、とジュディスの背を押して促し、自分は注文の品が出てくるのを待った。夕食にはまだ早めの時間。席はまばらで、食堂は静かと言っていい。落ち着いて食事ができそうだ、とそんなことが頭を過ぎれば身体が空腹を訴えだすが、ジュディスの体調を慮ると、悠長に食事ができるのを待っている余裕はなさそうだ。食事の注文は後回しにして、彼女にホットミルクを運んでいく。
傷の多い長い木の食卓の隅に腰かけたジュディスにマグカップを渡し、自分はその対面に座る。怖々とした様子で口付けて猫のように舌先を引っ込めた彼女を、グレアムは呆れた様子で眺めていた。
ジュディス・ウェルシュは、グレアムの婚約者だ。今から七年前、グレアムとジュディスが互いに十一のときに取り決めがされた。どちらも貴族の生まれで家は伯爵位。財政も逼迫していなかったのだが、早いうちから結婚を決めたのはいったいどういう訳だったか。
グレアムは、アクトン家の唯一の嫡男だった。幼い頃から後継者としての教育を受ける一方で、魔法を操る才にも恵まれた。いずれ領地経営と国政に携わる身で、魔法学の研究開発と国の防衛のどちらかを担う魔法師としての教育を受けているのは、そのためだ。せっかくの技術、磨いても損はない、とのことで父が入学を勧めたし、グレアムにとっても魔法の技術を磨くことは望んでいたことでもあった。
一方ジュディスは、ウェルシュ家の末娘。姉と兄が一人ずついるが、特に後継者である兄ディック・ウェルシュは、当代最強と呼ばれる魔法師だ。そんな兄を持つだけに、彼女も魔法の才に恵まれているのだが……残念なことに、幼い頃より病弱だった。五歳の頃から寝込みがち。九つを数える頃まではベッドの中に居ることが多かったようである。もっとも、それ以降は体力が付いたのか、グレアムと婚約してからは寝込む様子を見せることはあまりなかったのだけれども。
そんな虚弱体質のジュディスが、こうして寮制の学校に入っているのは、魔力の扱いを覚えるためである。呼吸をするだけで体内に取り入れられる魔素は、彼女の身体を蝕む一因。しかし、魔素を力とし、魔法として放出させる術を覚えれば、少しは自分で体調を整えられるだろう、と目論んでのことである。
はじめのうちは、真面目に取り組んでいたように思う。実際彼女も兄に倣って魔法は優秀、それなりの技術を身に着けていたように思うが、あるときから急に魔法を使うことに消極的になり出した。魔法師ともなれば、日常の些細な事でも魔法を使いたがるものだが、彼女はその例に入らず、他の人と変わらない地道な生活を送っていた。
そればかりか、授業に出ることすら拒みだした。座学のときは大人しく席にいるが、演習ともなれば隙を見て逃げ出す始末。体調でも悪いのか、と思ったが、捜してみれば、外で暢気に歌を唄っていたり、図書館でああして勉学に関わらない本を読んでいたり。三ヶ月くらいして、怠けているのだと判った。一時期は兄に続いて魔法師として名を馳せることを期待されていたというのに、いったいどういうことだろうか、とグレアムは訝しく思っている。
そして、腹立たしくもある。自分はこれほど頑張っているのに、彼女はどうして――
コトリ、とマグカップが卓の上に置かれる。ふう、と人心地着いた頬には赤みが差していた。両掌で包み込むようにカップを持ったまま、ふんわりと微笑みかける婚約者。ようやく調子が戻ってきたようで、グレアムも少しほっとした。
「食事にするか?」
「うん」
ジュディスの注文を聞き、グレアムは立ち上がった。再びカウンターへ行き、食事を注文。トレイの上に出てくるのを待つ。
魔法師学校は、貴賤を問わず学徒たちが集められている。だからなのか、食堂に給仕はおらず、学徒ひとりひとりが自分の食事を運搬することになっていた。貴族は家から使用人を連れてくる、なんてこともない。誰だろうと、どんな立場だろうと、自分のことは自分でやるのがこの学校のモットーの一つ。それに倣って、グレアムもまた食事は自分で運搬する。……ジュディスの分も持っているのは、偏に彼女が体調不良であるからで、甘やかしているわけではない。決して。
婚約者に合わせて魚と野菜中心の胃に優しい食事を平らげて、懐中時計を取り出す。
時間を確認したついでに砂粒のようなルビーを軸にしてテンプが揺れ動いているのを眺めていると、ふふっ、と小さな笑い声が聞こえた。まだ半分ほどしか進んでいない食事の手を止め、ジュディスが翠色の目を細めて嬉しそうにしている。
「それ、使ってくれてるんだね」
一つ、グレアムは頷いた。
「折角のプレゼントだからな」
新学年へと移行する前の夏休み。婚約者という関係性もあって、グレアムとジュディスはともに行楽地へ滞在するのが毎年の恒例行事となっていた。もちろん、双方保護者同伴付きの旅である。今年の夏は、アメラス国内の古都として名高いユートという町へと赴いた。一見時代に取り残されたように思える石造りの街は、実は技術者の街でもあり、特に時計などの精密機器が数多く作られている。
そのユートの町で作られた懐中時計を、ジュディスは、初秋生まれのグレアムの少し早いお祝いに、と贈ってくれたのだ。密かに準備されていたのだろう、本人の伺いなどなにもない唐突なプレゼントであったが、彼女が選んだこの時計は見事にグレアムの好みを反映させており、その日以来グレアムはずっとこれを持ち歩いていた。
ジュディスはそれがとても嬉しかったようで、この時計を技術者に発注したときのことを食べながら聴かせてくれた。食事の手はさらに緩やかになるが、グレアムは辛抱強く相槌を打つ。ジュディスはなお楽しそうに話を続ける。
そうしてようやく、白身魚のソテーが片づけられる。
満腹に溜め息を吐いたジュディスは、ふとグレアムの名を呼ぶと、組んだ手に顎を乗せ、じっと上目遣いでグレアムをじっと見つめた。
「ねえ。私、来年こそはカンテに行きたいな」
本人からしてみれば、旅行の話の流れで出てきた話題だったのだろう。アクトン家が管理する領地の中に在る、夏に咲く黄色の花畑で有名な行楽地。随分前から彼女が言い続け、しかし一度たりとも希望を受け入れられなかった場所。その名を聞いた瞬間、一見して不愛想な顔に穏やかな表情を浮かべていたグレアムの頬が引き攣った。
「それは――」
なにか言葉を発しようとして言い淀み、結局黙り込む。眉根を寄せ、奥歯を噛み締めて、苦い物を堪えるかのようにグレアムは食べ終えた皿に視線を落とした。
そんな彼を、じっと真摯な色をした翠瞳が見つめる。
「お願い」
普段よりも低く放たれた真剣な言葉。しかし、グレアムは瞑目して婚約者の言葉を受け流した。懐中時計を胸のポケットにしまうと、椅子を引いて立ち上がる。
「……考えておく」
すっかり表情の抜け落ちた顔で短く一言そういうと、自分とジュディスの分のトレイを返却用のカウンターへと運んでいった。
いつもは慎重に運ぶ、食器の載ったトレイ。飲み残しのグラスの水が周囲に零れていた。
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